デジタル大辞泉
「東郷」の意味・読み・例文・類語
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東郷
とうごう
薩摩郡の北西部に位置した中世および近世の郷。鹿児島藩の外城の一。近世には東は伊佐郡山(やま)崎(さき)郷︵現宮之城町︶、西は高(た)城(き)郡中(ちゆう)郷︵現川内市︶と水(みず)引(ひき)郷︵現同上︶、南は川(せん)内(だい)川を隔て樋(ひわ)脇(き)郷と平(ひら)佐(さ)郷︵現川内市︶、北は紫(し)尾(び)山地を界して東から出(いず)水(み)郡高(たか)尾(お)野(の)郷・野(の)田(だ)郷・阿久根郷と接した。一八世紀半ば以降の村落は田(とう)海(み)村・白(しら)浜(はま)村︵現川内市︶、斧(おの)淵(ぶち)村・宍(しし)野(の)村・鳥(とり)丸(まる)村・藤(ふじ)川(かわ)村・南(のう)瀬(ぜ)村・山(やま)田(だ)村の八ヵ村からなる。中世までは上記八ヵ村の地域を中心に中(ちゆ)郷(うごう)村︵現川内市︶から山崎郷の二(ふた)渡(わたり)村・白(しら)川(かわ)村︵のち白男川村︶・泊(とま)野(りの)村︵以上現宮之城町︶に至る一帯をさした。
〔中世〕
保延元年︵一一三五︶一〇月二五日の院主石清水権寺主大法師某下文︵旧記雑録︶に﹁高城東郷﹂とみえ、当郷などのうちにある寺領田畠を耕作する作人が命令に従わないため、田畠の管理を五(ごだ)大(い)院︵現川内市︶院主から政所へかえるよう五大院政所正信が命じられている。建久四年︵一一九三︶の薩摩国諸郡注文︵宮之城記︶に、東郷のうちに時(とき)吉(よし)名・吉(よし)枝(えだ)名がみえる。時吉名は近世の高城郷城(じよ)上(うかみ)村︵現川内市︶の下(した)之(のだ)段(ん)の小字時吉に比定する説と︵川内市史︶、山田村の別(べつ)府(ぷ)に比定する説があり︵東郷町郷土史︶、吉枝名は田海村今(いま)村(むら)の(のく)車(るま)内(うち)辺りを含め、高城郷麓(ふもと)村・城上村・麦(むぎ)之(のう)浦(ら)村・水引郷五代村・小(こく)倉(ら)村︵現川内市︶などに点在していたとされる︵川内市史︶。薩摩国建久図田帳には高城郡と並んで東郷別符五三町二段がみえるが、これは東郷全域とは思われず、宍野五(ごし)色(き)から田海の的(まと)場(ば)・別(びゆ)府(うの)原(はる)一帯にかけてに比定されている︵川内市史・東郷町郷土史︶。同別符は豊前宇佐弥勒寺領八町五段・大隅正八幡宮︵現鹿児島神宮︶領二町・公領︵平家没官領︶四二町七段に分けられ、寺領は僧安慶、社領は薩摩国府の在庁官人大前道友が下司で、公領は鎌倉幕府御家人千葉介常胤が地頭であった。常胤は薩摩国五ヵ郷の高城郡・東郷別符・入(いり)来(き)院・
答(けどう)院・甑(こしき)島の地頭職に補任され、併せて島津庄寄郡の郡司職も握った。公領はさらに時吉一五町︵郷司・名主在庁道友︶・一〇町七段︵島津庄寄郡・郷司在庁道友︶の二筆、得(とく)末(すえ)四町︵名主肥後国住人江田実秀︶・吉枝七町︵島津庄寄郡・名主在庁師高︶・若(わか)吉(よし)六町︵島津庄寄郡・名主小大夫兼保︶の四名に分れるが、承久三年︵一二二一︶八月二一日の薩摩国庁下文︵旧記雑録︶には東郷として時吉・吉枝・延(のぶ)武(たけ)・若吉がみえ、得末名の代りに延武名がみえる。得末名・若吉名・延武名は比定地未詳。
東郷
とうごう
