放生津(読み)ほうじようづ

日本歴史地名大系 「放生津」の解説

放生津
ほうじようづ


()沿()()()()()()退

西()()()()()()()()()()()()()()

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

百科事典マイペディア 「放生津」の意味・わかりやすい解説

放生津【ほうじょうづ】

 
()沿()()()()()()()()()退西沿()130613201333()()()()()()1382()()1455()14931498()()15201581()︿︿1328164918581792383637191871  

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改訂新版 世界大百科事典 「放生津」の意味・わかりやすい解説

放生津 (ほうじょうづ)


西1333313527114551退9326983151916退764︿90︿16492西

 187142241519

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「放生津」の意味・わかりやすい解説

放生津
ほうじょうづ

富山県射水市(いみずし)、庄川(しょうがわ)河口の富山新港の位置にあった都市。地名は条里制の北条に由来する、また、海岸部の奈呉浦(なごのうら)で、殺生を戒める神事の放生会(ほうじょうえ)が行われたことにちなむなどと言われている。中世は射水郡大袋荘(おおいのしょう)に属する湊町として知られ、鎌倉時代には越中国守護所が置かれた。『太平記』には、1333年(正慶2・元弘3)倒幕軍に攻められた守護名越時有(なごえときあり)一族が放生津城に火を放って自害したという悲話がある。室町期には守護代神保氏(じんぼし)の支配下に置かれ、1493年(明応2)には細川政元に京を追われた足利義稙(よしたね)が神保氏を頼って下向し、再起を図って1498年まで滞在している。戦国期には神保・長尾両氏の争いをはじめ戦乱が続いたが、1576年(天正4)上杉謙信の越中支配時には楽市楽座が認められ、賑わった。江戸時代には越中の中心地としての湊町に活路を見出した。

[溝口常俊]

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世界大百科事典(旧版)内の放生津の言及

【越中国】より


西()

【新湊[市]】より


38491(1995)宿

※「放生津」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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