フランス革命(読み)フランスカクメイ(英語表記)Révolution française フランス語

デジタル大辞泉 「フランス革命」の意味・読み・例文・類語

フランス‐かくめい【フランス革命】

 
1789()()17911617951799
[]Liberté, Egalité, Fraternité  

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精選版 日本国語大辞典 「フランス革命」の意味・読み・例文・類語

フランス‐かくめい【フランス革命】

 

(一)
 

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「フランス革命」の意味・わかりやすい解説

フランス革命
ふらんすかくめい
Révolution française フランス語
French Revolution 英語

フランス革命とは1789年7月14日から1799年11月9日(共和暦8年ブリュメール18日)にかけてフランスに起きた革命をいう。

革命の意義

この革命は、思想、法律、政治、社会全領域に及ぶもので、自然権思想を武器とし、絶対王制の法構造を打ち破り、私的所有を基礎とするブルジョア社会を建設した。その過程で諸階級が並行的に革命に参加したので、市民革命の典型ともいわれるが、帰着するところは国内商工業の自由、土地耕作の自由の承認であった。革命は出発点においては絶対主義国家間の戦争を否定したが、途中からオーストリア、プロイセンなどの干渉戦争が始まり、ついでイギリスが参戦、その圧力を受けて急展開を示し、政情の不安定も続いたため、最終的に軍隊を背景にしたナポレオンのクーデターで収拾されることとなった。これはフランス革命が起きた歴史的環境を示しており、イギリスよりは後進国、大陸の他の諸国よりは先進の資本主義国であったことの反映である。

[岡本 明]

背景


18()1425002()85161774179217872()17888()

 

革命の経過

三部会から国民議会へ

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バスチーユ襲撃

1789年7月11日、国王ルイ16世は事態の責任者としてネッケルを罷免した。この知らせがパリに届くと市民は激高し、同月14日約1万人が政治犯を収容していたバスチーユ牢獄(ろうごく)を襲撃、王室親衛隊がこれに加担し占拠した。翌日、旧体制最後のパリ市長ド・フレッセルと守備隊長ド・ローネーは殺され、宮廷の企図は阻まれた。パリは自治制の確立に向かい、選挙人会から市長バイイ、国民衛兵隊総司令官ラ・ファイエットが任命された。

[岡本 明]

封建的特権の廃止と人権宣言

地方ではパリの運動に呼応するかのように激しい農民騒擾(そうじょう)が起こった。すでに18世紀中葉から領主は地代滞納地の回収や、農民の出費による土地台帳の改訂を行って彼らの反発を浴びていたが、このころ、農村に野盗を放つという「貴族の陰謀」の流言におびえた農民は逆に領主の城館を襲い土地台帳を火に投じた。この騒擾を背景に、憲法制定議会(立憲議会)は1789年8月4日夜、ノアイエ子爵の提案で封建的特権と領主制の廃止を宣言し、法の前の平等の前提条件が実現した。ただし1790年3月、農奴身分にまつわる領主権は無償廃止されるが、土地に関する領主権、つまり領主制地代は貨幣による買戻しとされたため、小農層の不満は収まらなかった。立憲議会は次いで1789年8月26日、ラ・ファイエットやシエイエスらの草案をもとに人権宣言を可決し、人間の生来の自由、権利の平等、国民主権、租税の平等、所有権の神聖など新しい国民社会の基本原則を打ち出した。この人権宣言は、即政治的平等をうたっておらず、抵抗権の具体的な行使法も明記していないことから、ルソーの社会契約論や後のジャコバン=山岳派(モンタニャール)人権宣言とは同一視できないが、農村や都市民衆の運動を背景に、これをてことしつつ絶対王制や保守派貴族の抵抗を破って新しい市民社会の構成原理を宣明したといえよう。国王は封建的特権の廃止と人権宣言への同意をためらったが、10月5日、おりしもパン不足に悩まされていたパリ市場街の主婦たちは、ベルサイユまで行進し、議会に訴えるとともに翌6日王宮に乱入したため、国王は議会の意に添って宣言に同意し、同時に議会とともにパリに帰還した。これによって最終的に絶対王制への復帰の夢が奪われたといわれる。