現東郷一帯に比定される。建保五年︵一二一七︶六月日の大蔵季秀譲状︵宗像大社所蔵文書/鎌倉遺文四︶に﹁宗形東郷内野坂上今犬﹂とみえる。嘉禎二年︵一二三六︶四月九日の大蔵親秀譲状︵同文書/鎌倉遺文七︶には﹁宗形東郷内野坂別符﹂とあるように、野(のさ)坂(か)上今犬・野坂別符は東郷のうちとされる。貞永元年︵一二三二︶七月二六日の関東下知状案︵同文書/鎌倉遺文六︶によると、宗像社修理料筑前国東郷内曲(まがり)村四〇町をめぐる宗像社と曲村地頭中原季時︵法名行阿︶との争論について、幕府は曲村を多年地頭請所であるが宗像社領となっているという理由で本所の進止にするとしている。季時は中原親能の子。この頃の本所は後高倉院︵後堀河天皇父︶の皇女安嘉門院︵邦子内親王︶であった。
東郷
とうごう
東郷川流域にあった国衙領。東郷の名称は西郷に対応するもので、古代の周(す)吉(き)郡新(にい)野(の)郷の中心部が東・西両郷に区分・再編成されて成立したものと考えられる。郷内には早くから宮(くん)田(だ)城が築かれるなど守護佐々木氏による隠岐統治にとって重要な位置を占めたと考えられているが、現在のところ確かな史料で確認することはできない。弘治三年︵一五五七︶四月七日の惣社五月五日祭礼立用注文写︵億岐家文書︶に犬(いぬ)来(ぐ)公文・飯(いい)田(だ)公文と並んで東郷公文がみえ、同四年の高梨重正等連署書状写︵同文書︶でも、東郷公文と推定される高梨九郎左衛門重正が飯田公文・犬来公文と連名で、惣社国造に対し五月五日祭礼費用を毎年五〇疋ずつ負担することを伝えている。
東郷
ひがしごう
浅(あさ)服(はた)山の東、巴(ともえ)川の上流域に位置する郷名。浅服庄のうちで、現在の東一帯に比定される。駿河守護今川範氏が没した正平二〇年︵一三六五︶以前の年不詳四月二一日の某書状︵円覚寺文書︶によると、﹁浅服東郷﹂の寺用分についての訴訟︵範氏在世時よりのもの︶が落着したことを鎌倉円覚寺提点禅師に報じている。永和三年︵一三七七︶一一月二日、今川範国が﹁円覚寺領浅服庄内東郷﹂の寺家年貢米と材木などの送進について関津の通過を認めており︵﹁今川範国書下﹂同文書︶、同年一二月一一日には北朝から他の円覚寺領庄園とともに当庄東郷に対する伊勢神宮造営のための役夫工米等を免除する官宣旨︵同文書︶が駿河国と円覚寺に出されている。
東郷
とうごう
興福寺大乗院領荘園。三箇院家抄(内閣文庫蔵大乗院文書)に「七十九東郷三丁七反宇多郡」とみえ、宇陀郡田地帳案(春日神社文書)には「東郷三町二反 分米二十石 夏三石 大豆三石」とある。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
東郷(鳥取県)
とうごう
鳥取県中央部、東伯郡(とうはくぐん)にあった旧町名︵東郷町(ちょう)︶。現在は湯梨浜町(ゆりはまちょう)の南部を占める地域。1951年︵昭和26︶東郷、松崎(まつざき)の2村が合併して東郷松崎町となり、1953年舎人(とねり)、花見(はなみ)の2村と合併して東郷町となった。2004年︵平成16︶羽合町(はわいちょう)、泊村(とまりそん)と合併、湯梨浜町となる。旧町域にはJR山陰本線が通じ、北西部には東郷池があり、周辺丘陵上の北山古墳(きたやまこふん)︵国史跡︶は山陰最大級の前方後円墳である。