デジタル大辞泉
「力道山」の意味・読み・例文・類語
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りきどうざんリキダウザン【力道山】
(一)プロレスラー。朝鮮生まれ。本名、百田光浩。相撲力士からプロレスに転向。空手チョップで人気を博し、プロレス興隆の第一人者として活躍。大正一三~昭和三八年︵一九二四‐六三︶
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力道山
りきどうざん
(1924―1963)
昭和期の力士・プロレスラー。プロレスリング元インターナショナルヘビー級チャンピオン。第二次世界大戦前の朝鮮北部の生まれと伝えられるが、長崎県大村市の農業・百田巳之助(ももたみのすけ)と養子縁組して本名・百田光浩(みつひろ)として帰化。1939年︵昭和14︶大相撲(おおずもう)二所ノ関部屋に入門。1940年の5月場所で初土俵。1946年入幕。1949年関脇に昇進したが、翌1950年廃業。大相撲での成績は135勝82敗。1951年、元世界チャンピオン、ボビー・ブランズBobby Bruns︵1914―1983︶の協力でプロレスリングを始め、アメリカでプロレスラーとしての実績を積む。1953年、日本プロレスリング協会を設立。1954年2月、世界タッグチャンピオン、シャープ兄弟Ben Sharpe︵1916―2001︶、Mike Sharpe︵1923―1988︶を招いてプロレス興行を行い、武器とする空手チョップで巨漢のシャープ兄弟をたたきのめし、戦後の日本人の対アメリカ・コンプレックスを吹き飛ばし、大ブームをつくる。プロレスブームはテレビの普及にも貢献し、戦後史を彩った。1954年12月、柔道出身︵元柔道日本選手権者︶の木村政彦(まさひこ)︵1917―1993︶を破り、初代プロレス日本選手権者となる。1958年、ルー・テーズLou Thesz︵1916―2002︶を破ってインターナショナルヘビー級、1962年フレッド・ブラッシーFred Blassie︵1918―2003︶を破ってWWA世界ヘビー級など、数々のタイトルを獲得。また、ジャイアント馬場、アントニオ猪木(いのき)など多くの後進を養成。日本にプロレスリング興行を確立したが、1963年12月9日暴力団員に刺され、15日その傷がもとで死亡した。
﹇流 智美 2022年11月17日﹈
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力道山 (りきどうざん)
生没年:1924-63(大正13-昭和38)
日本プロレス界に一時代を築いたレスラー。朝鮮出身で本籍は長崎県。本名百田光浩。1939年二所ノ関部屋に入門,翌40年力道山の醜名︵しこな︶で初土俵,得意の張手で46年入幕,49年に関脇に昇進したが,50年8月夏場所後に引退,プロレスリングへ転向した。52年に渡米して修業後アメリカ国内を転戦,300戦して5敗の好成績をおさめた。53年に日本プロレス協会設立,54年2月招待した世界タグチャンピオンのシャープ兄弟との試合は,草創期のテレビで放映され人気を博した。同年12月には柔道から転向した一方の雄,木村政彦と対決し,得意技︿空手チョップ﹀で勝ち,日本選手権を獲得した。55年には元横綱東富士を加え,タグを組んで活躍した。58年にルー・テーズを破りインターナショナル選手権を獲得,以後19回防衛した。このほか不動産経営など多方面で活躍したが,63年暴力団員に刺された傷がもとで死亡した。敗戦後の日本のヒーローであった。
執筆者‥広畑 成志
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力道山【りきどうざん】
力士,プロレスラー。朝鮮生れ,本籍は長崎県。本名金信洛(キムシンラク),戸籍上の名は百田光浩(ももたみつひろ)。13歳の時に玉ノ海梅吉に見出され大相撲二所ノ関部屋へ入門。関脇まで昇進するが,1950年廃業。翌年プロレスへ転向。米国での修業を経て1953年に帰国し,日本プロレス協会を設立。︿空手チョップ﹀を武器にシャープ兄弟や柔道出身の木村政彦らと戦い,一大ブームを巻き起こした。また,民間テレビ放送の開始時期と重なり,プロレスを放送する街頭テレビが人気を呼んだ。1962年には日本人初のWWA世界チャンピオンとなるなど,日本プロレス界の基礎を作り上げた。翌年暴力団員に刺された傷がもとで死亡。
→関連項目ジャイアント馬場
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力道山
りきどうざん
[没]1963.12.15. 東京
プロレスラー。本名百田光浩,旧名金信洛。現在の朝鮮民主主義人民共和国 (北朝鮮) に生まれたが,のちに長崎県大村市の百田家の養子となった。 1940年大相撲二所ノ関部屋に入門,1946年入幕。 1950年関脇の座を最後に相撲界を去り,1951年プロレスラーに転向。 1952年渡米,1953年日本プロレス協会を設立した。日本におけるプロレスリングの創始者で,日本選手権,世界タッグ選手権,インターナショナル選手権など数々のタイトルを獲得したが,1963年暴力団員に刺された傷が元で死亡。弟子に,のちにプロレス界を支えたジャイアント馬場がいる。
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力道山 りきどうざん
1924-1963 昭和時代の力士,プロレスラー。
1924年11月14日朝鮮生まれ。昭和14年二所ノ関部屋に入門,24年関脇昇進。26年プロレスに転じ,空手チョップでプロレスブームの立て役者となる。ジャイアント馬場,アントニオ猪木らをそだてた。暴力団員にさされ,昭和38年12月15日死去。39歳。本名は金信洛(キム-シムナク)。戸籍名は百田光浩。
︻格言など︼天下の力道山はこんなことでは死なぬぞ(さされた直後のことば)
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世界大百科事典(旧版)内の力道山の言及
【プロレス】より
…このほかにもWWA,NWF,IWAなどの団体が結成されている。 日本では1951年に初めての本格的なプロレス興行に参加した元大相撲関脇の[力道山]が,アメリカ修行を経て53年に帰国,日本プロレス協会を設立し,翌54年〈空手チョップ〉を武器にシャープ兄弟らと戦い,一大ブームを巻き起こした。〈悪い外人〉をうち負かす力道山は敗戦後の沈滞,鬱屈した国民の気持ちを大いに刺激した。…
※「力道山」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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