デジタル大辞泉
「中原」の意味・読み・例文・類語
なかはら【中原】[地名]
神奈川県川崎市の区名。中心の小杉は、江戸から平塚市中原に至る中原街道の宿駅として発達。
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ちゅう‐げん【中原】
(一)[1] 〘 名詞 〙
(一)① 広い野原の中央。
(一)[初出の実例]﹁中原抽二玉藻一、上苑用二瓊敷一﹂(出典‥本朝続文粋︵1142‐55頃︶一・西府作詩︿大江匡房﹀)
(二)[その他の文献]︹詩経‐小雅・小宛︺
(二)② 天下の中央の地。辺境や蛮国に対していう語。中国。天下。︹唐詩選国字解︵1791︶︺ ︹春秋左伝‐僖公二三年︺
(三)③ 転じて、政権を争う舞台。また、競争の場。
(一)[初出の実例]﹁周二旋於中原一者。其在二斯人一歟﹂(出典‥談義本・風流志道軒伝︵1763︶叙)
(二)[2] 中国の黄河中流域の平原地帯。河南省・山東省西部・河北省と山西省の南部・陝西(せんせい)省東部を含む。漢文化発祥の地で、周代まで政治の中心地であった。チョンユマン。ひいて、中華、中国。
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中原
なかはら
[現在地名]真田町大字本原
往古原(はら)之(のご)郷(う)として一郷であったが、元和八年︵一六二二︶に上(かみ)原(はら)・中原・下(しも)原(はら)の三ヵ村に分れた︵小県郡史︶。このうち中原村は、松代道沿いに町割の残る中原︵上原の北に屋並が続いている︶のほかに、中原の北東に竹(たけ)室(むろ)、同じく西に番(ばん)匠(じよう)、北西に新(あら)井(い)の集落がある。
中原は松代道と真田村を経る上州道の分岐点で、上原とともに宿場であった。宝永三年︵一七〇六︶の原之郷指出帳︵上田藩村明細帳︶にある中原村は、家数一一一軒、人数四三七人。
中原
なかはら
[現在地名]宜野湾市中原・神山
神(かみ)山(やま)地区の北部にある。もとは明治期に喜(ちゆ)友(んな)名(ー)村・神(かみ)山(やま)村にまたがる普(ふて)天(い)間(ま)街道沿いの地に、士族が移住して開いたバサーサクとよばれる屋取集落。地名はバサウー︵芭蕉︶が群生していたことにちなむという︵宜野湾市史︶。
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中原【ちゅうげん】
中国の華北平原一帯をいう。もと周の畿内と漢族諸侯の封地のあった地域をさし,山東省西部,河北省,河南省,山西省南部,陝西省東部を含む黄河中下流域である。文化・経済の最も発達した中心地で,ここの主権を握ることが中国の制覇と同じに考えられ︿中原に鹿(ろく)を逐(お)う﹀という言葉が生まれた。
→関連項目開封|河南﹇省﹈|函谷関|漢水|呉|周|城子崖遺跡|楚|中華人民共和国|平型関
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中原 (ちゅうげん)
Zhōng yuán
中国古代文化の中心で,漢民族発展の根拠となった地域。今日の河南省を中央に東は山東省の西部,西は陝西省の東部にわたる,黄河中下流域の平原をさす。春秋戦国時代には周の王都がその中心に位置していたので,中原を制すれば天下を取ることができると考えられた。成語の︿中原に鹿を逐︵お︶う﹀とは天下を争奪する謂である。のち漢民族の勢力が四方に伸び,とくに南方に発展してからも,民族の故郷の地として重視された。
執筆者‥日比野 丈夫
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普及版 字通
「中原」の読み・字形・画数・意味
【中原】ちゆうげん
国なか。中国。宋・陸游︹児に示す︺詩 王師北のかた中原を定むる日 家祭、
るること無(なか)れ、乃
(だいをう)に
ぐることを
字通﹁中﹂の項目を見る。
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中原
なかばる
東部にある。 1971年町制。 2005年北茂安町,三根町と合体し,みやき町となる。早くから開けた地で,古墳や古代遺跡がある。米作,畜産が行なわれる。第2次世界大戦後,東に隣接する鳥栖市に続いて工業化が進み,機械,自動車部品などの工場が進出。古社綾部八幡神社がある。
中原
ちゅうげん
Zhong-yuan; Chung-yüan
古代中国の中心地域で,転じて中国とか天下の意。古代中国文化が繁栄した周とその封建諸侯の地域をさし,異文化をもつ民族を周辺の東夷,西戎,南蛮,北狄などの蔑称と対比させて用いた。黄河中流域で現在の河南,山東省西部,河北,山西省南部,陝西省東部であったが,時代とともに拡大され,南北朝には黄河下流域も入り,宋,元,明では揚子江流域の江南に対して華北一帯を呼ぶ。
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中原(ちゅうげん)
東周時代の都洛陽のある河南省を中心とした華北をさすが,天下を象徴的に表現している。﹁中原に鹿を逐う﹂とか﹁中原に鹿を得る﹂というように,周王の権威が失われてからは諸侯が天下を争う場となった。﹁中原の鹿﹂は天子の位をさしている。中国や中華も中央を示すが,中原の﹁原﹂には,多くの勢力が覇権を争った黄河下流の大平原であることが強調されている。
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中原(中国)
ちゅうげん
夏(か)、殷(いん)、周三代が都を置き、中国文化の発祥地とされる黄河中流域を中心とした地域。中華、中国ともよばれ、周辺の夷狄(いてき)の地とは区別される。しかし、漢民族が形成され絶えず周辺諸民族を同化させながら中華の枠が拡大していくにつれ、中原の地も拡大していく。魏晋(ぎしん)南北朝時代に揚子江(ようすこう)中・下流域を中心とする江南が開拓され、北宋(ほくそう)代以降はその地が華北にかわって経済的中心地になると、華北全体を中原とよぶようになる。
﹇鶴間和幸﹈
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中原
ちゅうげん
中国古代文明の発生地である黄河中下流の平原
古来,文化・経済の最も発達した地域であるため,この地方をおさえることが全中国統一の前提とされ,「中原に鹿を追う」の語が生まれた。
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世界大百科事典(旧版)内の中原の言及
【吹上[町]】より
…中世には伊作は[伊作荘]に,永吉は日置南郷に属し,ともに島津氏の直轄領として栄えた。江戸時代には伊作荘は伊作郷,日置南郷は永吉郷となり,伊作郷の中原には島津氏の居城亀丸城が置かれ,城下町として栄えた。基幹産業は農業で,稲作,タバコ,野菜栽培を主とし,養豚,ポンカン栽培も行われる。…
【河南[省]】より
…4地区,13地級市,25県級市,91県からなり,省都は鄭州市である。中国の古代地理書である︿禹貢﹀(︽書経︾の中の一編)には九州の一つとして予州とみえ,ほぼ天下の中央に相当するので中州または中原ともよばれた。もともと河南とは黄河の南岸に近い洛陽地方を意味し,中国文化発生地の一つである。…
※「中原」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」