第一次世界大戦(以下、大戦と略記する)は、1914年から1918年まで、計25か国が参加してヨーロッパを主戦場として戦われた戦争である。主要な強国のほとんどすべてを巻き込んでおよそ4年半の長期間に及び、しかも複雑多岐にわたる問題を当初からはらんで行われた戦争の性格を考えて、本項では、以下の構成をとった。まず戦争の特徴を明確にし、ついでその本質をよく理解しうるように背景と原因を概観したうえで戦争の経過を記述した。そのあとで、実際には戦争に並行する主要国の国内事情をそれぞれに考察したため、この部分は時間的に多少記述が前後する。また、日本の動きについても、その参戦の経過と外交政策の推移を述べた。最後に、戦争の終結に続いて戦後の講和問題について簡単に触れたが、これについては別項「ベルサイユ条約」「ベルサイユ体制」「戦間期」なども参照されたい。
[三宅正樹]
この大戦の特質として、第一に、開戦のいきさつが非常に複雑であり、いずれか一つの国家の特定の行為が大戦をもたらしたというようには考えにくいということがあげられる。戦後、このような複雑ないきさつを無視して、戦勝国側が戦敗国ドイツ側に一方的に戦争を引き起こした責任を押し付けたことは、大きな禍根を残すことになる。ドイツ国民がこの戦争責任の押し付けに対して抱いた不満の感情は、やがてヒトラーの運動を育てる温床ともなる。第二次世界大戦を引き起こした中心人物がヒトラーであるのに対して、第一次世界大戦についてはこのような中心人物は存在しない。第二の特質として、この戦争が歴史上最初の総力戦であったという事実をあげることができる。ナポレオン戦争を別にすれば、19世紀にヨーロッパの諸国家間で行われた戦争はいずれも、ごく一部の人々の意志によって、国民の生活にあまり深刻な影響を及ぼさない形で遂行されたいわば「内閣戦争」であった。1866年のプロイセンとオーストリアとの、わずか七週間で終わったため「七週戦争」ともよばれた戦争(プロイセン・オーストリア戦争)などがその例である。ところが、第一次大戦は、世界の多くの国々を巻き込んだばかりでなく、一般国民の生活にも深刻な影響を与えた。前線の兵士に限らず、銃後の国民も戦争に動員されたこの戦争は、国のもてる力をあげて取り組む初めての総力戦であった。また、毒ガス、戦車、飛行機などの新兵器が投入されたこともこの戦争の際だった特徴で、そのため戦死者の数もそれまでの戦争とは比較にならぬほど多数に上った。ドイツとロシアがともにほぼ170万でもっとも多く、フランスが136万、オーストリアが120万、イギリスが90万、アメリカは12万6000といわれている。なお、大戦を通じてドイツ側として戦ったオーストリア、オスマン・トルコ、ブルガリアおよびドイツの四か国は同盟国とよばれ、フランス、イギリス、ロシア側として戦った諸国は初め協商国、のちに連合国とよばれたが、その理由については後述する。
イギリス外相グレーは、1914年8月3日の夕暮れ時に外務省の自室で、ヨーロッパの灯火(ともしび)はいますべて消えようとしており、自分たちが生きている間には、ふたたび灯火がともるのを見ることはできないであろう、という感慨に襲われた。グレーは、ヒトラーが権力を掌握した1933年の秋に世を去ったが、彼の予想はある程度あたっていた。1914年8月から第二次大戦が終わる1945年まで、ヨーロッパは絶えず不安定な状態に置かれており、第二次大戦は、かなりの程度第一次大戦という激しい地殻変動の延長、揺り返しというべき性格を帯びていたからである。
[三宅正樹]
大戦の特質に関連して、開戦日をいつとするかという問題も単純には決められない。大戦の開始を示す日付として、次の四つを考えることができる。(1)1914年7月28日(オーストリア・ハンガリー〈以下オーストリアと略記する〉がセルビアに宣戦布告。一般には、この日付が開戦日とされることが多い)、(2)1914年8月1日(ドイツがロシアに宣戦布告)、(3)1914年8月3日(ドイツがフランスに宣戦布告)、(4)1914年8月4日(イギリスがドイツに宣戦布告)。(1)の時点では、両国間の局地戦にとどまる可能性も皆無ではなかった。あとで詳しく述べるように、オーストリアの皇位継承者フランツ・フェルディナント夫妻が同年6月28日、セルビア国内に本拠を置く暗殺者グループによって、ボスニアの州都サライエボ(現ボスニア・ヘルツェゴビナの首都)で殺された(サライエボ事件)。この事件に対してオーストリアは、セルビアを武力で打倒することによって大国の面目を保とうとしたのである。しかし、ロシアが盟主となって、とくにバルカン半島に散在するスラブ系諸民族の大同団結を図ろうとする汎(はん)スラブ主義に基づきセルビアを支援していたロシアが、早くも同年7月30日に総動員令を下したために、ドイツはロシアと開戦する。そして、ロシアはロシア・フランス同盟によって軍事面でフランスと緊密な関係にあったので、ドイツはフランスとも開戦せざるをえなくなる。イギリスは最初中立を目ざしていたが、ベルギー中立の侵犯を理由にドイツと開戦する。
このような、開戦初頭の四つの日付をめぐるいきさつのなかに、この大戦の特質がすでにかなりの程度に露呈されている。ロシアが総動員をかけたのは、戦争が局地戦に終わらず、ドイツが乗り出して大戦争に発展すると判断したからである。そしてこの判断は、ドイツとオーストリアとの同盟(三国同盟)が存在していたことに基づいている。もともとイタリアも同盟の一員であったが、事実上この三国同盟から脱落していた。したがってイタリアは最初中立の態度をとることになる。
以上のいきさつから、大戦がなぜ起こったかを知るためには、戦前の三国同盟や三国協商のあり方を理解することがたいせつであることがわかる。同盟や協商の網の目がもたらしたものが、ここに述べた戦争初頭の四つのできごと(宣戦布告)であったのである。以下の説明のなかで大戦前史を詳しく取り上げるのは、このような理由による。
[三宅正樹]