[岡本 明]

1791年憲法

沿1790531791462079

 
革命戦争の開始

1791年10月1日招集された立法議会では、王権護持にたつフイヤン派と、王権を制約しようとするジロンド派が対立した。ジロンド派はベルニヨ、ジャンソネなど南西部の出身者と、ブリソ、コンドルセらパリ選出の理論家の寄り合い所帯で、地方貿易商、企業家をはじめとする中産ブルジョアを基盤にしていた。亡命者財産の没収や宣誓拒否僧への俸給の停止など強硬処置を可決させたが、同派の主眼は戦争政策にあった。戦争遂行のなかで国王の態度を明確にさせようとしたのである。1792年3月、ブリソは外相ドレッサールの軟弱外交を批判し、勢いに乗じて国王に内相ローランらのジロンド派内閣を任命させた。国王は4月20日、オーストリアに宣戦したが、内心は外国軍によって革命が抑えられることを願っていた。フランス軍は戦える態勢になく、将軍ラ・ファイエットらは攻撃不能を宣言。パリでは愛国的感情が高まり、国王が連盟兵の城外野営や近衛(このえ)兵の廃止決議に拒否権を発動したうえ、ジロンド派内閣を罷免したことも手伝って6月20日、市長ペチヨンを先頭にチュイルリー宮前の示威運動が起きた。

[岡本 明]

八月十日事件

パリ諸区、国民衛兵隊、市総評議会は二つの陣営に分かれ始めたが、立法議会ではジロンド派が優位にたち、1792年7月11日に「祖国は危機にあり」の宣言が出された。同月19日には、国王行政権の停止を目的とした請願運動が、助役ダントンの勧めで民主派区を中心に展開された。ジャコバン協会の解散を企てて失敗したラ・ファイエットは、前線からオーストリアに投降した。ブリュンシュビック宣言が8月1日パリに伝わるや、請願運動は蜂起(ほうき)行動に転じ、同月9日パリ市庁を占拠して蜂起コミューンを樹立し、王党派の国民衛兵指揮官マンダを射殺した。呼びかけに応じて翌10日、場末サン・タントアーヌの国民衛兵を先頭に受動市民の武装隊も加わってチュイルリー宮へ数万が進撃、多数のスイス人傭兵(ようへい)を殺害した(八月十日事件)。国王一家は議会に難を逃れたが、身柄は新パリ市当局に引き渡された。王権は停止され、パリは蜂起コミューンの指揮下に置かれ、王党派の武装解除が断行された。9月初めベルダン陥落の知らせが入ると、マラーの呼びかけもあって激高した民衆は同月2日と3日アベイ監獄などを襲い、宣誓拒否僧を主とする囚人を虐殺した。

[岡本 明]

国民公会の成立

バルミーの戦勝の届く1792年9月21日、新憲法を作成するために国民公会が招集された。公会は王制の廃止を宣し、共和制が樹立された。蜂起コミューンのメンバーは少なからず公会のパリ県選出議員となり、また先の行きすぎを批判されて合法コミューンに交代することとなった。国民公会は、右翼に自由主義経済と議会主義にたつジロンド派、左翼にやはり中産ブルジョア出身だがパリ・コミューンや民衆と折り合いをつけようとする山岳派が対峙(たいじ)し、中央にキャスティング・ボートを握る平原派が位置した。山岳派のなかには、革命独裁を早くから主張したマラー、八月十日事件後に蜂起委員となったロベスピエールがおり、後のジロンド派離脱後のジャコバン・クラブを率い、いわゆるジャコバン派としてパリ世論に影響を及ぼした。

