大内弘世(読み)おおうちひろよ

日本大百科全書(ニッポニカ) 「大内弘世」の意味・わかりやすい解説

大内弘世
おおうちひろよ
(?―1380)


()()()()()()()()135493()63182()調66()7124()()8()寿


出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

朝日日本歴史人物事典 「大内弘世」の解説

大内弘世

 
2/6.11.15(1380.12.12)

,2/18(1363),,4/2(1371)  
()
 

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「大内弘世」の解説

大内弘世 おおうち-ひろよ

 
?1380 
()()()()(),,(),()()2=61115  

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

防府市歴史用語集 「大内弘世」の解説

大内弘世

 
   

出典 ほうふWeb歴史館防府市歴史用語集について 情報

世界大百科事典(旧版)内の大内弘世の言及

【安芸国】より

…観応の擾乱期には50年(正平5∥観応1)西条盆地の西条一族,吉田荘での毛利親胤,猿喰山城の山形為継らの南朝方としての挙兵と,これに対する守護軍勢の攻撃があり,翌年には土佐から安芸に移った常陸親王による諸氏への兵粮料所預置,52年には南朝方の毛利一族の拠る吉田城・坂城等に対する守護軍勢の攻撃,さらに今川頼貞指揮軍による守護軍への反撃と追落しなど戦争が連続するが,63年(正平18∥貞治2)山名時氏の幕府への降伏により鎮静化した。以後守護武田氏信による所領の安堵・預置が多く見られるが,同時に防長の大内弘世の安芸における活動が始まった。 弘世は66年石州平定後安芸に進出し,翌年厳島神主に口入(くにゆう)して高田郡長田・保垣等の下地を地頭内藤道泰に預けさせ,また諸豪族による国衙領に対する違乱停止を命ぜられた。…

【大内氏】より

…中世の西中国の雄族(図)。百済聖明王第3子琳聖太子が周防国多々良浜に着岸,聖徳太子より大内県を采邑とし多々良の姓を賜ったと伝える。鉄製錬技術をもち半島から帰化した氏族であろう。12世紀中葉から周防在庁の有力者で盛房以来周防権介を世襲し大内介と称した。13世紀後半惣領家は在国司ほかの要職を,庶家の問田(といた)・右田(みぎた)・鷲頭(わしず)の諸家も在庁の要職を保持し,同時に鎌倉御家人で六波羅評定衆。…

※「大内弘世」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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