デジタル大辞泉
「百科全書」の意味・読み・例文・類語
ひゃっかぜんしょ【百科全書】[書名]
︽原題、︿フランス﹀Encyclopédie, ou Dictionnaire raisonné des sciences, des arts et des métiers︾フランスの百科事典。本編17巻、補遺5巻、図版11巻、索引2巻。ディドロとダランベールの監修。1751~80年刊。フランス啓蒙思想の集大成であり、近代合理主義の立場による知識の普及に大きな役割を果たした。
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ひゃっか‐ぜんしょヒャククヮ‥【百科全書】
(一)[1] 〘 名詞 〙
(一)① =ひゃっかじてん︵百科事典︶
(一)[初出の実例]﹁百科全書(ひゃくクヮゼンショ)収(をさむ)る所気中現象学旋風の条に云﹂(出典‥風俗画報‐三二四号︵1905︶漫録)
(二)② 一定の体系の下に、種々の学術・技芸を部門別に解説した叢書。︹英和商業新辞彙︵1904︶︺
(二)[2]
(一)[ 一 ] チェンバースの百科事典﹁Information for the people﹂の翻訳で、文部省編輯寮の箕作麟祥らにより、分冊本は明治七年から十七年にかけて、合冊本は明治一一年から刊行されたもの。これにより各学問分野の術語がかたまり、学問の基礎的知識が広まるなど大きな成果をあげた。
(二)[ 二 ] ( 原題[フランス語] Encyclopédie ou Dictionnaire raisonné des sciences, des arts et des métiers で、﹁百科全書すなわち科学・芸術・技術に関する理論的事典﹂の意 ) 百科事典。三五巻。収録項目約六万六〇〇。一七五一~八〇年刊。ディドロとダランベールの監修のもとに、ボルテール、モンテスキュー、ルソーなど二六四名の多方面の執筆者が協力。フランス啓蒙思想の集大成でもある。
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百科全書
ひゃっかぜんしょ
Encyclopédie
明治初期に、あらゆる学問の組織的な総集または百科事典の意味に用いられたことば。現在では、フランスのディドロ編と、明治初期文部省編の百科事典をさしていうことが多い。
﹇彌吉光長﹈
18世紀、イギリスではブルジョアジー勃興(ぼっこう)に支持されてチェンバーズの﹃百科事典﹄が成功したので、銀行家のミルズJohn Mills︵1717―1794︶はこれをフランスで翻訳刊行しようとパリのル・ブルトンに交渉したが意見があわなかった。しかし、ル・ブルトンAndré Le Breton︵1708―1779︶は計画をあきらめず、ついにディドロに編集を依頼、彼は1746年に編集に関係し、友人のダランベールも誘って共同編集とした。ときにディドロは33歳、ダランベール29歳であった。ダランベールは若いながらアカデミー会員であり、ボルテール、モンテスキュー、ビュフォン、ケネー、ルソー、コンディヤックに寄稿を引き受けさせることに成功、1750年に予約募集し、翌年第1巻を発行した。この進歩的啓蒙(けいもう)事典の出現に新興の商人階級や思想家は賛成したが、貴族と僧侶(そうりょ)の上層階級には反対が多く、また極右のイエズス会の圧迫が激しかった。両勢力の対抗の間に出版は進み、これら寄稿者たちは百科全書派︵アンシクロペディスト︶encyclopédistesとよばれるようになった。ところが、第7巻にダランベールの﹁ジュネーブ﹂が出るとルソーは怒って脱退し、さらに1759年、出版特許を取り消されて寄稿家の大部分が脱退、ダランベールも抜け、残ったのはディドロと学者ジョクールLouis Chevalier de Jaucourt︵1704―1779︶だけとなり、ついには地下印刷という最悪の事情のもとに無償の働きを余儀なくされ、財産も売り払って書記らの給料を払った。