大戦の遠因について、歴史をさかのぼって尋ねるならば、1870~1871年のプロイセン・フランス戦争の戦後処理方式のなかに、その根源に相当するものが潜んでいたといえよう。フランス国民はアルザス・ロレーヌ(ドイツ名エルザス・ロートリンゲン)の両州を奪われたことを忘れず、多くの人々が心のなかで復讐(ふくしゅう)を誓った。戦争に勝ったプロイセンが中心となってドイツ統一が達成されたが、フランス国民の怨恨(えんこん)は、統一後のドイツとフランスとの関係に重くのしかかる。新しいドイツ帝国の首相となったビスマルクは、両州併合に反対であったが、軍事上の立場から併合を主張した軍部に押し切られてしまった。フランスの作家ドーデの短編集『月曜物語』のなかの『最後の授業』には、このときのフランス国民の無念さがよく表されている。このような事情からビスマルクは、ドイツの安全を保障する国際的な条約網をつくりあげることに全力を注いだ。ドイツ統一達成後に彼がまず期待をつないだのは、オーストリアおよびロシアの両帝国の皇帝とドイツ皇帝との三帝同盟(1873年10月成立)であった。しかし、この同盟が頼りにならぬことを示す事態が1875年春から初夏にかけて生ずる。「戦争切迫」の危機がそれであった。
[三宅正樹]
フランスの国会が「カードル(下士官)法」を成立させ、フランスが陸軍の増強に強い意欲を示しているのをみたビスマルクは、フランスへの軍馬の輸出を禁止する一方、新聞を操作してフランスに圧力をかけた。1875年4月9日の『ポスト』紙には、「戦争は切迫しているか」という挑戦的な標題をつけたレスラーKonstantin Rößler(1820―1896)の論文が掲載された。この論文についてドイツ外務省の一高官がフランス大使に釈明をしたが、釈明のなかに若干不穏当な表現があったのを、大使は意図的に誇張してパリに伝えた。こうして、あたかもドイツがフランスの復讐に先手を打つ「予防戦争」を真剣に考慮しているかのような印象がかき立てられた。これに対しイギリスが、ビクトリア女王自らドイツに警告する動きをみせ、また、ロシア皇帝アレクサンドル2世は外相ゴルチャコフを伴って翌5月にベルリン入りをして、ドイツを強く牽制(けんせい)した。ビスマルクにはこのとき「予防戦争」を遂行する意図はなく、『ポスト』紙の論説を放任したのも、フランスをことばのうえで脅かすことだけをねらってのことであったと思われる。しかし、このときの国際危機は、ドイツが不用意な態度をとった場合には、三帝同盟が存在するにもかかわらず、ロシアはイギリスとともにフランスを支援してドイツを挟み撃ちにする可能性があることを証明した。そして、1914年にはそのとおりの事態が生じたのである。この意味で1875年の危機は、新興のドイツ帝国がいかに困難な国際的条件のなかに置かれているかをビスマルクに教えるものであった。さらに、この危機は、後の大戦のあり方を考え合わせると、40年後に生ずる事態を予告したともいえる、実に示唆的なできごとであった。
[三宅正樹]
三帝同盟が頼りにならぬことを1875年の危機を通じて明確に知らされたビスマルクは、新しい安全保障体制を模索する。そして、彼が苦心してつくりあげたのが、いわゆるビスマルク体制である。その中心は、オーストリアとのドイツ・オーストリア同盟(1879.10)と、これにイタリアを加えた三国同盟(1882.5)であった。また、ドイツとルーマニアとの同盟も1882年に成立する。さらに重要なものとして、1887年6月、ロシアとの間にロシア・ドイツ再保障条約が成立する。しかし、ロシアとオーストリアとの関係はバルカン問題をめぐって悪化していたので、ビスマルクは再保障条約の内容を同盟国のオーストリアに対しても秘密にしていた。ドイツはイギリスとも良好な関係にあった。こうして、このビスマルク体制の完成によって、フランスは完全に孤立し、対ドイツ復讐戦争を望んでもとうてい実行できぬこととなった。ドイツの安全は十分に保障されたようにみえた。
けれども、1890年3月20日に、ビスマルクは新帝ウィルヘルム2世との軋轢(あつれき)によって心ならずも辞職に追い込まれる。その三日後の3月23日、ビスマルクの後継者のカプリビ首相らは、オーストリアとの友好と明らかに矛盾するロシア・ドイツ再保障条約の更新を拒否した。そこでロシアはフランスに接近を開始し、1894年1月4日にはロシア・フランス同盟が正式に成立する。専制君主国のロシアが共和国フランスと同盟を結ぶことを、ドイツの政治家たちは予想していなかった。
一方、イギリスは、工業、貿易、海軍、植民地の四つの局面でドイツの挑戦を受けたと感じて、しだいにフランス、ロシア両国に接近する。1904年4月にはイギリス・フランス協商が、1907年8月にはイギリス・ロシア協商が、それぞれ調印の運びとなり、ここにイギリス、フランス、ロシア三国間の協力体制が成立した。これは、ビスマルクの後継者たちが予見しえなかった「外交革命」であり、ビスマルク体制はまったく崩壊してしまった。かくてドイツがあてにできる同盟国はオーストリア一国だけとなった。フランスとの秘密中立条約を1902年に結んだイタリアは、忠実な同盟国ではなくなった。はるかな東アジアの日本さえ、1902年(明治35)の日英同盟、1907年の日仏協商と日露協商によって、ドイツを包囲する協商国側の一員となっていた。
[三宅正樹]
ロシアは、その伝統的な政策の一つとして、バルカン半島の北から南へ向かって勢力を伸ばそうと努めていた。かつてこの地方を制圧していたオスマン・トルコ帝国は、瀕死(ひんし)の「ヨーロッパの病人」Sick man of Europeとよばれるに至るような衰退ぶりを示していた。さらに、バルカン半島にはさまざまなスラブ系の民族が雑多に居住していた。ここに、ロシアの南下政策にとっては有利な状況が生まれる。ビスマルクが主宰した1878年のベルリン会議で、この方面へのロシアの野心はいったん挫折(ざせつ)し、このあとロシアは一時シベリアから満州(中国東北)、朝鮮への進出に熱中した。しかし、日露戦争(1904―1905)での敗北によって東アジアへの進出をあきらめたロシアは、ふたたびバルカンの南下政策を本格化させる。その際、スラブ民族の盟主としてのロシアがバルカン半島の雑多なスラブ系諸民族を統合するという汎(はん)スラブ主義の主張が、19世紀後半以来一貫して、ロシアに都合のよいイデオロギーとして利用され続けた。ところが、衰退を続けていたオスマン帝国の現状打破を目ざして、青年トルコ党の革命が1908年に勃発すると、バルカン半島をめぐる情勢は新しい局面に入ることになる。
