幸田露伴(読み)コウダロハン

デジタル大辞泉 「幸田露伴」の意味・読み・例文・類語

こうだ‐ろはん〔カウだ‐〕【幸田露伴】

 
18671947()()()()()2218891  

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精選版 日本国語大辞典 「幸田露伴」の意味・読み・例文・類語

こうだ‐ろはん【幸田露伴】

 

(一)()使
 

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「幸田露伴」の意味・わかりやすい解説

幸田露伴
こうだろはん
(1867―1947)


()()()()372326()()4()()()()()()()18831685()()287()()西()

 188922()9()5()()退()1891921891彿()()18939590()宿()()()()()1896()()190305()1895190437()08111

 ()191419198()()20()3712194141941彿()使西22730



412119788019421948194931964

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改訂新版 世界大百科事典 「幸田露伴」の意味・わかりやすい解説

幸田露伴 (こうだろはん)
生没年:1867-1947(慶応3-昭和22)


1889189018911891-921893-951903-051919192019381940使退西

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百科事典マイペディア 「幸田露伴」の意味・わかりやすい解説

幸田露伴【こうだろはん】

 
()()西18891937141
西  

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20世紀日本人名事典 「幸田露伴」の解説

幸田 露伴
コウダ ロハン

 

,,, 





3723(1867)



22(1947)730



()



 ( )



=,=,,



17



()44



(1)12



1820221223116(24)(2425)(2628 )30(32)(34)(36)36()9127111315(41 )20


 

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朝日日本歴史人物事典 「幸田露伴」の解説

幸田露伴

没年:昭和22.7.30(1947)
生年:慶応3.7.23(1867.8.22)
明治から昭和時代の小説家,随筆家,考証家。26日生まれとも。本名は成行,露伴は号である。別号は叫雲老人,蝸牛庵,雷音洞主,脱天子。江戸下谷生まれ。父は成延,母は猷。幸田文の父。電信修技学校卒。電信技手として北海道に赴任したが,明治20(1887)年,文学を志して帰京。22年,『露団々』『風流仏』で作家としての地位を確立し,尾崎紅葉と人気を分かちあった。同25年,代表作『五重塔』を発表。ただし,長編小説は不得手で,『風流微塵蔵』(1893~)も『天うつ浪』(1903~)も未完に終わった。37~38年の日露戦争後は文壇を離れて考証と史伝に筆をそそぎ,『運命』(1919)などを著す。大正9(1920)年から死の年にかけて『芭蕉七部集評釈』を執筆。また,昭和15(1940)年には小説『連環記』を発表,晩年の熟達した技量を示した。釣り,将棋の愛好家としても知られ,平板な文学史の枠には収めきれない稀に見る知的巨人である。今日,露伴の文章を読むとき,日本語とはこれほど芳醇なものであったかとの思いを禁じ得ない。例えば,史伝『日本武尊』の冒頭の「御寿も猶ほ花ならば咲きの盛りに至らず,月ならば光りの円なるを示されざるほどの御齢に,口惜くも嵐に散り,雲に隠れさせたまうた」という一節をみると,「若くして世を去った」「夭逝した」などとしか記せない現在の日本語の貧困が思いやられるのである。著作集に『露伴全集』(1949~58)がある。

(古田島洋介)

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「幸田露伴」の意味・わかりやすい解説

幸田露伴
こうだろはん

 
[]3(1867).7.23. 
[]1947.7.30. 
 ()  ()  ()  (1889)  (89)  (90)  (9192)  (9395)  (96)  (93)  (1901)  (01)  (2047)  ()  (0305)  (40) 西 19371  

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「幸田露伴」の解説

幸田露伴
こうだろはん

1867.7.23/26~1947.7.30

明治~昭和期の小説家・随筆家・考証家。本名成行(しげゆき)。別号蝸牛庵(かぎゅうあん)・脱天子など。江戸下谷三枚橋の幕府表坊主役の家に生まれる。兄弟に実業家幸田成常,千島探検の郡司成忠,歴史家幸田成友,ピアニスト幸田延,バイオリニスト安藤幸がいる。東京図書館で漢籍・仏書・江戸雑書を独学。電信修技学校卒業後,北海道の余市に電信技師として赴任。のち帰京して1889年(明治22)「露団々(つゆだんだん)」を発表。以後「風流仏」「対髑髏」「一口剣」「五重塔」などで愛の極致と芸道への執心を描き,尾崎紅葉と並び称される。評論・随筆に「一国の首都」「讕言(らんげん)」「長語」など。大正期に「運命」「蒲生氏郷(がもううじさと)」などの人物史伝を,昭和期には「芭蕉七部集」評釈に精力をそそいだ。「露伴全集」全41巻,別巻2巻。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「幸田露伴」の解説

