得宗(読み)トクソウ

デジタル大辞泉 「得宗」の意味・読み・例文・類語

とく‐そう【得宗/徳宗】

 
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精選版 日本国語大辞典 「得宗」の意味・読み・例文・類語

とくそう【得宗・徳宗】

 

(一)   
(一)[]調(1316)
 

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改訂新版 世界大百科事典 「得宗」の意味・わかりやすい解説

得宗 (とくそう)


2︿1203392052退13152133

 駿

 1246447149156111

 西

 8581193110913333522西

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百科事典マイペディア 「得宗」の意味・わかりやすい解説

得宗【とくそう】

 
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「得宗」の意味・わかりやすい解説

得宗
とくそう


()()()()()()()()()()()()

 ()()()()()()()使()()()()()

 ()()()()()()()()()西沿



10 19741980

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「得宗」の意味・わかりやすい解説

得宗
とくそう

 
 ()  () 2 ( )    

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「得宗」の解説

得宗
とくそう

徳宗とも。鎌倉幕府の執権北条氏の家督。「梅松論」に「家督を徳崇(宗)と号す」とあり,時政・義時・泰時・時氏・経時・時頼・時宗・貞時・高時の9代をさす。北条義時の法名徳崇に由来するといわれる。実際に得宗を称したのは時宗の頃からで,それ以前の代々の家督も得宗とよぶようになった。義時の頃から家政機関が整えられ,政治力と経済力で他の一門を圧倒するようになり,得宗家の基盤が作られた。時頼が執権を一門の長時に譲ったのちも政務を執ったのは,彼が得宗の地位にあったことによる。この頃から評定衆の会議より,寄合(よりあい)といわれた得宗亭内での内談が重視され,専制化が図られた。

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旺文社日本史事典 三訂版 「得宗」の解説

得宗
とくそう

北条氏の家督を継いだ嫡流
徳宗ともいう。時政・義時・泰時・時氏・経時・時頼・時宗・貞時・高時の9代をいう。北条義時の法名徳宗に由来するといわれ,時宗の頃から実際に得宗を称し,元寇後に専制的な政治体制を確立した。その権力の基盤となった所領を得宗領と呼び,得宗家の直属家臣を御内人と呼んだ。

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世界大百科事典(旧版)内の得宗の言及

【鎌倉時代】より

…朝廷では形式的主権者である天皇と,執政者である治天の君との分裂である。幕府では鎌倉殿・執権・得宗(北条氏の家督)の間に権力の分裂が認められる。このような権力の多元的分裂のなかで,鎌倉後期になると集権化,一元化の傾向が見られるようになり,平安後期以来の荘園制的秩序,公武関係の秩序は動揺する。…

【鎌倉幕府】より


(1)32(1) 46(4)︿()

【公文所】より


1185(1)︿殿 

【播磨国】より


 99(1)(127578)()駿()()

【北条氏】より


1203(3)13(1)21(3)24(1)︿()()

【武蔵国】より


1207(1)13

【若狭国】より

…しかし28年(安貞2)ごろ彼は罪科により守護職,税所職等を失い,かわって北条時氏が守護となる。税所職や旧忠時所領の今富名地頭職なども北条氏得宗(とくそう)(嫡流)の手に握られ,以来幕府の滅亡まで守護職は得宗および北条一門の掌握下にあり,その支配は若狭全体に強くおよんだ。65年(文永2)の若狭国惣田数帳案の朱注によれば,鎌倉末期ごろ得宗が地頭職を有した所領は20ヵ所を下らず,その田数は国全体の4分の1以上にも達し,ほかに税所職やその支配に属する国衙領の名(みよう)などをも加えると,得宗の勢威はきわめて強大であった。…

※「得宗」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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