 国民公会成立当初は、コンドルセとダントンの提携による国防連合政府が成立したが、まもなくローランとダントンが対立し、ルイ16世裁判問題でジロンド、山岳両派の反目は決定的となった。1793年1月21日、山岳派の主張が微差で通り、ルイ16世は公敵として処刑された。この対外的影響は大きく、2月初めにイギリス、オランダと、3月初めにはスペインと開戦することとなった。また2月末に議決した30万人徴用令は、宣誓拒否僧の影響を受けていたバンデー地方の農民一揆(いっき)(バンデーの反乱)を引き起こした。ジロンド派はなお政権を維持したが、将軍デュムーリエの北部戦線での頓挫(とんざ)のため苦境にたち、また食糧問題で放任政策を主張したことからパリ民衆の反感を買うこととなった。ロベスピエールなど山岳派は、過激派の一人ジャック・ルーを押したてた民衆の食糧暴動や、閣僚逮捕をねらったバルレらの蜂起行動を制しながら、革命裁判所を設置させ、ジャコバン・クラブを通し、また議員自ら3月末にパリ諸区に創設された革命委員会に赴いて民衆との接触を深め始めた。ジロンド派が決議したマラーの裁判は、パリ民衆の神経を逆なでし、その釈放後、急速に蜂起の気運が高まった。その際、1793年になって顕著にみられたアッシニャの下落、パン価格の騰貴、食糧の欠乏が重要な要因であったことを見逃してはならない。ジロンド派が助役エベールやバルレを逮捕してパリ・コミューン自治に介入しようとしたのが転機となり、1793年5月31日、6月2日両日の国民公会包囲でジロンド派議員の多くが追放された。

[岡本 明]

山岳派独裁

山岳派は平原派の消極的支持のうえに、公安委員会を軸として独裁体制を固めた。1792年8月20日の領主権の無償廃棄をさらに徹底し、農民の不安を取り除いた。1793年7月13日、マラーがジロンド派を信奉する女性コルデーに暗殺されるや、27日、公安委員会にロベスピエールが加わり、恐嚇手段の採用を本格的に検討し始めた。山岳派の共和国憲法は、男子直接普通選挙と選挙人会による議員喚問・法律の再審を原理的に承認した画期的なもので、前文をなす人権宣言も、所有権を否定しないながら平等を前面に出して蜂起権までをうたっていた。これは6月24日可決され、人民投票で圧倒的支持を受けたが、8月10日布告と同時に施行が延期されたのは、反革命の危険が迫っているためと説明された。次に山岳派内の自由経済支持勢力を抑え、買占め取締法と公設貯蔵庫の設置が定められ、8月23日にはカルノーの提議で国民総徴用令が可決された。干天のための飢饉(ききん)がパリ民衆をふたたび行動に駆り、9月5日にはエベール派を先頭に、最高価格令と食糧徴発のための「革命軍」を要求、国民公会はこれらをいれて29日、生活必需品39品目につき、一般最高価格令の制定などを行う一方、これに先だって反革命容疑者令を可決した。公安委員会もビヨー・バレンヌなど山岳派の急進分子を加え、ここに恐怖政治が日程に上った。なお、9月に改暦委員会が発足、11月には共和暦(革命暦)が公布、実施された。

[岡本 明]