[三宅正樹]
青年トルコ党の革命は、オーストリアによるボスニア、ヘルツェゴビナ両州併合のきっかけとなった。同じく両州併合をねらっていたセルビアは、オーストリアの措置に甚だ不満であり、ロシアに支援を求めた。ところが、汎スラブ主義の盟主であるはずのロシアは、日露戦争と、そのさなかに起こった第一次革命(1905)の痛手からまだ回復していなかった。そこでロシアは、オーストリアの背後にいるドイツとの戦争の危険を冒してまでセルビアを支援することは断念するほかなかった。オーストリアの併合政策を支持するドイツ首相ビューローの1909年3月の威嚇的な声明にロシアは事実上屈服した。こうしてロシアはやむをえずセルビアをなだめてオーストリアの措置をセルビアに承認させたのである。日露戦争の後遺症のためにロシアが自重したことによって、「ボスニア危機」とよばれるこの危機は、かろうじて大戦争に至らずに収まった。しかし、二回にわたるバルカン戦争(1912、1913)のあと、サライエボでのオーストリアの皇位継承者フランツ・フェルディナント暗殺事件をきっかけとして同じ事態がふたたび生じたときに、大戦争は不可避となった。バルカン半島をめぐって、ロシアの南下政策とオーストリアの東進政策が交差したことが、1875年の「戦争切迫」の危機の際に予見されたような形での戦争を必至とした。
オーストリアの東進政策はしばしば汎ゲルマン主義の名でよばれるが、この政策をロシアの汎スラブ主義と同様の意味で「汎ゲルマン主義」とよぶのは適当ではない。なぜなら、オーストリアの東進政策は、バルカン半島に居住するドイツ民族をオーストリアが盟主となって統合するという意味を帯びてはいなかったからである。このようなロシアとオーストリアとの対立、また前述したフランスとドイツとの対立と並んで、大戦を引き起こす背景となったのが、イギリスとドイツとの対立であった。
[三宅正樹]
インドのカルカッタ(現コルカタ)、エジプトのカイロ、南アフリカのケープを結ぶ支配圏をねらうイギリスの三C政策と、ベルリン、ビザンティウム(現イスタンブール)、バグダードに勢力を張ろうとするドイツの三B政策との対立は、1890年代に入って、ドイツの工業と貿易とが、イギリスの優越した地位を脅かし、「メイド・イン・ジャーマニー」の脅威をイギリスが切実に感ずるようになることから源を発している。しかし、イギリス、ドイツの対立がもっとも鮮明な形で現れるのは、両国の「建艦競争」においてであった。ドイツの東アジア巡洋分艦隊司令官から1897年に海相に昇任した海軍軍人のティルピッツは、1900年に、ドイツ海軍の飛躍的な発展強化を目ざした建艦法案を国会に提出した。それまでほとんどみるべき海軍を保有していなかったドイツは、この法案に盛られた建艦計画を実現すれば、イギリス、フランスに次ぐ世界第三位の海軍国に躍進するはずであった。ティルピッツがこのような法案を提出する動機となったのは、「危険(艦隊)思想」Risikogedankeとよばれる彼独特の海軍力の理論であった。この理論は、第二次建艦法案とよばれるこの法案の国会通過によってドイツが保有するに至る海軍力は、世界第一位の海軍国イギリスの海軍と戦った場合に、もちろん敗れはするが、イギリスの海軍力にも大損害を与えるから、イギリスとしては、残された海軍力だけでは世界の海上支配を維持することができなくなる、というものである。ドイツ海軍といわば刺し違えたイギリス海軍は、勝つには勝っても、七つの海を制圧したかつての海上支配権が危険に瀕(ひん)する。このような「危険」をイギリスにもたらしうるドイツ海軍が「危険艦隊」にほかならない。ティルピッツの海軍増強政策は、イギリス、ドイツ対立を激化させた。イギリスが「光栄ある孤立」を捨ててフランスやロシアと協商体制を組むに至る背景として、このような事情があった。イギリスはドイツ包囲網の一翼を担うことになる。ただし、戦争そのものは、イギリス、ドイツの対立からではなく、バルカン半島をめぐるセルビアとオーストリアとの対立から引き起こされた。
[三宅正樹]
オーストリアのフランツ・フェルディナントは、妃ゾフィーを伴って、陸軍大演習視察のためにボスニアを訪れ、1914年6月28日に首府サライエボに入った。当時のオーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世と皇后エリザベートとの間に生まれた皇太子はルドルフRudolf(1858~1889)ただ1人であった。この皇太子は1889年に、ウィーンの森のマイヤーリンクにあった別荘で謎(なぞ)の死を遂げている。彼以外に皇太子はおらず、皇帝の弟たちも早く世を去ったため、皇位継承権が皇帝の甥(おい)のフランツ・フェルディナントに回ってきた。彼はセルビア人の間でとくに憎悪の対象となっていた。一般にオーストリアの皇族がセルビア人から憎まれることは、ボスニア危機のいきさつからも理解できるが、彼の考えていたオーストリア帝国の三元化、すなわちオーストリアとハンガリーのほかにチェコ人を中心とした第三のなかば独立した国をつくるという構想が、セルビア人などの南スラブ諸民族に対するハンガリー人(マジャール民族)の抑圧を緩める結果をもたらし、被抑圧民族としての南スラブ諸民族の団結の妨げになるので、彼がとくにセルビア人に憎まれたのだという説が有力である。
