吉原(読み)ヨシワラ

デジタル大辞泉 「吉原」の意味・読み・例文・類語

よしわら〔よしはら〕【吉原】

 
宿
3161731657()()()  

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精選版 日本国語大辞典 「吉原」の意味・読み・例文・類語

よしわらよしはら【吉原】

 

(一)[  ] ()=()
(二)[  ] 宿
(三)[  ] 
(一)[]()(1684)
 

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改訂新版 世界大百科事典 「吉原」の意味・わかりやすい解説

吉原 (よしわら)


161733︿︿11811241185625748︿︿5110︿使︿︿1︿1751-6424

 1750320003000︿1501946︿582
   



吉原 (よしわら)


駿宿312801124︿155423駿16016宿3916822宿西西宿1210宿65328322360194866

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百科事典マイペディア 「吉原」の意味・わかりやすい解説

吉原【よしわら】

 
()1657︿12()121︿()2000300019461958
宿宿宿  
 

 
19481966宿1駿  

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「吉原」の意味・わかりやすい解説

吉原
よしわら

江戸時代以来の東京の遊郭。元和3 (1617) 年牢 (浪) 人庄司甚右衛門が幕府の許可を得て,江戸市中のすべての遊女屋を日本橋葺屋 (現在の中央区日本橋人形町付近) に集めて傾城 (けいせい) 町をつくった。ここはヨシの茂る埋立て地であったところから最初「葭原」と称したが,のち縁起のいい「吉原」という字を用いたという。明暦3 (57) 年の大火で焼け,浅草山谷付近 (現在の台東区千束) に移転。ここは新吉原といわれた。以来大坂の新町,京都の島原と並んでにぎわいをみせ,遊里と称する特殊地帯を形成。大門口から仲町をはさんで,江戸町,揚屋町,角町,京町などが開け,周囲には堀がめぐらされた。寛延3 (1750) 年揚屋がなくなり引手茶屋に代り,遊女 3000を数えたという。寛政7 (95) 年には肝煎 (きもいり) 名主6人で運営することとなった。享楽地であると同時に社交場でもあり,音曲,浮世絵,歌舞伎,文学など江戸町人文化の源泉であった。明治以降も存続したが,1956年売春防止法の成立によって解散,一部が旅館,娯楽施設街となっている。 (→岡場所 )  
 


 
 1966宿駿2 ()   

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「吉原」の解説

吉原
よしわら

江戸の遊廓。1618年(元和4)それまで市中に散在していた売春宿を日本橋葺屋(ふきや)町に集めたのが始まりで,市域の発展により中心街に近くなったため,明暦の大火後の57年(明暦3)に浅草の先(現,台東区千束4丁目)に移転させた。以後,正式にはこれを新吉原,旧地を元吉原と称した。新吉原は約2万坪。周囲に溝を設け,出入りは大門(おおもん)の一方口とし,外観上も特別の区域とした。仲の町(ちょう)とよばれる中央の広い道路で左右に二分し,江戸町(ちょう)・京町(まち)・角町(すみちょう)など5町をおいた。開設時には揚屋(あげや)もあったが,18世紀中頃に廃絶し,代わって引手(ひきて)茶屋が遊興の中心となった。つねに3000人ほどの娼妓を抱えたが,幕末に退潮したまま明治期以後も存続し,1958年(昭和33)の売春防止法の施行で消滅した。

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旺文社日本史事典 三訂版 「吉原」の解説

吉原
よしわら

①江戸の遊里
②静岡県東部,富士市の一地区
江戸市中に散在する遊女屋を,1617年幕府が日本橋葺屋町に集めさせたのが起源。付近が葭 (よし) の茂る原であったので「吉原」と呼んだ。明暦大火('57)後,浅草千束の新吉原に移転,江戸文化の一中心となった。
江戸時代,東海道五十三次の宿場町として発達。駿河半紙の産地。1948年市制施行,'66年富士市・鷹岡町と合併し富士市となる。

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事典・日本の観光資源 「吉原」の解説

吉原

(静岡県富士市)
東海道五十三次」指定の観光名所。

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世界大百科事典(旧版)内の吉原の言及

【花魁】より

…吉原における上級遊女の別称。新造,禿(かむろ)などが専属の姉女郎を〈おいらの〉〈おいらがとこ〉などと呼んだのがなまって〈おいらん〉になったというが,ほかにも語源説があり,詳細は不明。…

【女歌舞伎】より

…なかで,遊女屋が経営する歌舞伎の座を遊女歌舞伎と呼ぶ。京では六条三筋(みすじ)町の遊女屋が四条河原で,江戸では吉原の開設当初は吉原の中に,のちには中橋でそれぞれ舞台を設け,男装したスター級の遊女である太夫(和尚とも呼んだ)の歌や踊りを中心に競って歌舞伎を興行した。お国歌舞伎との第一の違いは,当時最新の楽器である三味線をスターが弾いていることで,50~60人もの遊女を舞台へ登場させ,虎や豹の毛皮を使うなど,いっそう豪奢な舞台ぶりに,数万人もの見物を集めたという。…

【新造】より

…《あづま物語》(1643)は新しく出た太夫を新造とよんでいるが,後にはかむろ(禿)あがりの,姉女郎の部屋に同居中のものを新造といった。吉原ではかむろが14歳ぐらいになると新造として披露した。このとき歯黒めはするが,まだ振袖を着ていたので〈振袖新造〉といい,姉女郎の名代を勤めたりする見習の遊女であり,修行や人気など時期をみて,袖留をしたうえ部屋を与えて一人前の遊女にした。…

【洞房語園】より


1720(5)

【投込寺】より

…江戸吉原の遊女人口は享保年間(1716‐36)以降,3000人から4000人を数えるが,階層の低い遊女が半数を占めており,こうした遊女は死亡した後も無縁仏として,三ノ輪(みのわ)(現,荒川区南千住2丁目)の浄閑寺や,新鳥越橋南詰(現,台東区浅草7丁目)にあった土手の道哲(どうてつ)(浄土宗西方寺の俗称。現在,豊島区西巣鴨に移転),日本堤の正憶(しようおく)院(現在,足立区大谷田に移転)の山門の中に,なにがしかの銭を添えて投げ込まれた。…

【人形町】より


1617(3)︿57(3)1872(5)()

【引手茶屋】より



【富士[市]】より


1966(1948)(1954)229187(1995)

※「吉原」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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