こうした種々の困難を切り抜けて、1772年についにこの﹃百科全書﹄Encyclopédie, ou dictionnaire raisonné des sciences, des arts et des métiers, par une société de gens de lettresが完成、本文17巻と図版11巻であった。これが大歓迎を受けたので、パンクークC. J. Panckoucke︵1736―1798︶は続巻を計画、ディドロは老年︵60歳︶のため辞し作家マルモンテルが引き受けて本文4巻、図版1巻、索引2巻︵1776~1780︶を完成した。
﹇彌吉光長﹈
明治初期に出版された文部省訳の百科事典をいう。原本はチェンバーズ編﹃国民知識事典﹄Information for the Peopleの第5版2巻︵無刊記︶。文部省編輯(へんしゅう)寮頭箕作麟祥(みつくりりんしょう)が東京中の英語学者に分担させて翻訳させ、1874年︵明治7︶から分野ごとに出版していったものである。1874年には経済編、養生編、交際編、医学編、商業編など10編ができた。翻訳の困難さのなかでもとくに抽象的な術語を案出するのに時間がかかり、訳出返上を申し出る者が続出して、箕作らが担当せざるをえなかった。箕作は﹁自然神学﹂﹁教育学﹂﹁道徳学﹂を訳し、また、数学者菊池大麓(だいろく)は﹁修辞及華文﹂を、大槻文彦(おおつきふみひこ)は﹁印刷術及石版術﹂を訳した。財政の都合で1884年に93巻で打ち切られたが、この刊行は民間に提供されて、有隣堂は1878年から1886年に20巻で発行した。また、丸善は不足を補訳して、1883年から1885年に索引とも全3巻で予約出版を行った。この出版によって術語が確立され、学問的基礎知識導入の大きな役割を果たした。
﹇彌吉光長﹈
﹃桑原武夫編﹃フランス百科全書の研究﹄︵1954・岩波書店︶﹄▽﹃福鎌達夫著﹃明治初期百科全書の研究﹄︵1968・風間書房︶﹄▽﹃J・プルースト著、平岡昇・市川慎一訳﹃百科全書﹄︵1979・岩波書店︶﹄▽﹃F・ヴェントゥーリ著、大津真作訳﹃百科全書の起源﹄︵1979・法政大学出版局︶﹄▽﹃中川久定著﹃啓蒙の世紀の光のもとで――ディドロと﹃百科全書﹄﹄︵1994・岩波書店︶﹄▽﹃寺田元一著﹃﹁編集知﹂の世紀――一八世紀フランスにおける﹁市民的公共圏﹂と﹁百科全書﹂﹄︵2003・日本評論社︶﹄▽﹃ディドロ、ダランベール編、桑原武夫編訳﹃百科全書――序論および代表項目﹄︵岩波文庫︶﹄
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百科全書 (ひゃっかぜんしょ)
Encyclopédie
ディドロとダランベールを編集責任者とし,264人の執筆者の協力によって成立したフランス18世紀の大百科事典︵正式表題︽一群の文筆家によって執筆された百科全書,あるいは科学・技芸・手工業の解説辞典Encyclopédie ou Dictionnaire raisonné des sciences,des arts et des métiers,par une société de gens de lettres︾︶。二つ折判︵縦40cm,横25cm︶で,本文17巻,図版11巻からなり,ル・ブルトンを中心とする連合出版社から発行された。まず1750年10月に︿趣意書﹀8000部を配布して予約購読者をつのったのち,本文は51年6月から66年1月中旬~3月末にかけて,次いで図版は62年1月から72年にかけて,それぞれ刊行を完了した︵ほかに︽補遺︾5巻および同図版2巻が76年から80年にかけてディドロらの仕事とは別に,オランダの書店から刊行されている︶。この間,宮廷内の反動派,イエズス会,ジャンセニスト,反動的文筆家たちの露骨な策動があったにもかかわらず,最初1000人だった購読者は,最後には4000人にまで膨れあがった。ディドロ,ダランベールを中心に集まった項目執筆者たちは,通常︿百科全書派︵アンシクロペディスト︶﹀と呼ばれている。