セルビアの参謀本部情報部長ディミトリエビッチ大佐は、黒手組という暗殺団を組織していたが、フランツ・フェルディナントを倒すために、プリンチップGavrilo Princip(1893―1918)を含めて七名の刺客を1914年6月28日サライエボに配置した。このうちプリンチップの撃ったピストルの弾丸が、フランツ・フェルディナントとその妃の命を奪った。オーストリア政府は、この機会にセルビアを打倒して、汎(はん)スラブ主義の根拠地を根絶やしにしようと考えた。そのためには同盟国ドイツの支持が必要である。ウィーンからベルリンへ、ドイツ政府の意向を確かめるために、外交官のホヨスAlexander Hoyos(1876―1937)を団長とするホヨス使節団が派遣された。ドイツ首相ベートマン・ホルウェークは、7月5日、ベルリンでホヨスに、実質上の白紙委任状をオーストリアに与える旨の回答を行った。このときのベートマン・ホルウェークの心境は明らかでないが、彼の腹臣リーツラーKurt Riezler(1882―1955)の日記によれば、イギリスとの戦争はともかく、フランス、ロシア両国との戦争は計算に入れていたようである。ホヨスへの回答に力を得たオーストリア政府は、セルビア政府が暗殺事件に関与していた事実を証明する証拠はまったくみいだされなかったにもかかわらず、セルビア政府に7月24日、セルビアがとうてい受け入れられない条件を盛り込んだ最後通牒(つうちょう)を突き付け、同月28日にはセルビアに宣戦を布告した。このときの中心人物であったオーストリア外相ベルヒトールトLeopold Berchtold(1863―1942)は、ベートマン・ホルウェークと異なり、おそらくセルビアとの局地戦で事が済むと考えていたものと思われる。しかし、すでに述べたような各国それぞれの思惑が絡む動きの連鎖反応の結果、数日のうちにヨーロッパの主要国を巻き込む大戦争に発展した。以上のいきさつが「七月危機」とよばれるものである。
[三宅正樹]
ロシア・フランス同盟が確立された結果、戦争が始まればドイツはロシア、フランス両国と戦うことになるのは不可避とみられていた。そこで、1906年までドイツ陸軍参謀総長を務めたシュリーフェンは、ドイツの東西二正面での戦闘を効率よく遂行するための作戦計画を練り上げた。これが「シュリーフェン・プラン」とよばれるものである。この計画は、ドイツ陸軍全体の8分の7の兵力を開戦と同時にフランスへ攻め込ませ、6週間でフランス軍を壊滅させたあと、ドイツ陸軍の総力をあげてロシア軍にあたるという、大胆な構想のうえにたてられたものであった。フランスを屈服させるまで、東部戦線ではドイツ軍全体の8分の1の兵力で、ロシア軍の西進を食い止めておくことになっていた。しかも、西部戦線に配置されるドイツ軍については、フランスの方向に向かって右翼、すなわち北側に兵力を集中させ、斧(おの)を振りおろすときのように、もっとも強力なはずの右翼でベルギーを突破して北フランスに攻め込む予定になっていた。
シュリーフェンは、かならず戦争になる、絶対に右翼を強化せよという遺言を残して1913年に亡くなった。ところが、後任の陸軍参謀総長モルトケHelmuth von Moltke(1848―1916)(プロイセン・フランス戦争で大功のあったモルトケの甥、小モルトケとよぶ)は、右翼だけに兵力を集中させるこの計画に不安を抱き、右翼から左翼にかなりの兵力を回した。その結果、南のほうは強化されたが、北側がそれだけ弱体になった。しかも、開戦直後にこの計画に従って北部フランスへ攻め込むにあたって、右翼からなけなしの兵力二個軍団分を東部戦線に回してしまう。ロシア軍の進撃の速度が予想以上に迅速で、雪崩(なだれ)を打って東プロイセンに攻め込んできたためであった。1914年9月6~12日のマルヌの戦いで、ドイツ軍のそれまでの破竹の進撃が食い止められてしまうのは、最右翼の第一軍と次の第二軍との間に50キロメートルもの間隙(かんげき)が生じて、危険と判断されたからである。このとき、ルクセンブルクに置かれていたドイツ陸軍参謀本部からモルトケ(小)の代理として前線へ派遣されていたヘンチュRichard Hentsch(1869―1918)中佐が、独断で第一軍と第二軍の撤退を進言し、これまでの進撃を停止させたことの当否がしばしば議論されてきている。しかし、このような事態を招いた原因は、モルトケ(小)がシュリーフェン・プランに二度にわたって改悪を加え、右翼の兵力そのものを弱くしてしまったことにある。さらにその根本には、ドイツの国防予算を海軍増強に惜しげもなく注ぎ込んだために、陸軍の充実が十分に達成されなかったという事情が決定的に作用していた。ティルピッツがつくりあげたドイツ海軍は、一度デンマークのユトランド半島沖のスカゲラクでイギリス艦隊と戦っただけで、あとはほとんどキールなどの軍港に閉じ込められたままであった。潜水艦以外の艦艇はこうして、制海権を握るイギリス海軍に封じ込められ、あげくのはてに、このあとキール軍港で起こった水兵の反乱(1918.10.28)は、ドイツ革命への導火線となったのである。
ヘンチュ中佐の警告に驚いたドイツ第二軍は、急いで9月9日に偵察機を発進させて、50キロメートルに及ぶ間隙の実情を視察させた。偵察機は、イギリスの大陸派遣軍がこの間隙の中央突破をしようとしているという情報をもたらした。この事態を危険と考えた第一軍と第二軍は、ヘンチュの進言どおりに同日撤退を開始する。しかし、イギリス軍の進出は、別に中央突破を意図したものではなく、抵抗のまったくない間隙に入り込んだだけの偶然的なものであった。そもそも、イギリスの参戦の口実は、ベルギーの中立をドイツが侵犯したことである。そして、シュリーフェン・プランの実施によってベルギーの中立を踏みにじることはドイツ軍の初めからの予定の行動であった。このように、マルヌの戦いには多くの皮肉な要因が作用した。しかもこれらの要因はすべてドイツに不利な方向に働いたのである。
