榎本武揚(読み)エノモトタケアキ

デジタル大辞泉 「榎本武揚」の意味・読み・例文・類語

えのもと‐たけあき【榎本武揚】

 
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40196542196722  

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精選版 日本国語大辞典 「榎本武揚」の意味・読み・例文・類語

えのもと‐たけあき【榎本武揚】

 

(一)()
 

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「榎本武揚」の意味・わかりやすい解説

榎本武揚
えのもとたけあき
(1836―1908)


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百科事典マイペディア 「榎本武揚」の意味・わかりやすい解説

榎本武揚【えのもとたけあき】

 
()1868使
 

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新訂 政治家人名事典 明治~昭和 「榎本武揚」の解説

榎本 武揚
エノモト タケアキ


肩書
農商務相,外相,文相,逓信相,海軍卿

別名
通称=榎本 釜次郎 号=梁川

生年月日
天保7年8月25日(1836年)

出生地
江戸・下谷御徒町

経歴
12歳で昌平黌に入り、嘉永6年幕府伝習生として長崎の海軍練習所に学んだ。安政5年江戸に帰り海軍操練所教授。文久元年開陽丸建造監督を兼ねてオランダ留学、造船学、船舶運用術、国際法などを学び、慶応2年帰国、軍艦乗組頭取、海軍奉行となった。戊辰の役では幕府海軍副総裁として主戦論を唱え、江戸開城後も政府軍への軍艦引き渡しを拒否、明治元年8月全艦隊を率い仙台を経て北海道へ脱走、箱館の五稜郭にたてこもり抗戦した(箱館戦争)。2年降伏して入獄、5年特赦となり、北海道開拓使となった。7年海軍中将兼特命全権公使としてロシアに赴き、千島樺太交換条約を締結。12年外務省二等出仕、13年海軍卿、15年清国在勤特命全権公使として伊藤博文全権と共に天津条約を締結。18年逓信大臣、21年農商務大臣兼任、22年文部大臣、24年外務大臣、27年農商務大臣を歴任。20年子爵。著書に「西比利亜日記」。

受賞
勲一等従二位〔明治19年〕

没年月日
明治41年10月26日

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朝日日本歴史人物事典 「榎本武揚」の解説

榎本武揚

没年:明治41.10.26(1908)
生年:天保7.8.25(1836.10.5)
幕末明治期の軍人,政治家。通称釜次郎,叙任して和泉守,梁川と号す。西ノ丸御徒目付榎本円兵衛の次男。弘化4(1847)年,12歳で昌平坂学問所に入り,のち中浜万次郎塾に学ぶ。安政1(1854)年箱館奉行堀利煕の小姓となり,樺太探検に従う。同3年,長崎海軍伝習所第2期生となり,勝海舟の指導下に軍艦操練,航海術を学び,同5年江戸築地の軍艦操練所教授方出役となる。文久2(1862)年にはオランダ留学を果たし,砲術,造船術,機関学,国際法規などを習得。慶応2(1866)年,幕府注文の開陽丸を回送して帰国し,同艦船将,軍艦頭並などを歴任。大政奉還の前後には上方にあり,明治1(1868)年幕府海軍副総裁となる。徳川慶喜が鳥羽・伏見の戦に敗れて江戸に下ると,榎本もまた江戸に帰り,自重を求める勝海舟に「一寸の虫にも五分の魂とやら」と書を送って官軍による軍艦接収を拒んだ。同年8月,8隻の旧幕府軍艦を率いて品川沖を脱出し,奥羽列藩同盟軍支援に北上。その後箱館五稜郭に入り「蝦夷共和国」樹立を宣言。列強からも「事実上の政権」との承認を得るが,新政府が甲鉄艦ストーンウォール号を導入するにおよび政治的・軍事的壊滅をみ,明治2年5月降伏(箱館戦争)。戦後2年半の禁固を経て,黒田清隆の北海道開拓事業に出仕,明治7年には海軍中将兼特命全権公使として対露交渉に当たり千島・樺太交換条約に調印。帰路は馬車でシベリアを横断視察し,『西比利亜日記』をなす。その後外務大輔,海軍卿,駐清特命全権公使,逓信・文部・農商務の各大臣を歴任。なお夫人たつは幕府医官林洞海の娘。

(岩下哲典)

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改訂新版 世界大百科事典 「榎本武揚」の意味・わかりやすい解説

榎本武揚 (えのもとたけあき)
生没年:1836-1908(天保7-明治41)


1856362267368169272使74使西8082使使85972

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「榎本武揚」の意味・わかりやすい解説

榎本武揚
えのもとたけあき

 
[]7(1836).8.25. 
[]1908.10.26. 
2 (1862)  ( ) 2 (69) 556使1874使80使85  

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「榎本武揚」の解説

榎本武揚
えのもとたけあき


1836.8.251908.10.26

()1868()72使使使11122

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「榎本武揚」の解説

榎本武揚 えのもと-たけあき

1836-1908 幕末-明治時代の武士,政治家。
天保(てんぽう)7年8月25日生まれ。榎本左太夫の次男。幕臣。長崎の海軍伝習所にまなび,文久2年オランダに留学。帰国後海軍副総裁。明治元年蝦夷地(えぞち)(北海道)箱館に独立政権をたてるが翌年降伏。5年特赦。8年特命全権公使としてロシアと樺太千島交換条約を締結。のち逓信,文部,外務,農商務の各大臣を歴任した。明治41年10月26日死去。73歳。江戸出身。通称は釜次郎。号は梁川。

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旺文社日本史事典 三訂版 「榎本武揚」の解説

榎本武揚
えのもとたけあき

 
18361908

 () 使1875  

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世界大百科事典(旧版)内の榎本武揚の言及

【樺太・千島交換条約】より

…1875年5月7日,ペテルブルグで榎本武揚,ゴルチャコフ両全権の間で調印され,日露両国間の領土問題を解決した条約。同年8月22日批准,11月10日布告。…

【五稜郭の戦】より

…新政府は蝦夷地に箱館府を設置し,松前藩などがこの警備に当たった。一方,旧幕府海軍副総裁榎本武揚は,1868年(明治1)8月19日,旧幕府軍艦8隻で旧幕臣やフランス人士官らとともに品川沖を脱し,途中仙台で前老中板倉勝静,同小笠原長行,前歩兵奉行大鳥圭介らを加え,総勢2800余人を乗せ,10月20日蝦夷地鷲ノ木(現,茅部郡森町)に上陸した。ついで箱館府知事清水谷公考を青森へ敗走させ,松前城を陥れ,藩主松前徳広を津軽へ逃走させた。…

※「榎本武揚」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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