鎌倉時代(読み)カマクラジダイ

デジタル大辞泉 「鎌倉時代」の意味・読み・例文・類語

かまくら‐じだい【鎌倉時代】

鎌倉幕府が置かれていた武家政権時代の称。ふつう、文治元年(1185)源頼朝守護地頭を設置したときから、元弘3年(1333)北条高時が滅亡するまでの約150年間をいうが、始期については諸説がある。

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精選版 日本国語大辞典 「鎌倉時代」の意味・読み・例文・類語

かまくら‐じだい【鎌倉時代】

  1. 源頼朝が鎌倉に政権を樹立した文治元年(一一八五)から北条高時の滅亡した元弘三年(一三三三)までの約一五〇年間の時代。ただし、その始期については、治承四年(一一八〇)の頼朝が鎌倉入りした時期、寿永二年(一一八三)の頼朝に東国行政権が公認された時期などの諸説がある。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「鎌倉時代」の意味・わかりやすい解説

鎌倉時代
かまくらじだい

鎌倉時代というのは、政権の所在地による時代称呼の一つである。1885年(明治18)田口卯吉(うきち)が『日本開化之性質』で初めてこの称を用いた。

 この時代に政権が鎌倉幕府にあったとはかならずしもいいきれないが、鎌倉に幕府が置かれた時代を鎌倉時代といっている。

[上横手雅敬]

時代区分と概観

幕府の成立時期に関する諸説

133332

(1)11804 4101212()

(2)1183寿2 寿()()()

(3)11851 ()()()

(4)11901 使()

(5)11923 ()

 

 11808()()()()12()()()()()()(1)

 ()()118310寿(2)

 ()()()()()()1185()()(3)

 ()1189()1190()使(4)

 (5)

 (5)()(3)(4)(1)(2)(1)(1)(2)(4)(3)殿()()(3)1185


多元的支配の時代

1086313211()()12213()()殿殿使殿殿()

 ()()()()()

 

 ()殿()

 ()


政治

鎌倉前期の政治

11851()()()()119231196()()()

 1199()殿()()()()12033退()殿()()12131()()1202()()()()12191()()()殿1126()殿1221()()()()


鎌倉中期の政治

承久の乱後、幕府は安定期を迎え、1225年(嘉禄1)の政子の死を契機に、執権北条泰時(やすとき)は独裁政治から合議政治への転換を行い、執権を2名(うち1名がいわゆる連署)とし、10余名の評定衆(ひょうじょうしゅう)がこれを助ける集団指導方式をとった。1232年(貞永1)には『御成敗式目(ごせいばいしきもく)』がつくられ、裁判の基準が定められた。一方、承久の乱後も、朝廷では引き続き院政が行われたが、従来院政が果たしてきた国家的機能の相当の部分は幕府に移った。幕府は皇位にも干渉し、1242年(仁治3)四条(しじょう)天皇が没すると、貴族たちの意向を抑えて、後嵯峨(ごさが)天皇を即位させた。

[上横手雅敬]

鎌倉後期の政治

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 ()1246412524()()殿()12471()

 ()()

 ()1268512741112814退西()使()

 ()12491285()()()()12975

 ()()()()()13171()退()

 ()1321125013241()13311()()()()()1333()()


東アジアにおける日本



 ()()112713()()1274128113681392()()

 8946使()()貿()貿貿

 貿()()()使貿貿

 西西()貿()貿貿


経済・社会

荘園体制

()()()()()()()()使使()()()()()()


諸産業の発達

()()()()使

 ()()()()()()()()()貿使()()()()


文化

概観

()()


東大寺復興と美術

11804()()()()()()()


源平合戦と文学・歴史

()()()()()()()()()()()()()()