マルヌの戦いは、大戦全体の動向を決定するもっとも重要な戦闘であった。このときのイギリス、フランス軍の反撃によって、シュリーフェン・プランが予定していた対フランス戦の早期終結は望めなくなり、戦争は持久戦に転化した。持久戦ということになれば、人口や物量の点でまさっている協商国側に有利である。アメリカが協商国側に参戦すればなおさらのことであった。結局、同盟国側は敗北する。これ以後も多くの戦闘が行われたが、マルヌの戦い以上に戦局全体の運命を左右する戦闘はほかにはなかった。マルヌの戦いの直前の8月末、東部戦線でドイツ第八軍がロシア軍に大勝した。タンネンベルクの戦いとよばれるこの戦闘は、第八軍司令官ヒンデンブルク元帥が国民的英雄に祭り上げられるという結果をももたらしたが、大戦全体を転換させる性格のものではなかった。
[三宅正樹]
そのほか多くの戦いのなかで次のものが目だっている。フランス軍とドイツ軍とが死闘を繰り返した北フランスのベルダン要塞(ようさい)の攻防戦(1916.2~12)では、ペタンの指揮するフランス軍が要塞死守に成功した。それに続く同じ北フランスのソンムの戦いでは、フランス軍よりもイギリス軍が主力となってドイツ軍と戦い、三者とも多くの死傷者を出した(1916.6~11)。ロシア軍は、ロシア革命の前年に、ドイツ軍とオーストリア軍とに対して最後の大攻撃をかけた。この戦いはロシア軍を指揮したブルシーロフAlexei Brussilov(1853―1926)の名にちなみブルシーロフ攻勢(1916.6~9)とよばれている。この攻勢は、後で述べるようにルーマニアの参戦を誘い出したと同時に、ベルダンへのドイツ軍の圧力を減少させるのにいくらか役だったと思われる。ドイツ軍は西部戦線で1918年3月末に大攻勢を開始し、一時はふたたびマルヌ川に達してパリに迫る勢いを示した(1918.6)。しかし、8月にはイギリス軍とフランス軍の反撃が始まり、9月にはヨーロッパ戦線に新たに投入されたアメリカ軍も攻勢に出て、ドイツ軍は完敗する。
科学兵器も続々登場した。西部戦線では毒ガスが盛んに使われたが、初めて毒ガス使用に踏み切ったのはドイツ軍で、ベルギーのイープルの戦いで、イギリス軍めがけて投入した(1915.4)。戦車が兵器として登場したのは、ソンムの戦いの最中の1916年9月15日のことである。この日、イギリス軍は同年1月から試作を始めていた戦車18台を戦場に送り込んだ。フランス軍は17年、ドイツ軍は18年に、それぞれ新造の戦車を戦線に投入する。飛行機はおもに偵察用に使われた。イギリス本土爆撃で初めに活躍したのはドイツの飛行船ツェッペリン号であった。しかしずうたいの大きい飛行船は、イギリス軍の絶好の攻撃目標となったので、やがて飛行機と交替する。
[三宅正樹]
マルヌの戦いによって戦争が長期戦の様相を呈するようになると、両陣営の各国はいずれも、軍需物資や食糧の確保、国民の戦意の高揚とその維持といった困難な課題に苦しめられることになる。
[三宅正樹]
軍需物資や食糧の調達について、最初に目覚ましい成果をあげたのはドイツであった。AEGという大電機会社の社長ラーテナウが、陸軍省内に新設された戦時資源局の長官に就任して、ドイツ経済を長期戦に向けて組織替えすることに優れた手腕を発揮したためである。ラーテナウはユダヤ人であったが、のちにヒトラーの第三帝国において頂点に達する反ユダヤ主義の風潮は、第一次大戦当時はまだそれほど激しいものではなかった。物資の問題はこうしてある程度解決されたが、ドイツの政治指導者たちはこのほかにもさまざまの難問に直面させられる。開戦前の1909年から1917年7月まで首相の任にあったのはベートマン・ホルウェークであった。開戦のときまで、しばしば奇妙な思い付きに取りつかれて政治に介入した皇帝ウィルヘルム2世は、開戦後は積極的な動きを示さなくなった。ドイツの憲法体制では、軍を指揮する統帥権は皇帝に属しており、文民の首相は作戦に対して発言を許されぬたてまえになっていた。にもかかわらず、統帥権を掌握する皇帝が、軍首脳に対してもっぱら受け身の態度に終始したので、ベートマン・ホルウェークは困難な立場に置かれた。多くの制約を受けながらも、彼は、無制限潜水艦戦を実行せよという軍首脳からの圧力に対して抵抗を続けた。そして、海相ティルピッツを辞任させることに成功したものの、結局この圧力に屈する。このことについては、のちにアメリカの参戦についての説明のなかで詳しく述べることにする。
一方、軍首脳の内部でも対立や軋轢(あつれき)があった。モルトケ(小)は心神喪失の状態に陥り、1914年9月に陸軍参謀総長の座をファルケンハインに譲り渡した。ファルケンハインは、第八軍司令官ヒンデンブルクならびに第八軍参謀長ルーデンドルフと、西部戦線と東部戦線のいずれを重視すべきかをめぐって対立し続ける。1916年8月のルーマニアの参戦は、ファルケンハインに辞任を強要する口実となった。かわってヒンデンブルクが参謀総長に就任し、ルーデンドルフは参謀次長に相当する第一兵站(へいたん)部長に就任する。
大戦前、ヨーロッパ最大の社会主義政党であったドイツ社会民主党は一貫して戦争反対を叫び続けてきた。ところが、大戦勃発(ぼっぱつ)直後の1914年8月4日、50億マルクの軍事予算をめぐる国会の審議に際して、社会民主党議員団は全員賛成投票を行った。ここにドイツ国内には一時的にせよ、戦争遂行に協力し、階級闘争を停止するといういわゆる「城内平和」Burgfriedeが達成される。ところが、戦争が長引くにつれて、この「城内平和」にひびが入るようになる。社会民主党は、1917年2月、戦争賛成派と反対派に分裂し、反対派は独立社会民主党を結成した。社会民主党以外の中央党などの政党のなかにも、政府の政策への不満が強くなる。同年7月になると、国会は、平和を早く実現せよという平和決議案を可決し、ベートマン・ホルウェークは退陣する。しかし、そのあとに、かつて1885年から4年間東京の独逸学協会学校(現独協大学および独協中・高校)でドイツ語教師をしていたミヒャエリスGeorg Michaelis(1857―1936)というほとんど無名の人物が首相に任命されると、ヒンデンブルクを正面に押したてたルーデンドルフの政治への介入が甚だしくなる。ここに、ドイツは実質上ルーデンドルフの軍事独裁体制のもとに置かれることになった。このルーデンドルフ体制は、1918年10月、ミヒャエリスの後任のヘルトリンクGeorg von Hertling(1843―1919)にかわってマックス・フォン・バーデンが内閣を組織するまで続くことになる。アメリカ大統領ウィルソンに和平の仲介を依頼することを決意するに至ったルーデンドルフは、ウィルソンの要求どおりに国内政治を民主化することを余儀なくされ、自由主義者として評価されていたマックス・フォン・バーデンを首相の座に据えたのである。
