デジタル大辞泉
「柏原」の意味・読み・例文・類語
かしわばら〔かしはばら〕【柏原】
長野県北部、上(かみ)水(みの)内(ち)郡信濃町の地名。もと北国街道の宿場町。俳人小林一茶の生地。
滋賀県米原市の地名。もと中山道の宿場町。
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かしわばらかしはばら【柏原】
(一)[ 一 ] 長野県北部、信濃町の地名。近世には北国街道の宿場町として栄え、現在は信越本線が通じる。俳人小林一茶の生地で、旧宅がある。
(二)[ 二 ] 滋賀県米原市の地名。江戸時代、中山道の今須と醒井(さめがい)の間にあった宿駅。伊吹もぐさで知られた。
かしわらかしはら︻柏原︼
(一)大阪府中東部の地名。大和川が大阪平野に流れ出る谷口にある。古来、大和川の水運、奈良街道の要地として発展。現在はブドウの栽培が行なわれ、染色、晒(さらし)の在来工業に加えて機械・化学工業が発達する。昭和三三年︵一九五八︶市制。
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柏原
かしわら
[現在地名]和歌山市松原
近世、松原村の中心集落から南東二町余の小山を隔てた所にあった小名。「続風土記」は「日本書紀」にみえる「阿備の柏原」の地とする。「日本書紀」景行天皇三年二月一日条に、
<資料は省略されています>
とある。朝鮮半島に出兵した神功皇后を補佐した武内宿禰が、紀伊国造の女︵妹︶と皇子との間に生れた子であるという記紀の伝承は、紀(きの)伊(み)水(な)門(と)が紀伊の水軍の根拠地もしくは戦略上の要地として中央に知られ、半島出兵における役割も評価されていたことの反映と考えられる。
近世後期の吉原組大差出帳︵和歌山大学蔵︶には、﹁八幡宮ノ神主芝崎大蔵預リ﹂という﹁武内宿禰誕生井﹂が記され、﹁続風土記﹂はその井について﹁享保年中官命ありて井辺に甃をなし、井欄を鎖して平日汲ことを許さす、傍に碑を建てゝ、武内宿禰誕生井と刻す、境内四囲籬を施し人の妄に入ることを許さす、 公子御誕生の時は此井水を御産湯に用ふるを例とす﹂と記す。
柏原
かしわばら
古代の駿河国駿河郡柏(かし)原(わはら)郷︵和名抄︶の郷名を継承したとみられる中世の地名。古代東海道の交通の要地で、柏(かし)原(わはら)駅が置かれていた。浮(うき)島(しま)沼の南の現富士市東柏原新田・中柏原新田・西柏原新田一帯に比定する説と、浮島沼の北で舟運の要地であった現富士市船(ふな)津(つ)付近に比定する説がある。飛鳥井雅有の日記﹁春のみやまち﹂に﹁あをの・小松原・かしははらなともいふ所あり﹂とみえ、鎌倉へ下向する途中の雅有は、弘安三年︵一二八〇︶一一月二四日に当地付近を通り、真砂地︵砂浜︶に芝のみが生えている浮島ヶ原のうちだが小石が多く、青(あお)野(の)・小(こま)松(つば)原(ら)・柏原などともいう所があると記している。
柏原
かしようばら
[現在地名]東広島市西条町郷曾 柏原
古河川と小田山川に挟まれた台地にあり、吉郷・小比曾大河内・田口の三村にわたる近世後期の新開地。「芸藩通志」には面積三一町余、戸数七四・人口三〇三、牛一八・馬一、池塘四・溝渠一四で、「中の峠池」は四町ほどの大池とある。明治三年(一八七〇)の郷村高帳(広島大学蔵)では二三町二反(うち田は一七町六反余)で、上記三ヵ村の入会地とされている。
柏原
かしわばら
