デジタル大辞泉
「東本願寺」の意味・読み・例文・類語
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東本願寺
ひがしほんがんじ
[現在地名]下京区常葉町
東は烏(から)丸(すま)通、北は花(はな)屋(やち)町(よう)通、西は新(しん)町(まち)通東、南は七条通北にわたる寺域をもつ。真宗大谷派本山。本尊阿弥陀如来。慶長七年︵一六〇二︶二月、教如が徳川家康より東六条に寺地四町四方の寄進を受け、本願寺を別立したことに始まる。
︿京都・山城寺院神社大事典﹀
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東本願寺
ひがしほんがんじ
京都市下京区にある真宗大谷派本山。本願寺派本願寺と区別するため東をつける。本願寺11世顕如(けんにょ)の没後,長男教如と三男准如(じゅんにょ)の後継争いがおこり,豊臣秀吉が准如を継職と任命(西本願寺派・本願寺)し,1602年(慶長7)徳川家康が教如に烏丸6条の地を寄進したのを機に本願寺は東西に分立。12世教如以後も,宣如のときに徳川家光から土地を与えられ,琢如・常如の代に御影(ごえい)堂改築や学寮創建を行い整備。その後1788年(天明8)・1823年(文政6)・58年(安政5)・64年(元治元)と火災にあった。69年(明治2)北海道開拓の許可を得る。以後,積極的に海外布教を展開。﹁教行信証﹂(国宝),﹁一念多念文意﹂﹁本願寺聖人伝絵﹂(重文)などが伝わる。
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東本願寺
ひがしほんがんじ
京都市下京区烏丸通にある真宗大谷派の本山。通称は「お東」。文禄1 (1592) 年に浄土真宗第 11世顕如が没し,いったんは長男教如が跡を継いだが,顕如の夫人如春尼が3男准如に対する父顕如の門跡譲状を証拠として豊臣秀吉に訴え,その裁断によって准如が第 12世の伝灯を称した。そこで教如は慶長7 (1602) 年に徳川家康の支持を得て,烏丸七条に別に本願寺を建立した。これが現在の東本願寺である。このとき以後,准如の本願寺を西本願寺と称し,末寺もそれぞれ分立した。親鸞の『教行信証』 (国宝) を所蔵する。
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東本願寺
ひがしほんがんじ
京都市下京(しもぎょう)区烏丸(からすま)通七条上ルにある真宗大谷(おおたに)派の本山。正称は本願寺であるが、浄土真宗本願寺派の本山を通称西本願寺というのに対する呼称である。
[編集部]
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東本願寺
ひがしほんがんじ
京都市下京区にある浄土真宗大谷派の本山
正しくは本願寺。通称「お東」。11世顕如 (けんによ) の死後,長男教如 (きようによ) がいったん隠退し,3男准如 (じゆんによ) が12世となったが,1602年徳川家康が教如に寺地を寄付して寺を建てさせ,教如を東本願寺12世としたことから本願寺が東西に二分し,現在に至った。
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東本願寺
京都府京都市下京区にある真宗大谷派の寺院、本願寺の通称。真宗本廟。同じく京都にある浄土真宗の寺、龍谷山本願寺の通称「西本願寺」と対になる呼び名で、地元では「お東」などともする。1602年、徳川家康の寄進を受けて教如が創建。親鸞筆の「教行信証」(国宝)などの寺宝を有する。
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世界大百科事典(旧版)内の東本願寺の言及
【浄土真宗】より
…72年政府はようやく一向宗を真宗と称することを許可したが,浄土宗の立場を考えてか,浄土真宗の名を許さなかった。81年6月,東本願寺派を真宗大谷派,西本願寺派を真宗本願寺派と改めた。第2次大戦後,西本願寺は宗名に浄土を付け浄土真宗本願寺派と称するようになった。…
【本願寺】より
…京都市下京区にある浄土真宗の本山。七条堀川の西本願寺と七条烏丸の東本願寺の両寺がある。1262年(弘長2)親鸞が没すると東山大谷に簡素な墓所が設けられた。…
※「東本願寺」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」