[三宅正樹]
大戦前史ならびに「七月危機」のなかでオーストリアは主役ともいえる大きな役割を演じた。しかし、開戦後のオーストリアは、多数の雑多な民族の寄り合い所帯という弱点をさらけ出すことになる。そのことが軍隊にもそのまま反映していて、ドイツ軍の支援のない戦いではほとんど連戦連敗であった。開戦直後のオーストリア軍とセルビア軍との戦いでオーストリア軍は予想外に苦戦を強いられた。ロシア軍はオーストリア領ポーランドのガリツィアに攻め込んだ。1915年5月、ドイツ軍は東部戦線で攻勢に出て、ロシア軍を、ガリツィアだけでなく、ロシア領ポーランドからも追い払う。ここにロシア領ポーランドが同盟国側の手中に帰した。ところが、ロシア領ポーランドをドイツに吸収すべきかオーストリアに吸収すべきかというその処遇をめぐって、オーストリアは盟友であるはずのドイツと激しく対立することになる。軍事力ではドイツがオーストリアに優越していたが、異民族を吸収し統治する能力と経験とでは、諸民族の寄り合い所帯であるオーストリアに分があった。1916年11月になって、オーストリアの反対を押し切って、ドイツ軍部の主張により、同地方にドイツの支配下での独立を与えることに決定した。しかし、オーストリアはこの決定に抵抗し、オーストリアとドイツとの同意が成立しないままに両国は敗戦を迎えることになる。
このように、ドイツと軋轢を重ねたオーストリアは、行政の能率の悪さによる物資の不足と、戦争によって拍車がかかった諸民族の遠心的傾向に悩まされ続ける。首相シュトルクKarl von Stürgkh(1859―1916)は、1916年10月、オーストリア社会民主党員にピストルで撃たれて死んだ。同年11月に86歳の老帝フランツ・ヨーゼフ1世が亡くなる。後を継いだ若い皇帝カールKarl(1887―1922)は、国内のこのような実情をみて、ドイツを離れて単独講和をしようと考え、義弟でブルボン・パルマ家の一員のシクストゥスSixtus von Bourbon-Parma(1886―1934)を通じてフランスとイギリスに働きかけた。この交渉は失敗し、1918年になると、フランスの大統領クレマンソーはこの交渉を暴露した。この一件は、オーストリア国内にみなぎった厭戦(えんせん)の気分を反映し、証明するものであった。
[三宅正樹]
開戦時のイギリス首相はアスキスであったが、戦時中に軍需相として軍需物資の調達に功績をあげ陸相を経て彼の後任となるロイド・ジョージこそ、大戦下のイギリスを代表する政治家であった。なお、第二次大戦下のイギリスを指導した政治家はチャーチルであるが、第一次大戦中のチャーチルは、海相として、無益なダーダネルス海峡攻撃作戦を推し進め、その失敗によって海相を辞任している(1915年2月から3月にかけてのイギリス・フランス艦隊によるダーダネルス海峡砲撃と、同年4月のガリポリ半島上陸作戦は、オスマン側の激しい反撃にあって、イギリス、フランス軍の完全な敗北に終わったのである)。
開戦直後に陸相に就任したのはブーア戦争で勇名をはせたキッチナー元帥であった。「イギリスは君を必要とする」というポスターに登場して兵役志願を青年に呼びかけたのはキッチナーである。しかし、西部戦線やダーダネルス海峡でのイギリス軍の苦戦の結果、キッチナーはしだいに作戦失敗の責任を負わされるようになる。西部戦線での爆薬の不足の責任はキッチナーにあるという『デーリー・メール』紙の攻撃が、1915年春に開始された。同年5月には、海軍軍令部長フィッシャーJohn A. Fisher(1841―1920)が、ダーダネルス作戦をめぐる海相チャーチルとの衝突によって辞任した。このことはアスキス内閣の改造のきっかけとなった。これまでアスキス内閣は自由党の単独内閣であり、ドイツのいわゆる「城内平和」の形で保守党の協力を得ていた。しかし、このときになると、保守党の要求により第一次連立内閣がつくられ、保守党から8名、労働党からも1名の閣僚が入閣する。キッチナーはかろうじて留任したが、海相はチャーチルからバルフォア(後のバルフォア宣言の発表者)にかえられた。これまで蔵相であった自由党のロイド・ジョージが軍需相に就任したのはこのときのことである。キッチナーは、ロシアへ向かう途中、1916年6月に、搭乗していた軍艦が機雷に触れたために死亡し、ロイド・ジョージが後任の陸相となる。彼は、アスキスの戦争指導への不満を露骨に表明し続けていたが、同年12月、保守党と労働党の支持を取り付けて、自ら首相の地位についた。この内閣は第二次連立内閣といわれる。彼は、演説によって大衆の心をつかむことに卓越した才をもっていた。そこで彼は、イギリス国民の戦意の高揚と維持に、アスキスとは比較にならぬ手腕を発揮し、イギリスを勝利に導くことになる。
ロイド・ジョージの功績として、このような政治指導と並んで、1917年4月末、ドイツの無制限潜水艦戦に対抗する措置として、彼が駆逐艦による船舶の護送(コンボイconvoy)計画を発案し、海軍首脳部の抵抗を押し切ってその実行を命じたことがあげられる。この護送船団制によって、イギリスはドイツの潜水艦による被害を最低限度に食い止めることができたのである。
[三宅正樹]