伯耆一宮(ほうきいちのみや)︵倭文(しどり)神社︶経塚(きょうづか)︵国史跡︶出土の銅経筒︵康和(こうわ)5年銘︶など10点が国宝に指定されている。舎人地区には奈良前期の野方(のかた)廃寺跡と条里遺構がある。南部の羽衣石(うえし)にある羽衣石城跡︵県指定史跡︶は、1366年︵正平21・貞治5︶以後関ヶ原の戦いまで南条氏による伯耆支配の中心地であり、落城の日をしのぶ浪人踊(ろうにんおどり)は県の無形民俗文化財。鉢伏(はちぶせ)山山麓(さんろく)などは二十世紀ナシ栽培の中心地で、東郷鉱山は堆積(たいせき)型ウラン鉱山である。ここで1959年から1961年まで採掘が行われたが、1988年に放射性物質を含んだ残土が放置されていたことが発覚し問題となった︵2006年残土撤去完了︶。旧町域の中心は東郷池南岸の松崎で、東郷温泉がある。
﹇岩永 實﹈
﹃﹃東郷町誌﹄︵1987・東郷町︶﹄
東郷(鹿児島県)
とうごう
鹿児島県北西部、薩摩郡(さつまぐん)にあった旧町名︵東郷町(ちょう)︶。現在は薩摩川内(せんだい)市の北部を占める一地区。1952年︵昭和27︶上東郷村を東郷村に改称、即日町制を施行。2004年︵平成16︶川内市、樋脇(ひわき)町、入来(いりき)町、祁答院(けどういん)町、里(さと)村、上甑(かみこしき)村、下甑(しもこしき)村、鹿島(かしま)村と合併、薩摩川内市となる。旧町域は、紫尾(しび)山南西斜面と川内川右岸低地からなり、国道267号が通る。名称は古代の郷名による。平安末以来約200年間名主(みょうしゅ)大前(おおくま)氏の支配のあと地頭(じとう)渋谷(しぶや)氏︵のち東郷氏を称す︶が入封、1680年︵延宝8︶から島津氏の外城(とじょう)。主産業は農業で、水稲、果樹栽培、畜産が中心。とくに1876年︵明治9︶導入のミカン栽培に力を注いでいたが、現在はブドウ、イチゴ、キンカンなどの観光農業、施設園芸に力を入れている。また子牛や肥育牛などの出荷額も伸びている。藤川天神︵菅原神社(すがわらじんじゃ)︶境内の梅林約120本のうち、﹁臥竜梅(がりゅうばい)﹂55株は国指定天然記念物。
﹇白石太良﹈
﹃﹃東郷町郷土史﹄︵1969・東郷町︶﹄
東郷(町)
とうごう
愛知県中部、愛知郡にある町。尾張(おわり)東部丘陵上に位置する。1970年︵昭和45︶町制施行。国道153号が通じる。名古屋市に隣接するため、都市化が著しい。北東部に愛知用水の調整池である愛知池があり、近くには県総合教育センター、運動公園、名古屋大学附属農場︵現、名古屋大学大学院生命農学研究科附属フィールド科学教育研究センター東郷フィールド︶がある。平安時代の猿投古窯址(さなげこようし)群の中心窯の一つである黒笹(くろざさ)七号窯︵県指定史跡︶がある。祐福寺は鎌倉時代創建の古刹(こさつ)で、勅使門は県指定文化財。面積18.03平方キロメートル、人口4万3903︵2020︶。
﹇伊藤郷平﹈
﹃﹃東郷町誌﹄全3巻︵1980~1991・東郷町︶﹄
東郷(宮崎県)
とうごう
宮崎県北部、東臼杵(ひがしうすき)郡にあった旧町名︵東郷町(ちょう)︶。現在は日向市(ひゅうがし)の西部を占める地域。旧東郷町は1969年︵昭和44︶町制施行。2006年︵平成18︶日向市に編入。入郷地帯(いりごうちたい)の東部にあって東郷と称す。耳(みみ)川、小丸(おまる)川の中・上流部にあり、支流坪谷(つぼや)川が耳川に合流。九州山地の東端部にあたり山地面積が広い。国道327号、446号が通る。近世は延岡藩(のべおかはん)に属した。林業、畜産︵肉用牛、ブロイラー︶が主産業。中心地は山陰(やまげ)で、坪谷(つぼや)は歌人若山牧水の生誕地で若山牧水記念文学館、牧水公園がある。