本文第1巻の冒頭に収録されたダランベールの︿序論﹀によれば,この総合大事典は二つの目的をもっている。すなわち,一方で表題の︿百科全書﹀︵encyclopédie--語源的には︿諸学問の連鎖﹀を意味する︶として,︿人間知識の秩序と関連を可能な限り明らかにすべきであり﹀,他方では,副題の︿科学・技芸・手工芸の解説辞典﹀として,各科学と各技芸・手工芸の︿基礎的な一般原理と,最も本質的な内容的・実質的細目とを含むべきである﹀としている。この︿人間知識﹀の編成,あるいはむしろ18世紀的再編成は,神を中心としたそれまでのヨーロッパ文化の古い枠組みを破壊し,まったく新しい︿人間﹀という準拠点を導入することによって遂行されるものである。︿人間こそ,そこから出発し,そこにいっさいを還元せねばならない唯一の準拠点である﹀︵ディドロ執筆の項目︿百科全書﹀︶。この︿人間﹀は当然,かつての宗教的理想人︵︿聖人﹀︶でも貴族的理想人︵︿英雄﹀︶でもなく,︿社会に生き,科学と技芸を発明し,自己に固有の善良さと邪悪さをもち,主君をもち,法律をつくりだした存在﹀︵ディドロの執筆項目︿人間﹀︶,すなわち18世紀フランス社会のなかで生きる新しいブルジョア的人間である。このブルジョアは,巧妙な批判的方法を駆使して,社会の悪弊,非合理的伝説・制度などを打破すると同時に,従来不当に蔑視され続けてきた技術の復権を目指している︵特に図版によって︶。けれどもこのブルジョアはまた,もはやかつてのように自分たちヨーロッパ人だけが地上における唯一の価値ある人間であるとは考えていない。事実︽百科全書︾は,非ヨーロッパ文化圏に関する少なからざる言及を含んでいる。たとえば日本に関しても,本文17巻のうちに少なくとも63の項目と,図版11巻のうち二つの項目︵︿日本皇帝︵これは太閤秀吉を指す︶の紋章﹀と︿日本文字﹀︶とを検索することができる︵さらに詳細に調査すれば,項目数はさらに増えるであろう︶。これら総計65項目のなかで,ジョクールの執筆項目︿日本﹀とディドロの執筆項目︿日本人︵の哲学︶﹀とが,いわば全体の総論にあたる位置を占め,以下に次のような諸項目が挙げられる。人間・地理︵14項目︶,政治・法制︵8項目︶,宗教・祭祀︵27項目︶,風俗・室内調度︵5項目︶,文化・技術︵9項目︶。
ダランベールは,この時代のフランス社会の精神状況についてこう書いている︵︽哲学基礎論︾︶。︿世俗的な学者の原理から宗教の啓示の根拠にいたるまで,形而上学から趣味の事がらにいたるまで,音楽から道徳にいたるまで,神学者のスコラ的論議から交易の品物にいたるまで,王侯の権利から人民の権利にいたるまで,自然法から諸国家の勝手気ままな法にいたるまで……ありとあらゆるものが議論され,分析され,あるいは少なくとも問題にされた﹀。そしてまさにこの18世紀的精神状況の正確な縮図こそが,︽百科全書︾だったのである。
→アンシクロペディスト
執筆者‥中川 久定
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
百科全書
フランスで出版された,近代的な編集知を示した最初の百科事典︵1751-80年,本編17巻,補遺5巻,図版11巻,索引2巻︶.1728年に英国で刊行されたチェンバーズ︵Ephraim Chambers, c. 1680-1740︶のCyclopaediaなどを参考に企画され,ディドロ︵Denis Diderot, 1713-1784︶とダランベール︵Jean Le Rond d’Alembert, 1717-1783︶が編集を担当した.論文形式による大項目がアルファベット順に配列され,項目間の参照指示がなされている.また,挿図が多用されており,これは科学理論に対しての実践が高まるにつれ,学者や職人などに製図のような正確な図解が求められたためだと考えられる.当時の先進的な技術や科学的知識に裏打ちされた,合理的思考を体現した文献として高く評価されており,フランス革命に向かう民意の形成に貢献したといわれる.