1916年のブルシーロフ攻勢が中途で挫折(ざせつ)したあと、ロシア軍の勢いは衰えた。戦争による生活苦によって、ロシア国民の厭戦気分は甚だしいものとなった。1917年3月(ロシア暦2月)の「三月革命」(ロシア暦で二月革命ともいう)によってロマノフ王朝は崩壊する。その後を引き受けたリボフの臨時政府は、これまでどおり戦争を継続する政策をとって連合国側の各国を安心させたけれども、戦争に疲れ果てた国民は失望した。政権はリボフからケレンスキーに引き継がれたが、臨時政府の不人気は変わらず、11月7日(ロシア暦10月25日)、レーニンの指導するボリシェビキが「十一月革命」(ロシア暦で十月革命ともいう)によって権力を掌握する。政権を奪い取ったレーニンとしては、なによりも戦争をやめて国民の期待にこたえる必要があった。11月8日に発表された「平和に関する布告」は、即時停戦、講和交渉の開始、無併合・無償金の形での「公正で民主的な」講和の実現を交戦中の各国に呼びかけた。連合国側、すなわちそれまでロシアの同盟国であったイギリス、フランスなどの諸国は拒否したが、それまでロシアの敵であった同盟国側の諸国はこの呼びかけを受諾する姿勢を示した。こうして、ブレスト・リトフスクでロシアとドイツ側四国との講和交渉が12月22日から開始されることになる。ところが、ドイツ側が12月末に示した講和条件は、無併合・無償金どころか、ポーランドとバルト海沿岸地域をロシアから切り離し、ロシアに巨額の賠償を課すというものであった。ここに、最初の甘い幻想を打ち破られたボリシェビキの指導者たちは、冷酷な現実政治との対決を迫られる。党内には動揺がおこったが、「息継ぎ」のための講和が不可欠であると一貫して主張し続けたレーニンのしんぼう強い説得によって、党中央委員会の大勢が固まり、生まれたばかりのソビエト政府は、1918年3月3日、ブレスト・リトフスクでドイツ側との講和条約に調印した。
ロシアの屈服によって、ドイツ軍は東部戦線の重圧から解放されたが、アメリカの軍事力と経済力は、ロシアの脱落で連合国側に生じたマイナスを補って余りあるものであった。ロシアの脱落は、ドイツに最後の勝利をもたらすものとはならなかった。
[三宅正樹]
大戦勃発(ぼっぱつ)の時点での日本の政治指導者たちは、戦争の見通しについて見解が一致していなかった。このときに、ドイツを敵として参戦する方向に日本を引きずり込んだのは、大隈(おおくま)内閣の外相加藤高明(たかあき)である。加藤は、駐日大使グリーンを通じてイギリス政府から、ドイツの仮装巡洋艦の捜索と撃破のための協力を1914年(大正3)8月7日に求められた事実を最大限に利用した。同日夜から翌8日早朝に及んだ閣議で、加藤は、第一に日英同盟の「情誼(じょうぎ)」から、第二に「この機会にドイツの根拠地を東洋から一掃して、国際上に一段と地位を高めるの利益」から、日本はイギリス側に参戦すべきだと主張し、参戦を躊躇(ちゅうちょ)する閣僚たちを「参戦に優(まさ)る外交上の良策なし」として次々に説得し、沈黙させた。イギリス外相グレーは、日本に軍事協力を求めはしたが、参戦までは望んでいなかったので、あわてて日本の動きを押さえにかかった。しかし加藤はグレーのこの意向に耳を貸さなかった。こうして日本政府は、8月15日、東アジアからのドイツ軍艦の退去と、山東半島にあるドイツの膠州(こうしゅう)湾租借地を中国に還付する目的のためにただちに日本の官憲に交付せよ、という文面の最後通牒(つうちょう)をドイツに突き付けた。ドイツ政府がこの要求を無視し、青島(チンタオ)の要塞(ようさい)を死守する姿勢を示したので、日本は8月23日、ドイツに宣戦を布告した。日本軍は、10月には赤道以北のドイツ領南洋諸島を、11月には膠州湾にあるドイツの根拠地青島を占領し、ここに東アジアでの戦闘は終了した。
[三宅正樹]
日本政府は1915年に入ると中国政府に対していわゆる対華二十一か条要求を突き付け、5月7日には最後通牒を発して強引に承諾させる。このとき日本政府のなかで中心になって動いたのはやはり加藤高明であった。ところが、イギリス、アメリカ両国、とくにアメリカは、このように日本が火事場泥棒のようにヨーロッパの戦火に乗じて中国大陸に進出することに強い反発を示す。そして、中国に関して19世紀末に国務長官ヘイが発表した門戸開放政策を日本が守るべきだとする国務長官ブライアンの要請を「ブライアン・ノート」として発表した。このようなイギリス、アメリカの動向をみた日本は、ドイツとの戦争と二十一か条要求とによって獲得した利権を引き続き確保してゆくのが容易ではないことを察知する。そこで日本は、イギリス、フランス、ロシア三国が単独不講和を誓い合ったロンドン宣言に、1915年10月に加盟すると同時に、山東半島および南洋諸島についての日本の要求を来るべき講和会議において支持するという約束を1917年1月にイギリスから取り付け、3月にはフランスとロシアからも同じ密約を取り付けた。これらの密約もまた、サイクス‐ピコ協定などと同じように、ウィルソンが否定しようとした秘密外交の典型であった。密約を結ぶにあたり、日本の軍艦を地中海に派遣して同方面での作戦に協力することが交換条件となった。さらに同年夏から秋にかけて前外相の石井菊次郎をアメリカに派遣して、中国における日本の特殊利益をアメリカが承認するという保証を取り付けた。これが石井‐ランシング協定(1917.11.2)であり、同じ連合国の仲間となったためにアメリカが示さざるをえなかった最大限の譲歩であった。
他方、中立国スウェーデンの首都ストックホルムを舞台として、日本とドイツ側との秘密の接触が行われた。スウェーデン駐在の内田定槌(さだつち)公使が、ドイツ、オーストリア、トルコの公使、とくにドイツのルチウス公使とたびたび秘密交渉を行っている。ここでは、日本、ドイツ、ロシア三国が戦争をやめてユーラシア大陸を貫く同盟を結んではどうかということが話題となった。しかし、このような考え方が日本政府の公式の意向に沿うものであったとは考えにくい。公式の政策はむしろ、ロシアに日本から大量の武器を供給して、ロシアがドイツと単独講和を結んで戦線から離脱するのを防ぐというものであった。武器供給が誘い水となって、1916年7月に、ほとんど軍事同盟に等しい第四回日露協約が成立をみた。日本、ロシアの連合にとりわけ熱心であったのは元老山県有朋(やまがたありとも)で、日英同盟だけを固守しようとした加藤は、山県の圧力によってすでに1915年8月に辞職し、後任の石井菊次郎のもとでこの協約がロシア革命の半年前の1916年7月に実現する。首相大隈重信(おおくましげのぶ)は1916年10月に寺内正毅(まさたけ)と交替したが、寺内内閣のもとで、西原借款、日華軍事協定、シベリア出兵などの強硬な外交政策が次々に実行された。
