デジタル大辞泉
「快慶」の意味・読み・例文・類語
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かいけいクヮイケイ【快慶】
(一)鎌倉初期の仏師。康慶、あるいは運慶の門弟という。形式の整った温雅流麗な作風は安阿彌風と呼ばれ、運慶とともに後世に大きな影響を与えた。東大寺の阿彌陀如来立像、地蔵菩薩像など二〇点余りが残る。法名、安阿彌。生没年未詳。
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快慶 (かいけい)
平安末~鎌倉初期に活躍した慶派仏師。生没年不詳。運慶の父に当たる康慶の弟子と思われ,運慶と並んで鎌倉時代の彫刻界を代表する。1183年︵寿永2︶に運慶が発願した法華経の結縁者の一人として,初めてその名が見える。現在わかっている最初の作品はボストン美術館所蔵の弥勒菩薩立像で,︿文治5年︵1189︶仏師快慶﹀の奥書のある経巻が胎内に納められている。その他,30体近くの作をのこす。運慶と合作の東大寺南大門の金剛力士像︵1203︶,重源の建立した兵庫浄土寺の本尊阿弥陀三尊像︵1194ころ︶,同寺のおねりの本尊である阿弥陀如来立像,同じく重源創建の伊賀︵三重県︶新大仏寺の盧舎那仏︵頭部のみが当初のもの︶,建仁年間︵1201-04︶につくられた奈良文殊院の文殊五尊像などの大きな像もあるが,1m前後の小さめな像が多い。これらの遺品で注目されるのは,そのほとんどに彼の銘が記されていることである。その署名は時期によって称号を変えている。初期のころには︿仏師快慶﹀,1192年︵建久3︶から約10年間は︿巧匠安阿弥陀仏﹀と記し,1203年の東大寺総供養で,同寺再興の功を認められ法橋位を受けると︿巧匠法橋快慶﹀,08年︵承元2︶法眼位を受けると︿巧匠法眼快慶﹀としている。このように署名作品を多くのこす例は近世の仏師と比較しても珍しいだけでなく,自ら︿巧匠﹀と称するなどはほかにほとんど類例を見ないところで,彼のきちょうめんさと個性の強い性格をよく示している。また︿巧匠安阿弥陀仏﹀の記銘は,彼が東大寺再興に尽くした重源に帰依した熱烈な浄土信仰者であったことを示している。彼が重源との関係によって制作した像は前記以外にも,1201年の東大寺僧形八幡神像,翌年の俊乗堂阿弥陀如来像などがあり,彼の後半生において阿弥陀如来,とくに1m前後の立像の制作が多いのも,彼の信仰生活をよく物語っている。彼の作品は,運慶との共同制作の場合には運慶的作風にならっているが,一方で独自の舞台を開拓し,運慶とは異質な新風をつくりあげた。理知的な整った顔立ち,美しく流れる衣文,金泥と切金による彩色など快慶の作風は典麗と評され,藤原時代風のなごりをとどめながら,肉身表現には鎌倉時代的な的確な写実性を失っていない。しかしその一面では彫刻的な迫力の脆弱︵ぜいじやく︶さもあらわれている。文献上,彼の最後の作は高山寺十三重塔の中尊像である。彼の後継者には行快,栄快,長快などがあり,その作風は︿安阿弥様﹀といわれて,後世まで影響をあたえた。
→運慶
執筆者‥佐藤 昭夫
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快慶【かいけい】
鎌倉初期の,運慶と並ぶ代表的仏師。生没年不詳。康慶の弟子。ボストン美術館蔵の弥勒菩薩(みろくぼさつ)像︵1189年︶をはじめとして,1236年に至るまで多くの造仏の事跡が知られ,遺作も多い。天平彫刻に学んだ写実主義から出発しながら,形式的整美の方向に強く傾いて独自の新様式をつくり出した。また重源(ちょうげん)に師事した熱心な浄土教信者で,安阿弥陀仏と号した。彼の作風は安阿弥様と呼ばれ,江戸時代に至るまで多くの追随者を出した。代表作は東大寺阿弥陀如来像,地蔵菩薩像,僧形八幡像など。
→関連項目慶派|新大仏寺|奈良仏師
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快慶
かいけい
生没年不詳。鎌倉初期の仏師。運慶の父にあたる康慶の弟子と思われ、運慶と並んで鎌倉時代の彫刻界を代表する人物。1183年︵寿永2︶に運慶が発願した法華経(ほけきょう)の結縁(けちえん)者の一人として初めてその名がみえる。現存する遺作は20点余りに上り、像の足枘(あしほぞ)などに記された銘文や文献によると、丹波講師(たんばこうじ)、越後法橋(えちごほっきょう)などと肩書し、東大寺中興の重源(ちょうげん)に帰依(きえ)して安阿弥陀仏(あんなみだぶつ)とも称している。運慶の剛健な表現に対して、快慶は、むしろ藤原彫刻の風を受けたような、穏やかで流麗な、いわゆる安阿弥様なる様式をつくりあげ、当時から﹁ほとんど肩を並べるなきの人﹂とまでたたえられている。大衆性のある、親しみやすさをもったその作風は、以後の仏像彫刻に大きな影響を与えている。代表作に、ボストン美術館の弥勒菩薩(みろくぼさつ)像︵1189︶、兵庫浄土寺の阿弥陀(あみだ)三尊像︵1192︶、東大寺の僧形八幡(そうぎょうはちまん)神像︵1201︶、重源のためにつくった同寺俊乗堂の阿弥陀如来(にょらい)像︵1202︶、同寺公慶堂の地蔵菩薩像︵年代不詳︶などがある。