古代の佐用郡柏原郷(和名抄)の郷名を継承した地名。千種川上流域の現南光町東徳久・平松を含む一帯に比定される。文明一七年(一四八五)一二月一三日の山名政豊判物(山内首藤家文書)で、山名政豊が山内豊成に佐用郡内柏原西方分一分を宛行っている。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
柏原[市] (かしわら)
大阪府南東部の市。1958年市制。人口7万4773︵2010︶。生駒山地南部の,大和川が河内平野に流れ出る谷口に発達した。古くから河内と大和を結ぶ長尾街道や奈良街道が通る交通の要地で,高井田横穴古墳群︵史︶や玉手山古墳群,河内国分寺跡,同国分尼寺跡などがある。大和川はかつて生駒山地を越えてからは北流していたが,1704年︵宝永1︶付替え工事が完成して以後西に直進して大阪湾へ注いでいる。付替え工事後,旧大和川の河床や新田には綿花やナタネなどが栽培され,明治期にはこれと関連した紡績や搾油工場,小規模な木綿のさらし・染色工場が立地するようになった。現在はさらにベアリングなど機械部品の製造工場も立地している。生駒山麓ではブドウが栽培されるが,近年近鉄沿線を中心に宅地化が進み,栽培面積は減少している。JR関西本線が通じ,西名阪自動車道のインターチェンジがある。
執筆者‥秋山 道雄
歴史
大和川と石川の合流点に在郷町として発達し,了井川,平野川の水運によって柏原~大坂間を上下した柏原船で有名。柏原船は,代官末吉孫左衛門が洪水で荒廃した柏原村復興策として計画し,1636年︵寛永13︶秋に開設された。このとき船主たちによって古新町の西側に新町が建設された。翌年船仲間の再編強化が行われ,新加入船主の大坂商人14人によって新町の続きに町屋が建てられ,坂井町と称した。坂井町は46年︵正保3︶に末吉氏の命で本郷前の新埋立地に移り今町と改め,古新町はこのとき古町と改められた。戸数は95年︵元禄8︶に254戸︵本郷142戸,古町51戸,今町61戸︶,1744年︵延享1︶に312戸になった。柏原船は,大和,河内の村々から米︵年貢,販売用︶,綿,野菜などを,大坂から干鰯︵ほしか︶など肥料類を中心に運び,江戸時代全期を通じてその特権は保持され,柏原の発達を支えた。
執筆者‥内田 九州男
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
柏原(兵庫県)
かいばら
兵庫県中東部、氷上郡(ひかみぐん)にあった旧町名︵柏原町(ちょう)︶。現在は丹波(たんば)市の中南部を占める一地区。1889年︵明治22︶町制施行。1955年︵昭和30︶新井(にい)村と合併。2004年︵平成16︶氷上町、青垣(あおがき)町、春日(かすが)町、山南(さんなん)町、市島(いちじま)町と合併、市制施行して丹波市となる。旧町域は、三方を中国山地に囲まれ、加古川の支流柏原川の谷が北に開いている。西南の丹波篠山(ささやま)市とを結ぶ京街道は、いまは鐘ヶ坂(かねがさか)トンネルを通る国道176号となり、またJR福知山線が南北に走る。江戸時代は郡内唯一の陣屋町︵織田氏柏原藩2万石︶として栄え、明治以後は郡行政の、現在は丹波地域広域行政の中心である。産業は農業を主とし、肉用牛の飼育が盛ん。特産物に丹波グリ、シイタケがある。柏原藩陣屋跡は国の史跡で、現在は陣屋が復元されている。近くに織田氏伝来の武具・書画などを展示した歴史民俗資料館がある。柏原八幡(はちまん)神社の本殿・拝殿は1582年︵天正10︶豊臣(とよとみ)秀吉が再建させたもので国の重要文化財。県の天然記念物の大ケヤキの根が川をまたいでつくる﹁木の根橋﹂は町のシンボルである。
﹇大槻 守﹈
﹃﹃柏原町誌﹄︵1975・柏原町︶﹄
柏原(市)
かしわら
