日中戦争(読み)ニッチュウセンソウ

デジタル大辞泉 「日中戦争」の意味・読み・例文・類語

にっちゅう‐せんそう〔‐センサウ〕【日中戦争】

昭和12年(1937)7月の盧溝橋ろこうきょう事件をきっかけにして起こった日本と中国との間の戦争。はじめ日本政府は支那事変あるいは日支事変とよび、宣戦布告も行わなかったが、戦線は全中国に拡大、太平洋戦争に発展した。日華事変。

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精選版 日本国語大辞典 「日中戦争」の意味・読み・例文・類語

にっちゅう‐せんそう‥センサウ【日中戦争】

  1. 昭和一二年(一九三七)蘆溝橋事件をきっかけとして起こった、日本の中国侵略戦争。日本軍は政府の不拡大方針を無視して戦火を全中国に拡大した。日本軍は北京・天津・上海などを攻撃、国共統一戦線の激しい抵抗にあうと次々と大軍を投入し、中国政府は重慶にのがれて抗戦を続けた。日本は汪兆銘を援助して南京に政府を樹立させたが、国際的に承認を得られなかった。同一六年、太平洋戦争が始まるとその一部となり、同二〇年八月の日本降伏まで続いた。当時の日本では、支那事変、日支事変、日華事変など種々の呼称があった。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「日中戦争」の意味・わかりやすい解説

日中戦争
にっちゅうせんそう

1937年(昭和12)7月の盧溝橋(ろこうきょう)事件に始まり、1945年8月日本の降伏で終わった、日本と中国との全面戦争。日中十五年戦争という場合は、1931年9月の満州事変を起点とする。中国では一般に抗日戦争とよぶが、第二次中日戦争という言い方もある。

 日中戦争は、第二次世界大戦の東アジアにおける導火線であり、一貫してこの大戦の重要部分を占めた。

[安井三吉]

発端


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全面化


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持久戦

1年余の間に日本軍は、中国の主要都市と交通路のほとんどを占領したが、それはいわば「点と線」の支配にすぎず、広大な農村や四川(しせん)省などの奥地は支配できなかった。戦線は延び切り、これ以上大規模な作戦を展開する力は乏しくなっていた。そこで日本軍は占領地確保に重点を置き、兵力漸減の方向を打ち出すが、その実行は困難であった。他方中国側にも、全面的反攻に出るだけの力はまだ形成されていなかった。こうして軍事的均衡に至り、戦争は持久戦となった。

 1938年11月、日本は国民政府否認を改め、「東亜新秩序」形成を提唱する第二次近衛声明を発表した。軍事的解決の見通しがたたない以上、日本には政治工作によって戦争収束を図るしか道はなくなっていた。すでに日本は、臨時政府、維新政府などを軍の力でつくりあげていたが、これらの政府に加わった者は中国人の支持を得られるような人物ではなかった。そこで、国民党親日派の大物汪兆銘(おうちょうめい)を重慶から「脱出」させ、1940年3月南京に「中華民国国民政府」を樹立させた。これに先行して、1939年9月「軍事及び政治工作を統轄し、汪政権樹立工作、他方での重慶工作を促進するため」(防衛研修所戦史室著『北支の治安戦1』)支那派遣軍総司令部が設置されている。汪は、国民党の旗を掲げ、三民主義を信奉、孫文(そんぶん)の継承をうたったが、日本の傀儡政権であることに変わりなく、中国人は彼らを「漢奸(かんかん)」(民族の裏切り者)とさげすみ、その打倒をねらった。日本は汪政権と1940年11月「日華基本条約」なるものを結び、戦争解決を企図したが、この政権は中国の国民を代表し実力をもつ政権ではなかったから、それはまったくの徒労に終わった。

[安井三吉]

解放区

中国共産党は1940年の百団大戦などを例外とし、主として遊撃戦術を駆使して日本軍と戦いつつ、解放区を建設、拡大していった。解放区は抗日民族統一戦線の模範地域とすることが目ざされた。農民を主体としたひとりひとりの民衆の立ち上がりが、中国の抗戦力の奥深い源泉であった。日本軍は、正規軍との戦いのほか、このような広範な人々と対決しなければならなかった。解放区は、1941年から翌年にかけて、殺し尽くす(殺光)、焼き尽くす(焼光)、奪い尽くす(搶光(そうこう))の三光政策を伴った日本軍の激しい攻撃と国民党軍の締め付けにより、一時大幅な縮小を余儀なくされた。しかし、解放区は1945年春には、全部で19、面積約100万平方キロメートル、人口約1億を擁するまでに発展した。この間、毛沢東(もうたくとう)の「新民主主義論」(1940年1月)の発表などがあり、解放区では、中国共産党の物的・人的な基盤が形成されていった。