出典 図書館情報学用語辞典 第4版図書館情報学用語辞典 第5版について 情報
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
百科全書
ひゃっかぜんしょ
Encyclopédie ou Dictionnaire raisonné des sciences, des arts et des métiers
1~72年刊。28巻 (本文17巻,図版11巻) 。さらに76~77年補遺5巻,80年に索引2巻が別の編者により出版された。ダランベールの有名な﹁序説﹂に始り,執筆者はボルテール,モンテスキュー,J.-J.ルソー,エルベシウス,コンディヤック,モルレ,イボン,ドルバック,ドーバントン,マルモンテル,デュ・マルセ,ケネー,テュルゴーなど。その合理主義,実証主義により,イエズス会をはじめ反動陣営からの執拗な攻撃を受け,また﹁ジュネーブ﹂の項がルソーの反論にあい,この項の執筆者ダランベールが手を引くなど,刊行には多大の障害が生じたが,ダルジャンソン侯,ポンパドゥール夫人,マルゼルブ出版業監督官らの強力な支持を得,またなによりもディドロの献身により完成をみた。18世紀啓蒙思想の最大の成果である。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
『百科全書』(ひゃっかぜんしょ)
Encyclopédie
別名﹃科学・技芸の合理的事典﹄。ディドロ,ダランベールの監修で,1751~72年にわたって刊行された百科全書。初版28巻。ダランベールの序文がこの企画を説明し,科学のみでなく応用技術についても解説すること,合理的・実証的知識体系を与えることを明らかにしている。18世紀中期のフランスの啓蒙思想家をほとんどすべて動員し,個々の差はあるとしても,アンシクロペディスト(encyclopédistes)は合理主義,自由主義,個人主義という近代的原理のうえに立って執筆した。発刊当時から政治的圧迫が加えられたが,大きな社会的反響を呼び,啓蒙思想の勝利に貢献した。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
百科全書
ひゃっかぜんしょ
Encyclopédie
18世紀フランスの啓蒙思想家ディドロ・ダランベールらの編集した百科事典
執筆者はこのほか,ルソー・ヴォルテール・モンテスキュー・ケネーらで,百科全書派と呼ばれた。科学・技術・芸術に合理主義の立場を貫き,また教会を強く批判したため当局から弾圧されたが,ディドロは独力で1751年に第1巻を出版,72年までに19巻,図版11巻の大事典を完成。重農主義者から人民主権論者まで協力者はさまざまな立場に立っていたが,科学的真理の追求と絶対主義の批判が特徴的であり,啓蒙思想の集大成とその普及に貢献し,フランス革命の思想的準備を果たした。
出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報
世界大百科事典(旧版)内の百科全書の言及
【アンシクロペディスト】より
…フランスの《百科全書》(1751‐80)の執筆,刊行に参加したフランス啓蒙思想家の集団。百科全書派と訳される。…
【技術史】より
…ベーコンの重要な点は,他の学問と違って〈機械的技術においては,最初の考案はごくわずかなことしかなしとげず,時がこれにつけたして完成する〉として,技術の進歩が蓄積的で改良・洗練されていくものであることに注目したことと,〈技術史(誌)の効用はすべての歴史(誌)のうちで自然哲学のために最も根本的で基本的なものである〉として技術史(誌)の研究を提唱した(1605)ことである。これを受けた技術誌は18世紀フランスの《[百科全書]》で実現された。〈学問・技芸・工芸の(des sciences,des arts et des métiers)合理的事典〉という副題はその内容をよく示している。…
