大黒屋光太夫(読み)ダイコクヤコウダユウ

デジタル大辞泉 「大黒屋光太夫」の意味・読み・例文・類語

だいこくや‐こうだゆう〔‐クワウダイフ〕【大黒屋光太夫】

 
1751182821782()()102()()()()  

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改訂新版 世界大百科事典 「大黒屋光太夫」の意味・わかりやすい解説

大黒屋光太夫 (だいこくやこうだゆう)
生没年:1751-1828(宝暦1-文政11)


鹿綿21217831綿887892912使使

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「大黒屋光太夫」の意味・わかりやすい解説

大黒屋光太夫
だいこくやこうだゆう
(1751―1828)


()()鹿()1782212()17912924使93()()調()()()()()()()11415



1964

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朝日日本歴史人物事典 「大黒屋光太夫」の解説

大黒屋光太夫

没年:文政11.4.15(1828.5.28)
生年:宝暦1(1751)
近世の漂流民。伊勢白子(三重県鈴鹿市)に生まれる。天明2(1782)年,廻船神昌丸の船頭として江戸に向かう途中で乗組員16人と共に漂流。翌年アレウト列島(アリューシャン列島)アムチトカ島に漂着,在島5年ののち他の生存者と共にカムチャツカを経てイルクーツクに至り,キリル・ラクスマン(シベリア博物学者)の知遇を得る。1791(寛永3)年,帰国申請のためラクスマンに同行してペテルブルクに上京,エカテリーナ2世に拝謁し帰国を許される。『欽定万国語比較辞典』の編纂にあずかる。翌年,遣日使節に任じられたキリルの次男アダム・ラクスマンに伴われてオホーツクを出発,根室に帰着。翌寛政5(1793)年松前で,同行の磯吉と共に日本側に引き取られる。江戸で将軍徳川家斉らの謁見を受け,翌年,番町の薬園に収容されてそこで生涯を終えた。桂川甫周が光太夫の見聞にもとづいて著した『北槎聞略』は,ロシアに関する最初の見聞記となるとともに,近世の漂流記の標準的著作となった。本書の成功は聡明で観察力にすぐれ,ロシア語も話せた光太夫に負うところが大きい。<参考文献>亀井高孝『大黒屋光太夫』,桂川甫周編『北槎聞略』

(春名徹)

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百科事典マイペディア 「大黒屋光太夫」の意味・わかりやすい解説

大黒屋光太夫【だいこくやこうだゆう】

 
1782()()8421792()
 

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「大黒屋光太夫」の意味・わかりやすい解説

大黒屋光太夫
だいこくやこうだゆう

 
[]1(1751).
[]11(1828).4.15. 
2 (1782) 12駿74西17912 ()4 (1792) 使 A. ()   

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「大黒屋光太夫」の解説

大黒屋光太夫
だいこくやこうだゆう

1751~1828.4.15

近世後期の船頭・漂流民。伊勢国安芸郡白子(現,三重県鈴鹿市)生れ。1782年(天明2)12月白子浦を出帆して江戸に向かった神昌丸が,遠州灘で暴風雨にあい漂流,翌年アリューシャン列島のアムチトカ島に漂着。4年間在島したのちカムチャツカに移り,89年(寛政元)イルクーツクに到着。キリル・ラクスマンの知遇をえ,91年ペテルブルクを訪れ女帝エカチェリーナ2世に拝謁,帰国を許される。92年キリルの子アダム・ラクスマンの根室来航にともなわれ,小市・磯吉とともに送還された。小市は根室で死亡したが,光太夫・磯吉の2人は江戸番町薬園に軟禁された。桂川甫周(ほしゅう)が光太夫から聴取した「北槎聞略」は貴重なロシア情報となった。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「大黒屋光太夫」の解説

大黒屋光太夫 だいこくや-こうだゆう

1751-1828 江戸時代中期-後期の漂流民。
宝暦元年生まれ。伊勢(いせ)(三重県)の神昌丸船頭。天明2年江戸にむかう途中遭難しアムチトカ島に漂着。ロシアの首都ペテルブルグでエカテリーナ2世に謁見,寛政4年ラクスマンにともなわれ根室に帰着。江戸で取り調べののち番町薬園に生涯とめおかれた。桂川甫周(ほしゅう)の「北槎聞略(ほくさぶんりゃく)」は光太夫の見聞録。文政11年4月15日死去。78歳。名は幸太夫ともかく。

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旺文社日本史事典 三訂版 「大黒屋光太夫」の解説

大黒屋光太夫
だいこくやこうだゆう

1751〜1828
江戸後期の伊勢(三重県)の船頭
「幸太夫」とも書く。1782年,廻米のため伊勢から江戸へ航行中,嵐にあいカムチャツカに漂着。ロシア本国に送られペテルブルク(サンクトペテルブルク)で女帝エカチェリーナ2世に謁見。'92年使節ラクスマンの来日の際帰国した。『北槎聞略 (ほくさぶんりやく) 』はそのときの記録。

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世界大百科事典(旧版)内の大黒屋光太夫の言及

【シベリア探検】より

…彼はバイカル湖東部までの自然と民族に関する多くの資料を集めたが,その結果は《ロシア帝国各地方の旅》(1771‐76),《モンゴル諸民族の史料集成》(2巻,1776‐1808),《全世界言語比較辞典》(2巻,1787‐89)などとしてまとめられた。この辞典には270余の日本語の単語が含まれているが,これは当時ペテルブルグに滞在していた伊勢の漂流民大黒屋光太夫が監修を依頼されたものである。 1841‐44年および45‐49年,フィンランド出身の学者カストレンMathias Alexander Castrén(1813‐52)による西シベリアの民族と言語の調査が行われた。…

【鈴鹿[市]】より

…一方,海岸部の中心地白子は,紀州藩領で代官所が置かれ,藩米や伊勢木綿の積出港として栄えた。当地出身の大黒屋光太夫が1782年(天明2)白子を出港してのち遠州灘で遭難しロシアに漂着したのは,江戸への藩米輸送の途次のことであった。第2次大戦中,町村の集合体が市となった背景には,海軍航空基地,海軍工廠,陸軍飛行場などを設置した軍の要請があった。…

【日本研究】より

…【満谷 マーガレット】
[ロシア・ソ連邦,東欧]
 東方への拡大を続けるロシアは17世紀中葉までにオホーツク海に達し,18世紀には千島への進出,日本との通商を図った。日本についての情報は,オランダなどの西ヨーロッパの文献,および日本人漂流者(伝兵衛,大黒屋光太夫など)から得ていた。18世紀初頭の1705年,ピョートル大帝の命でペテルブルグに日本語学校が設けられ,漂流民伝兵衛を教師に任じ,きたるべき日本との交渉に備えた。…

【ラクスマン】より

…陸軍士官学校卒業後,1786年から95年までオホーツク海北岸のギジンスクの守備隊長をつとめた。父親はフィンランド出身の博物学者エリク・ラクスマンErik(Kirill) Gustavovich Laksman(1737‐96)で,イルクーツク居住中,日本人漂流民大黒屋光太夫らと親しく交際したことで知られる。1791年父エリクの奔走によってロシア政府が光太夫らの帰国を許すとともに日本との通商関係の樹立を企てたとき,次男アダムは父の推薦によって使節に任じられた。…

※「大黒屋光太夫」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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