[安井三吉]

国共関係

比較的順調だった国共関係にも、武漢喪失(1938年10月)前後からさまざまな矛盾、対立が表面化する。国民党に対する日本の政治工作に加え、解放区拡大など中国共産党の勢力拡大に国民党が危惧(きぐ)を抱き始めたためである。1939年以降国民党は、中国共産党の活動に対する制限を強め、武力弾圧すら惹起(じゃっき)した。その最大の事件は1941年1月の皖南(かんなん)事件(安徽(あんき)省南部で国民党軍が新四軍を襲撃した事件)であった。このときは、中国共産党が国民参政会への出席を一時拒否するなど国共関係は著しく悪化したが、かつてのような全面内戦の状態に戻ることはなかった。

[安井三吉]

兵站基地


19411281843

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降伏

揚子江中流の要衝宜昌(ぎしょう)への攻撃、重慶・成都(せいと)への空爆(1940)、華北での中原(ちゅうげん)会戦(1941)、華中での長沙(ちょうさ)作戦(1941~1942)、浙贛(せっかん)作戦(1942)、そして大陸打通(だつう)作戦(1944)など、日本はなお幾度かの大規模な作戦を試みたものの、ついに中国を屈服させることはできなかった。それは、長期にわたった中国の人々の抗戦を基礎に、ソ連・米・英の援助、さらに解放区・国民党地区での日本人の反戦運動、朝鮮人の抗日闘争などの国際的支援があったからである。そして1945年8月、アメリカの2発の原爆投下、ソ連・モンゴル軍の参戦により、日本はついに降伏した。降伏文書の調印は9月2日行われたが、中国では翌3日を「抗日戦争勝利記念日」としている。支那派遣軍は9月9日南京で、第10軍は10月25日台北でそれぞれ中国軍に投降した(関東軍は極東ソ連軍に投降)。こうして中国の日本軍約200万はすべて降伏した。中国(満州・台湾を含む)に展開した日本軍の戦死者は約54万人に達した。「満州国」と南京の「中華民国」は、日本降伏とともに崩壊した。植民地台湾、澎湖(ほうこ)列島、租借地関東州はすべて中国に返還された。中国に渡った約200万の一般日本人も、そのほとんどが帰国することになった(ソ連の対日参戦後、満州において、戦闘、襲撃、病気、飢餓、自殺などにより亡くなった日本人は約18万人である)。こうして、1894~1895年(明治27~28)の日清(にっしん)戦争以来の中国に対する侵略と植民地支配の歴史に終止符が打たれたのである。

[安井三吉]

惨勝


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改訂新版 世界大百科事典 「日中戦争」の意味・わかりやすい解説

日中戦争 (にっちゅうせんそう)


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百科事典マイペディア 「日中戦争」の意味・わかりやすい解説

日中戦争【にっちゅうせんそう】

 
1937771941219371938()1939194019431945
麿麿  

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「日中戦争」の意味・わかりやすい解説

日中戦争
にっちゅうせんそう

 
19377 19458 194112 1937 1941 193777 (︿)  ()  ( )  () 麿116 () 
19377 ()  () 8 ()  ()  () 814
193711 ()  193712413 ( )  ()  ( )  19381 ( ) 使 O. ( ) 
19384 () 5 ()  ( )  ()  ()  () 1011 () 使5060
19403 ( ) 11
 ( )  ( ) 194112 1945815 193778 133 300  

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「日中戦争」の解説

日中戦争
にっちゅうせんそう

1937年(昭和12)7月7日の盧溝橋事件に端を発し,45年まで8年間続いた日本と中国の全面戦争。関東軍にはかねてから満州(中国東北部)に隣接した中国北部を親日独立政権支配下にくみこむ意図があった。長城以南進出の地歩を築いた塘沽(タンクー)協定,北支自治工作につながる梅津・何応欽(かおうきん)協定などはその現れである。国民政府が失地満州の回復と華北の中央化をはかると,関東軍・天津軍は冀東(きとう)防共自治委員会を設置し,軍事力を背景に権益保持をはかった。こうしたなかで,天津軍豊台(ほうだい)分遣隊と宋哲元率いる第29軍の一部とが盧溝橋で衝突した。7月11日,日本政府は事件不拡大・局地解決の方針を決定し,満州・朝鮮・内地から派兵できる態勢を整えた。この決定は政府内の不拡大論と拡大論の対立を反映したものであった。同日,政府は事件を北支事変と呼称する旨を発表し,7月27日には内地3個師団の動員実施を決定して,ここに日中両軍の衝突は全面戦争へと発展した。戦線の上海への拡大に応じて,9月2日支那事変と改称。中国は中ソ不可侵条約の締結,中国共産党軍の八路軍編入などで全面抗戦の態勢を整え,日本も,内閣参議制・企画院・大本営などの諸機構を整備した。しかし,12月12日のパネー号・レディバード号両事件は英米の疑惑をまねき,翌日の南京入城の際の南京虐殺事件では強い国際的非難を浴びた。首都陥落後も国民政府の抗戦姿勢は衰えず,ドイツを介したトラウトマン和平工作も失敗したため,日本は38年1月16日「国民政府を対手とせず」と声明し,以降は占領諸地域に傀儡(かいらい)政権を樹立する方針に転換した。38年中には南北作戦連結のための徐州作戦,国民政府の拠点攻略のための武漢作戦,補給路遮断のための広東作戦などが展開されたが,39年からは持久態勢に移行。日独伊三国同盟と南進は太平洋戦争に至る重大な要因であるが,日米交渉での最大の争点は中国からの撤兵問題であった。撤兵に同意しない軍部の反対で交渉は決裂し,太平洋戦争に突入した。中国全土を戦禍にまきこんだ戦争は,45年8月15日のポツダム宣言受諾による日本の無条件降伏,9月2日の降伏文書署名によって終結した。支那事変の名称は戦後日華事変と改められたが,のち日中戦争の名称が定着してきた。

