デジタル大辞泉
「司馬光」の意味・読み・例文・類語
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しば‐こう‥クヮウ【司馬光】
(一)中国、北宋の学者、政治家。字(あざな)は君実。諡(おくりな)は文正。斉物子(せいぶつし)と号し、温国公、温公などと称された。山西夏県の人。神宗のとき、王安石の新法に反対して引退。次の哲宗のとき宰相になり、新法を廃し旧法に復した。著書に﹁資治通鑑(しじつがん)﹂があり、文集を﹁司馬文正公集﹂という。七歳のとき、庭の水瓶に落ちた友を瓶を石でわって助けた故事は有名。︵一〇一九‐八六︶
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司馬光 (しばこう)
Sī mǎ Guāng
生没年:1019-86
中国,北宋中期の歴史学者,政治家。字は君実,諡︵おくりな︶は文正。温国公に封ぜられたため司馬温公とも呼ぶ。山西省の南西部夏県涑水︵そくすい︶郷の出身。父の司馬池は杭州などの州知事で終わった。幼少から沈着で老成の風があり,すべてに謹厳で字を書いても一字もゆるがせにしなかった。1038年︵宝元1︶20歳で科挙の上位に合格,簽蘇州判官事︵蘇州の総務部長︶をふりだしに太原の副知事などを歴任,早くから中央に戻った。1061年︵嘉祐6︶諫官となり,おりから始まった英宗の実父濮王︵ぼくおう︶の典礼問題︵濮議︶で,韓琦︵かんき︶,欧陽修らの宰相派に反対し,台諫派の論客として活躍した。神宗即位とともに翰林学士,御史中丞に進んだが,王安石が新法を実施するや,その急進的な諸政に反対し,激烈な論戦の結果,枢密副使を辞退して下野,判西京留司御史台という閑職ポストをもらって洛陽に隠棲した。
これより先,中国の史書の多くが,紀伝体で歴史事実の把握に不便であったため,1066年︵治平3︶編年体の︽通志︾8巻を作り,英宗にたてまつった。これが気に入られ,資料・財政面などで皇帝の全面的援助を受け,その事業を拡大継続することになる。以後,前後19年間,范祖禹︵はんそう︶,劉攽︵りゆうふん︶,劉恕︵りゆうじよ︶らの協力を得て,周の威烈王23年︵前403︶から五代後周末の960年まで,1363年間の編年体294巻の歴史書を完成。神宗から︽資治通鑑︾の名を賜った。皇帝と士大夫のあるべき姿︵儒教的倫理にもとづく名教の世界︶を歴史事実の叙述の中で示そうとしたこの書物は,司馬遷の︽史記︾とならぶ中国史書の双璧とたたえられる。1085年︵元豊8︶神宗が崩じ,10歳の哲宗がつぐと,長いあいだ政権から離れていた新法反対派︵旧法党︶が返り咲き,司馬光はその領袖に推されて宰相となった。しかし,政権の座にあること数ヵ月,政敵王安石に半年遅れて世を去る。王安石の新法のすべてを機械的に廃止し,のちの政局を混乱に導く糸口を作るなど,政治家としては時代逆行的であった。︽司馬文正公文集︾︽涑水紀聞︾︽稽古録︾などの著書が残る。
執筆者‥梅原 郁
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司馬光
しばこう
(1019―1086)
中国、北宋(ほくそう)の仁宗、英宗、神宗、哲宗の4代の皇帝の治世に活躍した官僚政治家。字(あざな)は君実。没後温国公に封ぜられたので司馬温公(おんこう)とも、山西省陝州(せんしゅう)夏県涑水(そくすい)郷の出身のため涑水先生ともよばれる。最後に宰相となり、いわゆる旧法党の領袖(りょうしゅう)として、王安石の行った新法に鋭く対決したが、その名はむしろ、1066年に勅命を受けて撰述(せんじゅつ)を開始し、84年に完成させた名著﹃資治通鑑(しじつがん)﹄︵歴代名臣事跡︶294巻により、司馬遷と並ぶ歴史家として今日に伝わっている。
少年のとき、大きな水甕(みずがめ)に溺(おぼ)れた幼児をその甕を砕いて救い出したエピソードは、物よりも人の生命を尊重した彼の哲学を伝えるものとしてよく知られ、温公といわれたゆえんでもあるが、この姿勢は彼の生涯にわたって貫かれたばかりでなく、﹃涑水紀聞﹄その他の彼の著述、とくに﹃資治通鑑﹄における記事の選択や評価の原点となっている。中国の戦国時代から五代王朝までの1362年間の通史であるこの書物が、有名な宋学︵呂(ろ)、張、朱、陸学︶の形成をはじめ、王夫之(おうふうし)、梁啓超(りょうけいちょう)の思想から毛沢東(もうたくとう)思想に至るまで有形無形の影響を及ぼしたのも、そのなかに人間の弱さについての普遍的認識が流れていたからであるが、さらに中国のほかベトナム、朝鮮、日本といった東アジアの諸地域にまで広がり、それぞれの地域の文化と民族の主体的自覚を促すのに寄与した。著書は多く、各分野にわたるが、上述のほか心の深層をうかがうものとして﹃温国文正公文集﹄﹃司馬温公詩話﹄などがある。