鎌倉仏教

平安時代以来、仏教の基本的課題は、末法の世における往生のあり方であった。前代の貴族的浄土(じょうど)教を批判的に継承した法然(ほうねん)(源空(げんくう))は、往生浄土の道は、人々の救済を誓った弥陀(みだ)の本願を信じ、ただ念仏を唱えることだと説き、持戒(じかい)や作善(さぜん)を無用とし、浄土宗を開いた。その弟子親鸞(しんらん)は徹底した信の立場にたち、行(ぎょう)や戒律を否定した。また弥陀の本願は罪深い悪人の救済にあり、仏の他力を信ずれば、悪人も往生できるという悪人正機(しょうき)説を唱えた。その宗派を浄土真宗(しんしゅう)という。浄土宗の一派から出た一遍(いっぺん)は時宗(じしゅう)を開いた。彼は諸国を遊行(ゆぎょう)し、踊念仏(おどりねんぶつ)によって布教し、また従来の浄土宗と違って、神祇(じんぎ)信仰をも布教に利用した。これらの念仏の教えに対して、法華経(ほけきょう)の題目を唱えて往生することを主張し、法華(ほっけ)(日蓮(にちれん))宗を開いたのが日蓮である。中国からは禅宗が伝わった。鎌倉前期に栄西(えいさい)は宋から臨済(りんざい)禅を伝え、源頼家、北条政子の帰依(きえ)を得、鎌倉に寿福寺(じゅふくじ)、京都に建仁寺(けんにんじ)を建立した。臨済宗はとくに幕府上層武士に信仰され、宋・元の禅僧も渡来した。栄西の弟子道元(どうげん)は、師と異なる道を歩んだ。彼は宋から曹洞(そうとう)禅を伝え、権勢を退け、坐禅(ざぜん)によって自力で悟りを開くことを勧めた。

 新仏教の興隆に対しては、法相(ほっそう)、華厳(けごん)、律(りつ)などの南都仏教を中心に反省が生まれ、時代に即した教義の改革が試みられた。東大寺の復興、天平彫刻の復活にみられるように、奈良文化への回帰は鎌倉文化の一つの特徴であった。念仏系新仏教の戒律否定に対し、南都仏教系では逆に戒律が尊重された。法然を批判した貞慶(じょうけい)(解脱(げだつ))、高弁(こうべん)(明恵(みょうえ))によって法相宗、華厳宗が再興され、俊芿(しゅんじょう)は泉涌寺(せんにゅうじ)を中心に京都で、叡尊(えいぞん)は西大寺(さいだいじ)を中心に奈良で、律の復興に努めた。

[上横手雅敬]

武士の文化

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 ()()()()()()貿()40()()

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神祇崇拝の思想

蒙古(もうこ)襲来に対する勝利のゆえもあって、鎌倉後期には神国思想が盛んになった。伊勢(いせ)神宮、とくに外宮(げくう)(豊受大神宮(とようけだいじんぐう))の神官を中心に伊勢(度会(わたらい))神道(しんとう)が形成され、従来教義をもたなかった神祇(じんぎ)信仰は、ここに理論をもつようになった。また藤原氏一門の総力をあげて制作された絵巻物『春日権現霊験記(かすがごんげんれいげんき)』では、藤原氏の氏神である春日神社の神威が説かれた。『日本書紀』、とくに神代巻(じんだいのまき)の研究も進められ、卜部兼方(うらべかねかた)の『釈日本紀(しゃくにほんぎ)』に集大成された。

 神国思想は、従来の本地垂迹(ほんじすいじゃく)説とは逆に仏に対する神の優位を説いている。また念仏系新仏教にみられる神祇不拝の傾向に対して、神祇崇拝を強調し、神威によって幕府や悪党に対抗することを主張するなど、朝廷側の皇権回復の動きに連なるような政治性をも備えている。

[上横手雅敬]

風俗・生活

衣服

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食物

1212()調()()()()()()()()()()()


住居

殿()()殿()()()()殿()()()()


芸能・娯楽・俗信

都市の祭りは華麗の度を加えた。村落でも名主(みょうしゅ)を中心とする座の神事が行われ、さらに多くの村人も加わるようになり、都市の祭りが農村にも受け入れられた。芸能の主流を形成したのは、身分的に賤視(せんし)された人々である。琵琶法師(びわほうし)は琵琶にあわせ『平家(へいけ)物語』などの語物(かたりもの)を語った。白拍子(しらびょうし)は歌舞を演じた。鎌倉後期にはそのなかから曲舞(くせまい)がおこり、能楽(のうがく)の形成に影響を与えた。田楽(でんがく)や猿楽(さるがく)も盛んで座をつくって上演し、のち能(のう)・狂言(きょうげん)に発展した。貴族が独占していた遊戯も庶民に広まり、大陸から伝わっていた囲碁(いご)、将棋(しょうぎ)、双六(すごろく)も盛んになった。とくに双六は貴族から庶民まで行われ、賭博(とばく)化したため、幕府や朝廷はしばしば禁令を出した。また民間では印地打(いんじうち)(石打)がおこったが、争闘となって禁止されることもあった。出産は坐産(ざさん)で、妊婦が腹帯を巻く習慣もあり、宮参(みやまい)りも行われた。育児には乳母(めのと)、里子(さとご)、子守など、他人の助力を借りることもあった。成人の儀にあたり、武士などでは烏帽子親(えぼしおや)をたてる習俗が普及した。葬制については、民間では死体遺棄に近いことも行われたようで、葬地と離れて別に祭地を設け、そこで供養を行う風習があったと思われる。