﹇佐藤昭夫﹈
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快慶
かいけい
鎌倉時代初期の仏師。康慶の弟子。作品の多くに,初め仏師快慶,丹波講師,巧匠安阿弥陀仏,のちに法橋快慶,さらに法眼快慶などの署名がある。また東大寺の重源上人に帰依して安阿弥陀仏と号し,建久年間 (1190~99) の東大寺復興造仏には運慶を助けて,正系仏師慶派一門の繁栄に大きな役割を果した。宋風様式を取入れ,その写実的作風は﹁安阿弥様﹂として後世に大きな影響を与えた。文治5 (89) 年の興福寺旧蔵﹃弥勒菩薩像﹄ (ボストン美術館) をはじめ,東大寺南大門﹃金剛力士像﹄,同寺の﹃僧形八幡神像﹄,また播磨,浄土寺﹃阿弥陀三尊像﹄,金剛峰寺﹃孔雀明王像﹄など遠隔の地にも活動範囲が及び,高齢で没するまで多数の造仏に従事した。
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快慶
かいけい
生没年不詳。鎌倉前期の仏師。康慶の弟子。運慶とほぼ同時期に活躍し,鎌倉彫刻の基礎を築いた。重源(ちょうげん)の阿弥陀信仰に大きな影響をうけ,安阿弥陀仏と号した。重源のほか,明恵(みょうえ)や貞慶(じょうけい),法然の浄土宗教団,さらに藤原通憲の一族の造像にたずさわるなど幅広く活動。1203年(建仁3)の東大寺総供養に際し法橋(ほっきょう),08~10年(承元2~4)の間に法眼(ほうげん)位に昇った。優美で親しみやすい仏像様式を創出し,作風は安阿弥様(あんなみよう)とよばれた。とくに数多く造立した3尺の阿弥陀如来立像はその特色をよく示し,後世に大きな影響を与えた。作例は,1195年(建久6)頃の兵庫県小野市の浄土寺阿弥陀三尊像(国宝)をはじめ37件が確認されている。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
快慶 かいけい
運慶の父康慶の弟子といわれ,運慶とならんで鎌倉時代の彫刻界を代表した。30点ちかくの作品をのこし,代表作には建仁(けんにん)3年(1203)運慶らと合作の東大寺南大門仁王像のほか,阿弥陀三尊像(兵庫県浄土寺),僧形(そうぎょう)八幡神像(東大寺)などがある。優美な作風は安阿弥(あんなみ)様式とよばれ,後世の仏像彫刻におおきな影響をあたえた。法名は安阿弥陀仏。
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快慶
かいけい
生没年不詳
鎌倉初期の仏師
康慶(運慶の父)の弟子。運慶の弟子という説もあるが前説が有力。秀麗典雅な作風で,ボストン美術館蔵の『弥勒菩薩像』,東大寺『僧形八幡神像』などの作品がある。熱心な浄土教信仰者で,安阿弥陀仏 (あんあみだぶつ) と号したので,その作風は安阿弥様と呼ばれる。藤原様式の伝統や宋の新様式をとり入れている。東大寺南大門『金剛力士像』は運慶との合作。
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快慶
鎌倉時代前半に多くの仏像を造りました。運慶﹇うんけい﹈と同じ時期に活躍し、重源﹇ちょうげん﹈の阿弥陀﹇あみだ﹈信仰の影響を受けていたようです。阿弥陀寺﹇あみだじ﹈に納められている重源の坐像﹇ざぞう﹈は、快慶の一派が造ったのではないかと言われています。
出典 ほうふWeb歴史館防府市歴史用語集について 情報
世界大百科事典(旧版)内の快慶の言及
【鎌倉時代美術】より
…90年(建久1)に大仏殿が上棟,96年には大仏をめぐる脇侍や四天王などの巨大な木像群と同種の石像群がつくられた。木像群は当時奈良に本拠をおく慶派の仏師,康慶やその息子運慶,弟子快慶らの手になり,石像群は陳和卿の率いる宋人石工たちの製作である。これらの諸像は再度罹災していまはないが,そこに示されたと想定される中国渡来の技術や様式の影響は,東大寺南大門にのこる石造獅子一対や97年の山口阿弥陀寺鉄宝塔をはじめとする重源ゆかりの社寺に伝存する鋳銅,鋳鉄製品によってうかがうことができるし,慶派の作家たちはこれと前後して製作した多くの遺品によって,鎌倉彫刻の本流を形成したことを証明している。…
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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」