幸田露伴 こうだ-ろはん

1867-1947 明治-昭和時代の小説家。
慶応3年7月23日生まれ。幸田延(のぶ),成友(しげとも),安藤幸(こう)の兄。幸田文(あや)の父。幼少より漢籍や江戸文学にしたしむ。明治25年「五重塔」で尾崎紅葉とならぶ文名をえる。のち史伝や随筆,考証の領域に執筆活動の重心をうつす。昭和12年第1回文化勲章。22年「評釈芭蕉(ばしょう)七部集」を完成させ,同年7月30日死去。81歳。江戸出身。逓信省電信修技学校卒。本名は成行(しげゆき)。別号に蝸牛庵(かぎゅうあん)。著作はほかに小説「風流仏」,史伝「運命」など。
【格言など】今の人ややもすれば益の道の可なるを知って損の道の妙を知らず

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旺文社日本史事典 三訂版 「幸田露伴」の解説

幸田露伴
こうだろはん

1867〜1947
明治〜昭和期の小説家・国文学者
本名は成行 (しげゆき) 。江戸の生まれ。処女作『露団々』『風流仏』『五重塔』など初期の作品は,人間の崇高さ,神秘な芸の力を描いた男性的・理想主義的作風で,写実派の尾崎紅葉に対して理想派といわれた。和・漢の諸学や仏典に通じ,日露戦争後は随筆・史伝・考証で学界にも貢献した。1937年,第1回文化勲章受章。

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367日誕生日大事典 「幸田露伴」の解説

幸田 露伴 (こうだ ろはん)

生年月日:1867年7月23日
明治時代-昭和時代の小説家
1947年没

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世界大百科事典(旧版)内の幸田露伴の言及

【運命】より

幸田露伴の歴史小説。1919年(大正8)《改造》に発表。…

【音義説】より

…学統として秀成の跡を継ぐものはないが,語源に対する興味から,こんにちも音義説に似た議論をする人はいる。幸田露伴の〈音幻論〉のごときは一種の音義説とみなしうる。【亀井 孝】。…

【五重塔】より

幸田露伴の小説。1891‐92年(明治24‐25)《国会》に連載。…

【三人冗語】より

…森鷗外主宰の雑誌《めさまし草》第3~7号(1896年3月~7月)において,鷗外,幸田露伴,斎藤緑雨の3人が行った作品合評。〈頭取(とうどり)〉(鷗外)による作品紹介に続いて,〈ひいき〉〈さし出〉などの変名の人物が批評する形式をとる,最初の匿名座談会形式の文芸時評。…

【春陽堂】より

…しかし,文芸書出版は続け,96年には第2期《新小説》を創刊した。幸田露伴が編集にあたったこの雑誌は1927年《黒潮》と改題されるまで明治・大正年代の文芸雑誌として最も重きをなした。和田は,出版成功のもとは第1に著者にあり,として文壇の一流作家の作品をつねに重んじ,尾崎紅葉の作品を独占的に出版したほか,夏目漱石の主要作品のほとんど,島崎藤村の詩集,森鷗外,泉鏡花などの作品を出版した。…

【釣り】より

…針の大小は数字で表示されるが,日本では数字が小さいほど小型,欧米はこの逆になる。針は大は小を兼ねない,針の型は迷信にすぎないと断言したのは,釣好きで知られる幸田露伴だが,やはり型の選択も必要だろう。
[うき(浮き)とおもり]
 うきは対象魚と釣場の流速,波などの条件によってさまざまな形(図d),素材がある。…

【端唄∥端歌】より

…だが文明開化を経て西洋崇拝の風潮が強まるとともに,端唄は急速に衰退した。かつて文人墨客の手がけた《夕ぐれ》《春雨》《紀伊の国》《京の四季》などが歌われなくなるのを嘆いて,尾崎紅葉や幸田露伴が〈端唄会〉(1901)を催したが,大勢の挽回はできず,1920年代には端唄という名称も音楽も,世間はほとんど忘れ去った。しかし,芸の伝承は絶えることなく,藤本琇丈やその門下の根岸登喜子ら幾人かの有能な演奏家によって継承され,第2次世界大戦後,ふたたび愛好者層を増やしつつある。…

【連環記】より

幸田露伴の小説。1940年(昭和15)《日本評論》に発表。…

【ロマン主義】より

…《蓬萊曲》と《舞姫》は,共に個我に苦しむ主人公を設定して,日本の近代的な自意識の不安を表象しており,また,《於母影》のもつ,清新な感情の解放は,透谷や島崎藤村の詩に深い影響を与えた。 これ以外に,日本固有の精神風土から内発したロマン主義という観点に立って,杉山平助のように,幸田露伴をその先駆者としてあげる例もある(《文芸五十年史》)。杉山は,露伴の仏教を主とする東洋的な運命観を根底にした理想主義に,リアリズムと対抗するロマン主義の誕生を見たのである。…

※「幸田露伴」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」