【自然誌】より
…これらの自然研究はそれまでの学問体系(自由七科)になかったもので,これを受けてF.ベーコンは技術誌を含めた自然誌を新しい学問体系の冒頭に位置づけた。ベーコン自身は膨大な自然誌の草稿を残したが個人では完成できず,その夢は18世紀フランスの《[百科全書]》で実現した。同じころパリ王立植物園長だったビュフォンが36巻におよぶ《[博物誌]》を刊行,進化思想で系統づけた自然誌を出した。…
【ダランベール】より
…49年《歳差に関する研究》ではニュートンが解決できなかった問題の数学的解決を示した。 他方,1746年からディドロと協力して《[百科全書]》の編集にたずさわり,第1巻(1751)冒頭に〈百科全書序論〉を発表。このほか,数学・自然科学分野を中心とする多数の項目を寄稿した。…
【ディドロ】より
…彼はそこでプラトンの《ソクラテスの弁明》を仏訳し(生前未刊),この翻訳を通して自己の信念を裏切ることなく平然と処刑されたソクラテスへの崇敬を暗黙裏に表明している。釈放されたディドロは,《[百科全書]》の編集責任者として,編集方針の確定,執筆者への依頼,原稿の検討,校正,政府との交渉などの仕事に没頭,諸分野にわたる学者,技術者の開かれた協働により,政府内部の分裂・対立を巧みに利用しながら反動派の攻撃と粘り強く戦い,ついに大事業に成功した。 《百科全書》編集のかたわら彼のペンは文学に向かう。…
【ドルバック】より
…ライデン大学で自然科学を学び,パリに戻ると,まだ無名の知識人ディドロ,グリム,ルソーたちと交友。ディドロ,ダランベール編集の︽[百]科全書︾には,化学,地質学など多数の項目を寄稿した。彼のパリの屋敷と近郊の別荘は,百科全書派の集会所であった。…
【パリ】より
…街路名が四つ辻に掲げられるようになるのが1728年,一般の家屋に番地が付けられるのが79年,街路と街区はこのようにして管理されるようになる。
﹇公衆衛生と︽百科全書︾﹈
しかし18世紀の人口はさらに増大し,60万~70万と推定されている。新しい街区の建設も進んだが,老朽化した家屋,不完全な下水道や街路の状態など,パリの衛生状態が医学の問題としても取り上げられるようになった。…
【百科事典】より
…近代的事典の筆頭としては,イギリスのE.チェンバーズの《百科事典Cyclopaedia》2巻(1728)がある。これに範をとり,当初はそのフランス語訳作成の目的で開始された作業は,ディドロ,ダランベールらの手による《[百科全書]》に結実した。全28巻からなるこの事典は,ディドロによる序文にみられるように,明確な方法意識によって編集されている。…
【ブロンデル】より
…とりわけ後者は建築アカデミー教授としての講義を編纂した議義録で,若い世代に著しい影響を与えた。またディドロらとも交わり,︽百科全書︾の,︿建築﹀︿建築家﹀をはじめとする建築関係の項を担当している。彼の門下には,ルドゥーやブロンニャールA.T.Brongniartなどルイ16世時代から革命期にかけて活躍した建築家が数多く集まり,18世紀後半のフランス建築の流れを形づくるうえでもっとも重要な役割を果たした。…
【マルゼルブ】より
…租税については割当上の不正や浪費に断固反対して正義感を示し,出版については革新的であってもそれほど危険でないと判断される本により多く暗黙の許可を与え,検閲制度を緩和している。また,私的には啓蒙思想家と︽[百科全書]︾を保護するようになり,言論の自由に賛意を表明し,受けた教育とは異なって王政内では進歩派となった。しかし,このような態度は反動的な大法官[モープー]に危険視され,71年追放処分をうけた。…
※「百科全書」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」