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「日中戦争」の解説

日中戦争(にっちゅうせんそう)


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旺文社日本史事典 三訂版 「日中戦争」の解説

日中戦争
にっちゅうせんそう

1937年の盧溝橋事件を機に本格化した日本軍の中国侵略
1931年の満州事変以後,中国の抗日の気運は強く日本の軍部は武力をもって華北分離工作を進めた。'37年7月盧溝橋 (ろこうきよう) 事件がおこると,近衛文麿内閣は,北支事変と呼称し,現地解決・不拡大方針を表明したが,宣戦布告のないまま日本軍は北京から上海・南京・広東へと戦線を拡大して全面戦争に突入。これに伴い呼称は支那事変へと変化した。中国側は,第二次国共合作を成立させ,国民政府も南京陥落後は重慶に拠点を移し,抗日戦を展開。'38年1月の近衛声明で「国民政府を対手とせず」と,和平交渉をみずから断ち切り,同年後半,主要都市はほとんど日本軍の手におちた。'41年まで小規模な侵攻作戦が続き,長期持久戦の様相を呈したので,日本軍は '40年和平工作として汪兆銘 (おうちようめい) 傀儡 (かいらい) 政権を樹立させた。この間,日本国内の人員・兵器・軍需品消耗による国民生活の犠牲の中で,政府は新体制運動を展開した。'41年12月太平洋戦争開戦ののちも30個師団を中国本土に投入し,重慶侵攻作戦などを計画したが,共産党を中心とする八路軍・新四軍の抗戦が強く,各地に解放地区が成立。日本軍は制空権を失い,補給は続かず侵攻地域の確保ができず,点と線を守るにとどまった。'45年8月ポツダム宣言受諾に伴い,日本軍は国民政府に降伏した。

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旺文社世界史事典 三訂版 「日中戦争」の解説

日中戦争
にっちゅうせんそう

1937年7月の盧溝橋 (ろこうきよう) 事件から45年8月の日本の敗戦まで,日本と中国との間に行われた戦争。日華事変ともいう
1931年9月〜32年3月の満州事変後,日本は中国侵略をさらに露骨化して,北京郊外で起きた盧溝橋事件を契機に全面的侵略戦争を始めた。中国では第2次国共合作により,抗日民族統一戦線ができ,国民政府もアメリカ・イギリス・ソ連の援助を受けながら,南京から武漢・重慶へと移って抗戦し,長期戦化した。日本は汪兆銘 (おうちようめい) 政権を南京に立てて打開をはかったが失敗,南進策に転じて1941年太平洋戦争を開始した。その後の中国戦線は膠着 (こうちやく) 化し,国土の荒廃と民力の消耗は極度に達した。第二次世界大戦における日本の敗北は,この8年にわたる戦争に国力を費したためといっても過言ではない。

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防府市歴史用語集 「日中戦争」の解説

日中戦争

 1937年(昭和12年)7月7日に、北京郊外の盧溝橋[ろこうきょう]付近で日本軍が中国軍に射撃されたこと(盧溝橋事件[ろこうきょうじけん])をきっかけに起こった戦争です。この戦争は長引いた上、中国から兵を引き上げることを求めたアメリカとの交渉も決裂し、1941年(昭和16年)、太平洋戦争[たいへいようせんそう]に突入しました。

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世界大百科事典(旧版)内の日中戦争の言及

【抗日戦争】より

…1937‐45年の日中戦争を中国ではこう呼ぶ。たんなる2国間の戦争としてではなく,民族革命戦争として中国革命の過程に位置づけられている。…

※「日中戦争」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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