ロベスピエール政権

前述のようにジャコバン派独裁による共和暦2年の恐怖政治は、民衆運動の政治的圧力を背景にし、議会主義を一歩超えた革命政府を軸に創出された。この社会的基盤は、中産市民下層と、小ブルジョア民衆のやや恵まれた部分にあったといえよう。その前半期は、革命委員会や人民協会、それに革命軍など民衆自身が構成する組織により、政府諸法が実施されたが、そこには教会閉鎖から礼拝禁止に進む非キリスト教化、大借地農や富裕商人の蓄財への干渉など、民衆的テロルが広がる余地があった。しかしこの間、追放されて以来ジロンド派が引き起こした連邦主義反乱、バンデーの貴族と農民の反乱、ミディ(南仏)の王党派の反乱などは共和国軍や派遣議員の力で鎮圧され、対外戦争でも1793年10月を境にフランスは反攻に転じていた。その結果、12月14日、革命政府は公安委員会独裁を整備し、民衆的テロルを抑制する方針を打ち出した。キリスト教破壊運動は農民層を敵に回すことから警告され、所有権の尊重が唱えられた。1794年3月、革命路線をめぐるエベール派とダントン派との抗争が強まったが、ロベスピエールは「徳と恐怖」を唱えて3月末から4月初めにかけ、両派を相次いで処刑した。これは、経済的統制を緩めつつも道徳的原理の裏づけを独裁に与えようとするものであった。しかしこれによってジャコバン派独裁を支える基盤は弱まり、さらにクートンの示唆になる6月10日の法律によって国民公会は議員を革命裁判所に引き渡す排他的権利を奪われたため、ロベスピエール独裁は議員さえも戦慄(せんりつ)させた。かくして独裁打倒の気運は高まり、公安委員会内部の対立も絡んで7月27日(共和暦2年テルミドール9日)、バラス、タリアンなどはロベスピエールとその一派を捕らえて処刑した。これをテルミドールの反動という。

[岡本 明]

総裁政府

テルミドール派はすぐさま、革命政府の改組、ジャコバン・クラブの閉鎖を行い、残る急進山岳派を追放、また1795年春の二度にわたるパリ民衆の食糧蜂起を鎮圧し、同年8月22日、共和暦3年の憲法を制定。10月27日には二院制議会と5人の総裁からなる総裁政府を発足させた。被選挙資格を高くつり上げ、上層・中産ブルジョアに有利な体制となった。これとは別に、シエイエスが推進した10月24日の法令が、武装蜂起した王党派、ひそかに帰国した亡命者、また宣誓拒否僧を市民権剥奪(はくだつ)の対象にしたため、敵対関係が固定化された。1796年、旧ジャコバン派と民衆の戦闘的分子を糾合し人民独裁をねらったバブーフの陰謀が未然に発覚したが、その後、1797年3月の選挙で立憲王党派が両院に進出し、前記の法令処置が廃止されたため、シエイエス、バラスらの純共和派は、軍隊の威力をてこにクーデターで王党派議員を追放した。ついで1798年の選挙におけるジャコバン派の進出に対して選挙の無効を宣し、1799年6月にはふたたびトレヤールら立憲王党派の総裁を排除した。このように総裁政府は再三にわたって非常手段を行使し、その権威は失墜した。財政政策は、低落を続けていたアッシニャ紙幣を回収・廃棄したものの、強制公債などに頼って旧フィナンシエ(王政と結託した金融業者)・銀行家層を冷遇した。司法・行政についても官職者が選挙制であったことから政治的圧力が大きく、安定性を欠いた。信仰の自由は確認されたとはいえ、立憲僧は俸給と公務員資格を奪われ、公的施設の礼拝を許されなかった。

[岡本 明]

ブリュメールのクーデター

1799119818

 

フランス革命像の展開

「国際的陰謀説」から「革命の神話化」まで

フランス革命についての見方=革命像は、その後のフランスにおいて時代とともに変化する。まず、革命時からナポレオン1世時代まで(1789~1815)の注目すべき革命像は、保守派(反革命派)の主張にみられるもので、それは、革命をフランスの正しい歴史から逸脱した国際的陰謀とし、国王の処刑・恐怖政治などの非人道的行為に満ちた犯罪であるとして非難した。この保守派の反革命的見解に反対して革命を弁護し、後代の革命像の原型ともみられるものを提供したのが、復古王政時代(1815~1830)の自由派の革命像である。保守派貴族の支配する政府に対する批判として、自由派はフランス革命をフランスにおける自由の歴史の必然的帰結として位置づけて正当化し、「1791年憲法」にみる立憲君主制を革命の遺産として、その実現を要求した。チエールやミニェの各著作『フランス革命史』(前者のものは1823~1827年、後者は1824年刊)は、この自由派の革命像を示している。

