デジタル大辞泉
「松浦武四郎」の意味・読み・例文・類語
まつうら‐たけしろう〔‐たけシラウ〕【松浦武四郎】
﹇1818~1888﹈江戸末期の探検家。伊勢の人。名は弘(ひろむ)。幼時より諸国を巡歴し、特に蝦(え)夷(ぞ)地に関心を持ち、しばしば訪れて多数の紀行文や地図を残した。著﹁蝦夷日誌﹂など。
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松浦武四郎
まつうらたけしろう
(1818―1888)
北方探検家、著述家。文化(ぶんか)15年2月6日、伊勢(いせ)︵三重県︶の郷士(ごうし)の三男として生まれる。名は弘(ひろむ)、字(あざな)は子重。長じて武四郎を通り名としたが、著書の多くは竹四郎を用い、また多気志楼とも号した。1830年︵天保1︶津(つ)の儒者平松楽斎(ひらまつらくさい)の塾に入る。1833年江戸に行き、その後諸国を遊歴。この間にロシアの南下による北方の危機を聞き、蝦夷(えぞ)地の探検を決意した。しかし旅人が奥地へ入ることは許されなかったため、1845年︵弘化2︶場所請負人和賀屋孫兵衛(まごべえ)手代庄助(しょうすけ)と変名し、東蝦夷、知床(しれとこ)岬まで到達、翌年は北蝦夷地勤番役の僕(しもべ)として樺太(からふと)︵サハリン︶を探検した。さらに1849年︵嘉永2︶には国後(くなしり)・択捉(えとろふ)を探検し、この間に見聞したことを﹃蝦夷日誌﹄﹃再航蝦夷日誌﹄﹃三航蝦夷日誌﹄に著した。1855年︵安政2︶幕府御雇に登用され、翌年箱館奉行(はこだてぶぎょう)支配組頭、向山源太夫(むこやまげんだゆう)手付として東・北・西蝦夷地を巡回。1857年には東西蝦夷山川地理取調御用を命ぜられ、主要河川をさかのぼり内陸部をも踏査、﹃東西蝦夷山川地理取調図﹄﹃東西蝦夷山川取調日誌﹄として呈上したが公にされず、そのこともあってか1859年御雇を辞任、以後約10年間著作活動に専念した。1868年︵明治1︶新政府から東京府付属、ついで翌年には開拓判官(はんがん)に任命され、北海道名や国郡名などの選定にあたった。しかしアイヌ介護問題などについて政府の方針と意見を異にしたため病を理由に辞任、以来著作のかたわら諸州を漫遊、死去直前に従(じゅ)五位に叙せられた。
﹇山崎節子﹈
﹃吉田武三編﹃松浦武四郎紀行集﹄上中下︵1975・冨山房︶﹄
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松浦武四郎 (まつうらたけしろう)
生没年:1818-88(文政1-明治21)
江戸末期の北方探検家。伊勢国一志郡須川村︵現三重県松阪市,旧三雲町︶の郷士松浦桂介︵後に慶裕︶の四男。幼名竹四郎,のち武四郎。諱︵いみな︶は弘︵ひろむ︶,字は子重。1833年︵天保4︶から日本国中を遊歴し,38年から5年間長崎,平戸で僧となり,名を文桂と改めたが,この間長崎の乙名︵おとな︶津川文作から北方の事情を聞いて関心を強め,44年︵弘化1︶帰郷して還俗したうえで単身北行した。翌45年東西蝦夷地,46年北蝦夷地︵樺太︶,49年︵嘉永2︶国後︵くなしり︶島,択捉︵えとろふ︶島を探査し,︽初航蝦夷日誌︾︽再航蝦夷日誌︾︽三航蝦夷日誌︾などを著した。54年︵安政1︶江戸幕府が箱館奉行を置いて翌55年蝦夷地を再直轄すると,幕府御雇として蝦夷地御用掛に起用され,56年から58年まで東西蝦夷地,北蝦夷地を探査して︽竹四郎廻浦日記︾︽東西蝦夷山川取調日誌︾︽東西蝦夷山川取調図︾などを著した。場所請負人のアイヌに対する過酷な扱いを詳細に記した日誌については公にすることを許されなかったこともあって,59年江戸に帰って御雇を辞し,以後市井において蝦夷地紹介を目的とする多くの著書を刊行した。68年︵明治1︶東京府付属,69年開拓判官に任用され,北海道の道名,国名,郡名を選定したが,新政府のアイヌ政策に同調できず,翌年辞任し,以後清貧に甘んじ著述をもって余生を過ごした。
執筆者‥榎森 進
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松浦武四郎【まつうらたけしろう】
幕末の北方探検家。伊勢の人。16歳から諸国を巡歴。一時僧となったが,1844年還俗(げんぞく)。1845年から東西蝦夷(えぞ)地,樺太(からふと)︵サハリン︶,国後(くなしり)島,択捉(えとろふ)島などを探査。1855年幕府蝦夷(えぞ)御用御雇となり,再度蝦夷地を探査したが,場所請負人のアイヌに対する過酷な扱いを記した日誌を公表できなかったこともあって1859年職を辞した。1869年明治政府では開拓判官に任じられて北海道の道名・国名・郡名の選定に当たったが,新政府のアイヌ政策に同調できず翌年辞職。︽三航蝦夷日誌︾など蝦夷関係の著書多数。