大阪府中東部、大和川(やまとがわ)が大阪平野に流れ出る谷口部にある市。1958年(昭和33)市制施行。JR関西本線、近畿日本鉄道の大阪線・道明寺線、国道25号(奈良街道)、165号、170号(東高野(こうや)街道)、西名阪自動車道が通じる。古くから奈良と大阪を結ぶ交通の要地であるとともに、河内(かわち)の政治、文化の中心地として栄え、高井田横穴、松岳山古墳(まつおかやまこふん)(ともに国指定史跡)や国分寺、国府遺跡(こういせき)がある。近世大和川の付け替え後は、旧河床にワタ、ナタネが栽培され、柏原船、国分船で大坂の京橋へ運ばれた。明治以後、豊かな地下水を利用して晒(さらし)、染色工業が発達し、ゆかた生地の生産が盛んであったが、近年では生産量が減少、最近は機械、化学、金属工業が伸びている。東部の奈良県境の生駒(いこま)、金剛(こんごう)山地山麓(ろく)のブドウ栽培も有名である。三田(さんだ)家住宅は18世紀中ごろの町屋で国指定重要文化財。渡来人田辺史(ふひと)の氏寺田辺廃寺跡は国指定史跡。また大阪教育大学、関西福祉科学大学がある。面積25.33平方キロメートル、人口6万8775(2020)。
[安井 司]
『『柏原市史』全5巻(1969~1982・柏原市)』
柏原(滋賀県)
かしわばら
滋賀県北東部、米原市(まいばらし)の一地区。旧柏原村。古代の柏原荘(しょう)の地。近世は中山道(なかせんどう)に沿う宿場町として繁栄した。また伊吹艾草(もぐさ)を商う店も多かった。柏原宿歴史館がつくられている。国道21号が通じ、JR東海道本線柏原駅がある。
﹇編集部﹈
柏原(長野県)
かしわばら
長野県北部、信越国境に接する上水内(かみみのち)郡信濃町(しなのまち)の中心集落。旧柏原村。近世、北国街道の宿場で、俳人小林一茶の旧居土蔵︵国指定史跡︶がある。しなの鉄道北しなの線︵旧、JR信越本線︶黒姫(くろひめ)駅の所在地。
﹇編集部﹈
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柏原
かいばら
889年町制。 1955年新井村と合体。 2004年氷上町,青垣町,春日町,山南町,市島町と合体して丹波市となった。中心集落の柏原は江戸時代,織田氏2万石の陣屋町で,国の史跡の柏原藩陣屋跡,長屋門に当時の面影が残る。明治以後は郡の行政,経済の中心地。米作,シイタケ栽培が行なわれるほか工業団地が造成され,プラスチック,塗料,紙加工などの工業が立地する。鐘ケ坂,川代公園はともに桜,紅葉の名所。
柏原
かしわばら
長野県北部,新潟県に接する信濃町の中心集落。旧村名。 1955年富士里村と合体して,56年信濃町となる。近世は北国街道の宿場町で,民家建築に宿場の面影が残る。近世以来,鎌の生産が盛んで伝統工業として残る。俳人小林一茶の晩年の住居 (史跡) ,一茶記念館や俳諧寺などがある。黒姫高原やスキー場,温泉,野尻湖畔の別荘地への入口でもある。
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世界大百科事典(旧版)内の柏原の言及
【東串良[町]】より
…中世以来この地を支配した肝付氏が,天正年間(1573‐92)に移封されてからは島津氏の所領となる。江戸時代には,肝属川河口の柏原(かせばる)は,米の積出しや琉球などとの貿易の港として栄えたが,今は漁港で,国家石油備蓄基地が地先にある。明治末期には大規模な耕地整理が行われ,それまでの低湿地は二毛作さえ可能な良田となった。…
※「柏原」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」