﹇山内正博﹈
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司馬光(しばこう)
Sima Guang
1019~86
涑水(そくすい)先生,温公とも称する。北宋中期の学者,政治家。陝州(せんしゅう)の夏県(山西省聞喜県)の人。王安石の新法に反対して洛陽で閑職につき,﹃春秋﹄にならって周の威烈(いれつ)王23年から,五代後周に及ぶ編年史﹃資治通鑑﹄(しじつがん)を著す。王安石の失脚後宰相となり,新法を次々廃止して,仁宗時代の旧法を復活したので,後世旧法党の中心人物とみなされた。
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司馬光
しばこう
Si-ma Guang; Ssǔ-ma Kuang
[没]元祐1(1086).9.
中国,北宋の学者,政治家。陝州夏県 (山西省夏県) 連水郷の人。字は君実。号は迂夫,迂叟 (うそう) 。諡は太師温国公文正,また温公。そく水 (そくすい) 先生と称される。地方官を歴任したのち,中央政府に入ったが,革新派の王安石と合わず,退いて﹃資治通鑑﹄の編集に専念した。哲宗が即位するとその宰相となり,王安石の新法を廃して旧法に復し,保守派の信望を集めたが,まもなく死亡した。その思想は儒学に老荘を交えている。その他の著書﹃潜虚﹄﹃司馬文正公集﹄がある。
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司馬光【しばこう】
中国,北宋の政治家,学者。字は君実,諡(おくりな)は文正公,通称を司馬温公。進士に合格後,約20年間地方官を歴任。のち中央に進出したが,王安石が神宗の庇護(ひご)の下で新法を断行したのに反対し,一時中央から退いた。以来15年,神宗の後援で︽資治通鑑(しじつがん)︾の編集に専念し,政治に介入することがなかった。哲宗即位後,旧法党の首領として中央政府に再登場し,旧法を復活させたが,数ヵ月で没した。
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世界大百科事典(旧版)内の司馬光の言及
【旧法党】より
…江南の先進経済地の現実を背に,中小自営農民の保護,貨幣経済を基礎とした[新法党]に対し,旧法党は北方の大地主・豪商の利権を代弁する保守的色彩が強い。司馬光,呂公著らが領袖で,哲宗の元祐年間(1086‐93)政権を握ると新法をすべて破棄,その後の新旧両党の争いを招いた。蜀党(蘇軾(そしよく)),洛党(程頤(ていい)),朔(さく)党(劉摯(りゆうし))などの派閥がある。…
【資治通鑑】より
…中国,北宋の司馬光が編んだ歴史書。全294巻。…
【宋】より
… これに対して既得権を侵害されることを恐れた官僚,大地主,大商人,それに宗室たちは猛然と反対したが,神宗は断固としてこれを遂行し,相当の成果を挙げ,財政は黒字に転じた。しかし神宗の没後,哲宗の摂政となった宣仁太后は,旧法党の領袖司馬光を宰相に任じて,新法をことごとく廃止し旧法にかえした。やがて哲宗が親政すると,今度は新法党人を起用したが,彼らは改革よりは反対派に報復することに力を注いだので,新旧両党の争いに拍車をかけることになり,政治の混乱を招いた。…
【中国文学】より
…唐の韓愈,柳宗元に蘇軾およびその父蘇洵︵そじゆん︶と弟蘇轍︵そてつ︶および王安石,曾鞏,欧陽修を加えて唐宋八大家という。このほか司馬光の︽資治通鑑︵しじつがん︶︾は編年体歴史の傑作であるが,文体は欧陽修に似て流暢であり,文学としても鑑賞にたえる。四六文は形式化したが,南宋末までなお公文書などに使われ,名家が多かった。…
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