→関連項目十勝川|三雲﹇町﹈
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松浦武四郎
生年‥文政1.2.6(1818.3.12)
江戸末期の蝦夷地探検家。名は弘。号は北海,雅号多気志楼。伊勢国一志郡須川村(三重県一志郡三雲町)の郷士松浦時春4男,母登宇。16歳にして故郷を出奔し全国を遊歴して文人や勤王志士と交わった。弘化2(1845)年から安政5(1858)年まで6回にわたって蝦夷地を踏査し,初の詳細な蝦夷地誌である﹃蝦夷日誌﹄155巻を著して幕府に呈上したほか,その摘抄本というべき﹃蝦夷紀行﹄22巻を刊行している。日誌の中では,苛酷な扱いをされているアイヌ民族について﹁明日のご開拓より今日のアイヌの命を﹂と切々と訴えているが,安政大獄の期に当たり取り上げられなかった。明治2(1869)年8月開拓判官(局長級)に任じられ,北海道および国郡名の名付け親としても知られる。3年3月,維新政府によるアイヌ解放が果たされないことを理由に判官を辞任したが,異例にも終身15人扶持(米価換算150万円位)を給された。<参考文献>﹃簡約松浦武四郎自伝﹄
(秋葉實)
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松浦武四郎 まつうら-たけしろう
1818-1888 江戸後期-明治時代の探検家。
文化15年2月6日生まれ。伊勢(いせ)(三重県)の郷士松浦桂介の4男。弘化(こうか)2年から東西蝦夷(えぞ)地(北海道),北蝦夷地(サハリン),国後(くなしり),択捉(えとろふ)を探検。和人のアイヌに対する収奪をふくめ,蝦夷地の姿をつたえる。安政2年幕府御雇の蝦夷地御用掛,維新後は開拓判官となり,北海道の道名,国名,郡名を選定した。明治21年2月10日死去。71歳。名は弘。字(あざな)は子重。号は北海,多気志楼など。著作に「三航蝦夷日誌」「近世蝦夷人物誌」など。
【格言など】我死なば焼くな埋めな新小田に捨ててぞ秋のみのりをば見よ(辞世)
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松浦武四郎
まつうらたけしろう
1818.2.6~88.2.10
幕末期の北方探検家。伊勢国一志郡須川村の郷士出身。1845年(弘化2)はじめて蝦夷地に入り,49年(嘉永2)にかけて樺太・択捉(えとろふ)島まで巡歴。55年(安政2)蝦夷地御用掛となり,翌年から58年にかけて蝦夷地を踏査し,場所請負制下に苦しむアイヌの人々の実情を明らかにする。69年(明治2)開拓使判官となり,北海道の名付親となったが,翌年辞任。「東西蝦夷山川地理取調日記」など著作多数。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
松浦武四郎
まつうらたけしろう
[没]1888.2.10. 東京
江戸時代末期の探検家。幕末から明治にかけて蝦夷地 (北海道,サハリン,千島) を探検,蝦夷地開拓を明治政府にすすめ,開拓大主典に任じられた。主著﹃北蝦夷日誌﹄﹃三航蝦夷日誌﹄など。
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松浦 武四郎 (まつうら たけしろう)
生年月日:1818年2月6日
江戸時代;明治時代の探検家
1888年没
出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報
世界大百科事典(旧版)内の松浦武四郎の言及
【ウイルタ語】より
…ウイルタ語は,これを書く固有の文字がなく,口で話されるだけであるが,昔話(伝説),架空の物語,語り物(これはエベンキ語をまぜて使う),なぞなぞ,歌謡などの諸種の口承文芸がある。ウイルタ語の古い記録としては,江戸時代(19世紀半ば)にこの地方を調査した[松浦武]四郎がその単語をかなで記したものがある。︻池上 二良︼。…
【三雲[町]】より
…1981年三重県中央卸売市場が開設された。なお,蝦夷地探検で知られる[松浦武四郎]は当地の出身で,小野江にその生家跡がある。【上田 雅子】。…
※「松浦武四郎」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」