 1830年の七月革命によって成立した七月王政(1830~1848)は、この自由派革命像の理想の実現といえる。これに対し七月王政後半に反政府勢力として台頭した共和派は、フランス革命の「1793年憲法」の再現を理想として革命を神話化する。ロベスピエール、ジャコバン主義、平等、人民などが高く評価され、共和主義的革命像の実現を夢みた。ルイ・ブランやミシュレの各著作『フランス革命史』(前者のものは1847~1862年、後者は1847~1853年刊)はこの夢想に拍車をかけた。1848年の二月革命によって成立した第二共和政(1848~1852)によって、この共和派のフランス革命像は現実化したかにみえたが、歴史を半世紀戻すことはできず、共和政は短命に終わってふたたびナポレオン3世の独裁、すなわち第二帝政(1852~1870)へと移行する。

 反政府運動のスローガンとしてのフランス革命像は、独裁下では活動できない。この時期には、あまりにも現実と密着した革命像への反省、革命像の脱神話化、革命から独裁への行程の考察など、革命そのものについての批判的考察への道が準備される。トックビルの『旧制度と革命』(1856年刊)はその一例である。

 フランス革命が本格的な学問研究の対象となるのは第三共和政時代(1870~1940)、とくに革命100年記念を契機に、大学での講座、学会、機関誌などがつくられてからで、オーラールを中心に官製の革命像ができあがる。政治史中心のこの革命像に対して、19世紀末の社会主義運動の台頭を背景にジャン・ジョレスなどの社会経済史的革命像が現れる。この伝統はマチエによる階級闘争的革命像、ルフェーブルによる複数革命論へと発展し、革命像は多様化する。20世紀後半には、アナール学派の成立など歴史学全体の大きな変化とともに、革命の「心性史」「社会史」的考察も試みられ、革命像はふたたび大きな展開を示しつつある。

[前川貞次郎]

多様化する革命像

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 宿Lynn Hunt1945 1790717946

 Michel Vovelle19332018()

 20Emmanuel Le Roy Ladurie19292023()19412016西Henri Grégoire17501831()1943 1801

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改訂新版 世界大百科事典 「フランス革命」の意味・わかりやすい解説

フランス革命 (フランスかくめい)
Révolution française


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百科事典マイペディア 「フランス革命」の意味・わかりやすい解説

フランス革命【フランスかくめい】

 
17891799西181617895175()71481791179292217931166179479179517991118
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山川 世界史小辞典 改訂新版 「フランス革命」の解説

フランス革命(フランスかくめい)
la Révolution française


1789998956789191109248殿9931165699518

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「フランス革命」の意味・わかりやすい解説

フランス革命
フランスかくめい
Révolution Française; French Revolution

 
1789991 ( )  (1)  87 () 895 (2) 897149191791 (3) 928109936M. (4) 947958179199  

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旺文社世界史事典 三訂版 「フランス革命」の解説

フランス革命
フランスかくめい
la Révolution Française

1789年7月14日に起こり,99年まで行われたフランスの市民革命
ブルボン朝の絶対王政下のアンシャン−レジーム(旧制度)の矛盾は,国家財政の赤字処理の失敗から爆発し,高等法院を中心とする貴族の反抗は三部会の召集を招き(1789),やがて三部会は,球戯場の誓いから第三身分を中心とする国民議会を結成し,憲法制定議会に進展した。7月にバスティーユの襲撃が起こると,革命は全国に波及し,各地で農民の暴動(大恐怖)が起こった。これに対し,1789〜91年の国民議会は,ミラボーやラファイエットらの指導の下に封建的特権の有償廃止,人権宣言の発布,司法・行政改革を行い,1791年憲法を制定して立憲君主制を樹立した。しかしミラボーの死,ヴァレンヌ逃亡事件などから共和主義が台頭し,1791〜92年の立法議会ではジロンド派が指導権を握り,オーストリアの干渉から対外戦争に突入した。国の内外からの危機,社会不安の増大はサンキュロット勢力の台頭を招き,1792年の8月10日事件に発展した。この結果,王権の停止,普通選挙の実施,農業改革の推進が行われ,ここからジロンド派対ジャコバン派の深刻な闘争が始まり,サンキュロットを指導するジャコバン派が優勢になっていった。新しく普通選挙によって召集された1792〜95年の国民公会は,王政廃止・共和政樹立を宣言し,93年ルイ16世を処刑した。このためイギリスを中心とする対仏大同盟軍との戦いと国内の反革命の激化から革命政府は危機におちいり,1793年5〜6月ジャコバン派はサンキュロット支持の下にジロンド議員を追放し,ロベスピエール・ダントン・マラーらを中心とするジャコバンの独裁政権を樹立した。彼らは,公安・保安の両委員会を中心に政治的・社会的改革を強力に進めるとともに,恐怖政治を展開した。しかし,対外戦争の勝利,経済統制の失敗,農民の保守化,恐怖政治に対する不安などはロベスピエールの独裁に対する反感を招き,1794年テルミドール反動によってロベスピエール派は倒され,温和なブルジョワジーが政権を握って,ブルジョワ的安定がはかられた。1795年憲法が制定されて総裁政府が成立したが,99年ナポレオン1世のクーデタで倒れ,フランス革命は終結をみるに至った。

