加藤弘之(読み)カトウヒロユキ

デジタル大辞泉 「加藤弘之」の意味・読み・例文・類語

かとう‐ひろゆき【加藤弘之】

 
18361916()()  

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精選版 日本国語大辞典 「加藤弘之」の意味・読み・例文・類語

かとう‐ひろゆき【加藤弘之】

 

(一)
 

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「加藤弘之」の意味・わかりやすい解説

加藤弘之
かとうひろゆき
(1836―1916)


()7623()()()()18601調()西18611()18701875()()

 187710()1882()18931900

 1912()



195934 西1971

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改訂新版 世界大百科事典 「加藤弘之」の意味・わかりやすい解説

加藤弘之 (かとうひろゆき)
生没年:1836-1916(天保7-大正5)


18601調西681187073187582︿9019060719111900

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百科事典マイペディア 「加藤弘之」の意味・わかりやすい解説

加藤弘之【かとうひろゆき】

 
()()調()1882
 

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新訂 政治家人名事典 明治~昭和 「加藤弘之」の解説

加藤 弘之
カトウ ヒロユキ


肩書
枢密顧問官,東京大学初代総長,帝国学士院初代院長

別名
幼名=土代士 弘蔵 前名=成之 誠之

生年月日
天保7年6月23日(1836年)

出生地
但馬国出石城下谷山町(兵庫県出石町)

学位
文学博士〔明治21年〕 法学博士〔明治38年〕

経歴
早くから西洋兵学、蘭学を学び、万延元年蕃書調書教授手伝となり、ドイツ語を通じて西洋の政治社会の研究にはいる。元治元年開成所教授職並となり、大目付などを経て、維新後新政府に出仕、大学大丞、文部大丞、外務大丞など歴任。明治8年元老院議官、10年東京大学初代綜理、23〜26年帝国大学総長。その後、宮中顧問官、帝国学士院初代院長、枢密顧問官などを歴任した。啓蒙学者として幅広く活躍し、明治元年の「立憲政体略」で立憲政体を初めて日本に紹介。また、明治政府の下で天皇に進講したブルンチュリーの「国法汎論」は日本国家学の出発点となった。他に「真政大意」「国体新論」「人権新説」「自然と倫理」などの著書がある。

没年月日
大正5年2月9日

家族
息子=加藤 照麿(貴院議員・男爵) 孫=浜尾 実(宮内庁東宮侍従)

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朝日日本歴史人物事典 「加藤弘之」の解説

加藤弘之

 
5.2.9(1916)
7.6.23(1836.8.5)
(),,1(1860)調,1(1864),,,8(1875),10,23,26,,,,(1868),(1870),(1874),,15,,20(),,,,<参考文献>,  
()
 

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「加藤弘之」の意味・わかりやすい解説

加藤弘之
かとうひろゆき

[生]天保7(1836).6.23. 但馬,出石
[没]1916.2.9.
幕末から明治にかけての政治学者。佐久間象山のもとで西洋法学を修め,坪井為春に蘭学を学んだ。万延1 (1860) 年に幕臣となり,開成所准教授,大目付勘定頭をつとめた。その間にドイツ語を学び,『隣草』『立憲政体略』を著わし,立憲政体論を初めて日本に紹介した。のちに明治新政府の政体律令取調御用掛となった。 1873年森有礼らと明六社を組織。『真政大意』『国体新論』を著わし共和論,天賦人権論を唱えたが,74年民撰議院設立には時期尚早として反対。 82年『人権新説』を著わし,天賦人権否定論,生存競争説を展開した。 77年東京大学綜理,90年帝国大学総長,さらに貴族院議員,枢密顧問官,帝国学士院院長などを歴任。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「加藤弘之」の解説

加藤弘之 かとう-ひろゆき

1836-1916 明治時代の政治学者,教育者。
天保(てんぽう)7年6月23日生まれ。佐久間象山にまなび,蕃書調所教授手伝となる。「鄰草(となりぐさ)」をあらわして欧米の立憲思想を紹介し,明六社に参加。明治7年(1874)民撰議院設立論争で尚早論をとなえる。15年「人権新説」を刊行し,進化論の立場から天賦人権説を批判。14年東京大学綜理,23年帝国大学総長。枢密顧問官。帝国学士院長。大正5年2月9日死去。81歳。但馬(たじま)(兵庫県)出身。
【格言など】神が造物主でなくて人間が造神主であると言わなければならぬ(「迷想的宇宙観」)

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「加藤弘之」の解説

加藤弘之
かとうひろゆき


1836.6.231916.2.9

1860()調()77(10)812901906

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旺文社日本史事典 三訂版 「加藤弘之」の解説

加藤弘之
かとうひろゆき

 
18361916

 () 1882  

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世界大百科事典(旧版)内の加藤弘之の言及

【社会進化論】より

… 欧米における進化論の啓蒙期と明治の西欧思想のとり入れ時期とが重なったため,日本には大量の西欧思想の一部として,最新の社会ダーウィニズムも流入した。その代表は東大総長,貴族院議員を歴任した加藤弘之である。彼は《人権新説》(1882)を著して,それ以前の自説を撤回し,人間においても生存闘争による優勝劣敗は必然であると力説した。…

【進化論】より



【天賦人権論】より

…原始儒教的な宇宙万物の主宰としての天の観念,あるいは人間にはア・プリオリに道徳性が賦与されているという儒教的な観念などを媒介として,近代西欧の自然権natural rightsの観念が導入されたところに成立した。天賦人権の思想は,明治初年に福沢諭吉や加藤弘之ら啓蒙思想家によって,対外的独立を達成するために,封建的身分制を打破して人民全体を国家の主体的担い手に高めるという意図と結びついて主張されはじめた。新政府の指導者も,封建的身分制と割拠制を克服して中央集権的国家体制を確立するという関連で,この思想を受け入れ利用した。…

【ドイツ】より


使 

【部落解放運動】より


()1871(4)(︿)

※「加藤弘之」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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