日本歴史地名大系 「田布施」の解説
田布施
たぶせ
万ま之の瀬せ川支流堀ほり川流域一帯をさす地名。中世から史料にみえ、当時の田布施は現金峰町尾おく下だり・池いけ辺べと高たか橋はし・大おお野のの一部地域に比定され、南の高橋郷とともに阿あた多きた北か方たに属した。多布施・田布施郷ともみえる。嘉元三年︵一三〇五︶二月一七日の二階堂泰行譲状案︵二階堂文書︶に﹁たふせのかう﹂半分とみえ、子息隠岐の三郎︵行雄︶に譲っている。これより以前には田布施郷を含む阿多北方の地頭は鮫島家高であったが、宝治元年︵一二四七︶新田宮領への乱妨行為により没収され、二階堂行久に与えられ、以後次女の向女房︵忍照︶・子息泰行へと相伝されてきた︵同年一〇月二五日﹁関東下知状案﹂新田神社文書、建長元年八月九日﹁関東御教書﹂二階堂文書︶。延慶二年︵一三〇九︶一月六日、南の高橋郷とは﹁大野井手﹂﹁阿加宇曾能道﹂﹁平山河﹂﹁池部河﹂﹁高柳乃大井手﹂﹁高橋渡﹂﹁谷山大道﹂などを境とすることなどが確認されている︵﹁尼忍照置文﹂二階堂文書︶。建武四年︵一三三七︶三月七日、二階堂行雄︵行存︶は足利直義から田布施郷半分地頭職を安堵され︵﹁足利直義下文﹂同文書︶、暦応元年︵一三三八︶に行仲に譲ったが︵建武五年九月二日﹁二階堂行存譲状﹂同文書︶、観応二年︵一三五一︶には惣領直行︵禅桂︶に対しても同郷などを譲っている︵貞和七年四月三日﹁二階堂行存譲状﹂同文書︶。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報