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世界大百科事典(旧版)内のフランス革命の言及

【階級】より




 西 Catéchisme politique des industriels(182324)3

【学校】より

…独立宣言に先立つバージニア権利章典(1776)以来,すべての人は生来ひとしく自由かつ独立であることが強調され,公立・無償の学校への道が開かれた。ついでフランス革命期には,ジロンド派憲法草案(1793)で〈初等教育は,すべての者の需要であり,社会は,すべての構成員に対し,平等にこれを引き受けるものである〉とされ,同年のモンタニャール派(山岳派)憲法でも,教育はすべての者の需要であるとしたうえで,〈社会は,その全力をあげて一般の理性の進歩を助長し,教育をすべての者の手の届くところに置かなければならない〉とされていた。ジロンド派に属し革命後の教育計画をたてようとしたコンドルセは,教育の自律性確保のため,教育を宗教的権威から独立させると同時に行政的権力からも独立させようと試み,教育行政権を学者・知識人の互選による国立学術院にゆだねるとの構想をたてた。…

【恐怖政治】より

…そのような一般的な意味では,テロリズムともいう。だが,歴史的には,フランス革命期の1793年から94年にかけて行われた革命的独裁政治が,断頭台などによる大量処刑を伴ったために恐怖政治と呼ばれており,狭義の恐怖政治は,この時期のフランスの政治形態を指す。 フランス革命期の恐怖政治は,革命の敵と見なされた者に対する民衆の自然発生的な殺害や暴行に端を発し,1793年秋からは,革命政府の手で反革命派ないし政府反対派に対する広範で組織的な投獄・処刑が強行されるにいたったが,そのような事態が生じた背景には,外国軍の侵入と国内の反革命内乱の発生という深刻な危機的状況があった。…

【国民代表】より


 ︿(nation)

【政教分離】より




  ()

【土地改革】より


((2)(3)(4))

 1816︿︿

【反動】より

…反動とは,物理学的には作用に対する反作用という意味であるが,政治の世界で反動の概念が生まれたのは,フランス革命をもって嚆矢(こうし)とする。自由・平等・博愛という普遍的価値を前面に出して遂行されたこのイデオロギー革命は,その進展とともに革命に反対する運動を呼び,これが反動派réactionnairesを形成することになった。…

【フランス】より


【地域性】

[プロバンスとレジヨン]
 フランスは,さまざまな見方によって諸地域に分けられる。現在最も広く用いられている地方名は,フランス革命以後に設定された95の県(デパルトマンdépartement)名ではなく,むしろそれ以前の旧州(プロバンスprovince)またはそれを援用した22の〈地域〉(レジヨンrégionと呼び,数県をまとめたもの)の名前である。たとえば,ブルターニュは,旧州にあたる5県を指す場合と〈地域〉を構成する4県のみを意味する場合とがある。…

※「フランス革命」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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