﹇横山淳一﹈
出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例
東郷
とうごう
1952年町制。 1957年下東郷村の一部を編入。 2004年川内市,樋脇町,入来町,祁答院町,里村,上甑村,下甑村,鹿島村と合体して薩摩川内市となった。農業が中心で,おもな産物は米と明治初期に栽培が始まったミカン。近年は畜産も盛ん。北西部の藤川天神の境内にある臥竜梅は国の天然記念物。
東郷
とうごう
松崎町と舎人村,花見村が合体して成立。 2004年10月に羽合町,泊村と合併し湯梨浜町となった。北部にある東郷池周辺の丘陵地には北山古墳 (史跡) などの古墳群,伯耆一宮の倭文神社があり,境内の経塚 (史跡) から出土した銅経筒,銅鏡などの国宝を所蔵。南部には羽衣石城跡がある。県内屈指の二十世紀梨の産地。景勝地の東郷池南岸には東郷温泉があり,一帯は三朝東郷湖県立自然公園に属する。東郷池南岸をJR山陰本線が通る。
東郷
とうごう
9年町制。 2006年日向市に編入。江戸時代は延岡藩領で一部は天領。四囲を山に囲まれ,ほとんどが山林原野。耳川流域のわずかな農地でおもに野菜の促成栽培が行なわれる。シイタケ,クリ,ミカンを特産。坪谷は若山牧水の生地で,生家と記念館がある。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
東郷[町] (とうごう)
愛知県中部,愛知郡の町。人口4万1851︵2010︶。境川上流北岸に位置し,西は名古屋市に接する。境川低地での米作と丘陵地での野菜栽培を中心とする農村地区であったが,名古屋市に隣接するため,近年になって住宅団地や工場の建設が進み,急速に都市化が進行している。北西部を貫流する愛知用水の調整池ダム︵愛知池︶が北端にあり,行楽地にもなっている。東部に名古屋大学農学部付属農場,南部に浄土宗の名刹︵めいさつ︶祐福寺がある。
執筆者‥萩原 毅
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
とうごう【東郷】
のバルチック艦隊に勝利したことを記念し命名。﹁吟醸原酒﹂、普通酒﹁上撰﹂などがある。原料米は日本晴。仕込み水は吉野川水系の伏流水。蔵元の﹁東郷酒造﹂は明治38年(1905)創業。所在地は美作市巨勢。
出典 講談社[日本酒・本格焼酎・泡盛]銘柄コレクションについて 情報
世界大百科事典(旧版)内の東郷の言及
【東郷荘】より
…中世,伯耆国河村郡(戦国期は久米郡に属する)にあった京都松尾神社領荘園。平安末期に成立した河村郡東郷が荘園に転化したものと推定されるが,荘園成立の時期および成立過程等については明らかでない。1258年(正嘉2)11月に作成された有名な〈伯耆国河村郡東郷荘下地中分図〉がその史料的初見で,これによるとその荘域は東郷池周辺地域一帯,今日の鳥取県東伯郡東郷町,羽合町と泊村の一部をその中に含んでいた。…
※「東郷」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」