[上横手雅敬]

『三浦周行著『日本史の研究 新輯一』(1982・岩波書店)』『石井進著『日本の歴史7 鎌倉幕府』(1965・中央公論社)』『黒田俊雄著『日本の歴史8 蒙古襲来』(1965・中央公論社)』『上横手雅敬著『日本中世政治史研究』(1970・塙書房)』『黒田俊雄他著『岩波講座 日本歴史5』(1975・岩波書店)』『大山喬平著『日本の歴史9 鎌倉幕府』(1974・小学館)』『網野善彦著『日本の歴史10 蒙古襲来』(1974・小学館)』『上横手雅敬編『図説日本文化の歴史5 鎌倉』(1979・小学館)』『佐藤進一著『日本の中世国家』(1983・岩波書店)』


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改訂新版 世界大百科事典 「鎌倉時代」の意味・わかりやすい解説

鎌倉時代 (かまくらじだい)


1333311851923804

10863︿13211殿

 殿

 貿

3

1180412213118081283寿285189901使1219121

12464調12321

 西婿殿婿42346471524

 5西退261246

1246413333調127411814285

 12391975

 1324131133

 
 

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百科事典マイペディア 「鎌倉時代」の意味・わかりやすい解説

鎌倉時代【かまくらじだい】

 
1213331185()()
 

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「鎌倉時代」の意味・わかりやすい解説

鎌倉時代
かまくらじだい

 
1 (1185) 32 (1333)  150132433 (1221) 貿 11 (74) 4 (81)   

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旺文社日本史事典 三訂版 「鎌倉時代」の解説

鎌倉時代
かまくらじだい

源頼朝の鎌倉幕府創設から1333年幕府滅亡までの約150年間
成立期には諸説ある。武家政権が初めて成立した時代で,従来の私的な主従関係が公的に認められ封建制度が成立した。しかし鎌倉政権は多くの面で荘園制に寄生し古代的性格を持っていたが,やがて地頭らが荘園を侵略し荘園の解体を促し領主化していった。政治面では,初め公武2政権の二重支配であったが,承久の乱(1221)後,北条氏の執権政治のもとに武家政権の優位が確立された。経済面では,農業・手工業の発達が商業・交通・都市の発展を促し,特に座・問丸 (といまる) ・市場などが発達した。文化の面では,素朴で写実的・動的な武家文化が形成され,特に軍記物・新仏教の興隆や美術工芸の新傾向などみるべきものが多い。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「鎌倉時代」の解説

鎌倉時代
かまくらじだい

鎌倉に幕府があった時代。1185年(文治元)の守護・地頭設置前後から1333年(元弘3)の幕府滅亡までの期間。武士が歴史の主役としての地位を固めたが,京都の朝廷や寺社の勢力はいぜん強く,多元的な権力によって複雑に入り組んだ支配が行われた。承久(じょうきゅう)の乱や皇統の分裂などによって幕府の政治的な力は大きく伸びたが,社会や経済構造の変化には幕府は必ずしも有効な手をうてなかった。

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防府市歴史用語集 「鎌倉時代」の解説

鎌倉時代

 12世紀末から1333年までの鎌倉に幕府が置かれていた時代を言います。鎌倉時代のはじまりについては、源頼朝[みなもとのよりとも]が征夷大将軍[せいいたいしょうぐん]になった1192年とする場合や守護[しゅご]・地頭[じとう]が置かれた1185年とする場合などがあります。

出典 ほうふWeb歴史館防府市歴史用語集について 情報