[三宅正樹]
1918年3月、ドイツ軍は西部戦線で最後の大攻勢を開始したが途中で力尽き、7月にイギリス、フランス、アメリカの連合軍の反撃が開始されると、ドイツ側の敗北は必至の形勢となった。9月末にまずブルガリアが脱落し、10月にはオスマン帝国とオーストリアが脱落する。ドイツは10月12日にウィルソンの「十四か条」を受諾する旨をアメリカに通告した。11月3日になるとキール軍港に暴動が発生してドイツ革命が引き起こされる。革命の嵐(あらし)のなかでウィルヘルム2世は同月9日にオランダに亡命、マックス・フォン・バーデンにかわった社会民主党のエーベルトの政権のもとで、ドイツは11日に休戦条約に調印し、ここに第一次世界大戦は終了した。
講和会議はパリで1919年1月から6月まで開かれ、ウィルソンも列席した。「十四か条」が会議の基調となるはずであったが、ドイツに対する報復と自国の安全保障とを強く求めるフランス首相クレマンソーによりこの方針は大きくねじ曲げられた。一方、イギリスのロイド・ジョージはかならずしもクレマンソーに全面的に賛成していなかったが、自国の選挙民に対して行った対ドイツ報復の公約に縛られ、ウィルソンを支援することができなかった。こうして、ドイツに対する過酷な講和条約ができあがり、ドイツの代表団はパリ郊外のベルサイユ宮殿に呼びつけられて、いっさい抗弁せずに調印することを求められた。イタリアは戦勝国の一員ではあったが、連戦連敗で勝利に寄与することが少なかったために、ロンドン密約での参戦の代償を約束どおりに全部獲得することは許されなかった。イタリア国民のパリ講和会議に対する強い不満は、やがてムッソリーニのファシズムの運動にとって絶好の温床を形成することになる。イタリア以上に強烈であったドイツ国民の不満は、その後1929年以降に世界恐慌がドイツを直撃してドイツ経済を大混乱に導くことによっていっそう強められる。こうして、ヒトラーのベルサイユ体制打破の叫びに国民が耳を傾けることになり、彼によるナチズムの運動は、世界恐慌の嵐のなかで大きく成長し、ついに彼は権力を掌握するに至る。日本は、パリ講和会議で山東半島の旧ドイツ利権および南洋諸島の獲得を1917年の密約どおりに認められるが、やがてワシントン会議(1921)で山東半島の利権を中国に返還させられることとなる。この山東問題は中国のナショナリズムを刺激し、五・四(ごし)運動(1919)を触発した。
戦後にもたらされた国際秩序に対し、それぞれに「持たざる国」としての不満を抱いたドイツ、イタリア、日本の三国は、やがて地球上の資源の再配分を求めて、第二次世界大戦を引き起こすことになる。パリ講和会議に全権西園寺公望(きんもち)の随員として出発する直前、公爵近衛文麿(このえふみまろ)が雑誌『日本及日本人』に発表した論文「英米本位の平和主義を排す」は、大戦におけるドイツの立場を弁護すると同時に、それ以後の国際政治の動きを不気味な鋭さで予言していたということができよう。
[三宅正樹]
第一次世界大戦はとりわけヨーロッパに深刻な後遺症を残した。しかし、その影響の大きさにもかかわらず、大戦の原因は複雑であり、はっきりしていなかった。ところが、ベルサイユ条約はその第231条で、一方的にドイツ側諸国に戦争責任がある、ときめつけた。この「戦責条項」が、1320億金マルクという「天文学的数字」の賠償をドイツが支払うべきだという戦勝国側の要求の根拠となった。そこで、大戦終了直後から、ドイツの歴史学界は、戦争責任がドイツ側のみに帰せられるべきではないことを史料を通じて明らかにしようとする研究に、大きな努力を傾注することになる。このような動きのなかで、ドイツ政府は、1922年から1927年にかけて、膨大なドイツ外務省の外交文書を刊行する事業を遂行した。この史料集は全40巻52冊にわたるもので、『ヨーロッパの諸内閣の大政策 1871~1914年』Die große Politik der europäischen Kabinetteと題され、普通『グローセ・ポリティーク』の名で親しまれている。こうして、ドイツの歴史学者たちの大戦研究は、主として大戦原因論に集中することとなった。岡山の旧制第六高等学校(現岡山大学)のドイツ語教師として来日し、青島(チンタオ)に赴いて日本軍の捕虜になり、のちにキール大学史学科教授となったベッカーOtto Becker(1885―1955)は、ライプツィヒ大学史学科教授ブランデンブルクErich Brandenburg(1868―1946)と並んで、この時期の研究を代表する歴史学者である。イギリス、アメリカの歴史学者のなかからも、大戦原因論の研究に沈潜した結果、ドイツ側だけに責任を押し付けるのは正しくない、という見解に達した人々が現れた。ドイツの旧敵国から出現したこれらの歴史学者たちは、公式見解への修正を求めるという意味で「レビジョニスト(修正主義者)」とよばれる。アメリカのフェイSidney B. Fay(1876―1969)の『世界大戦の起源』(1928)、イギリスのグーチG. P. Gooch(1873―1968)の『ヨーロッパ外交新史料』(1927)などが代表的な著作である。ちなみにグーチは、イギリス外務省の外交文書刊行についても中心になって尽力している。
[三宅正樹]
第二次大戦終了(1945)後には、ドイツ側だけに第一次大戦の責任を押し付けるような風潮はほとんど消滅していた。1956年にフランスの歴史学者でソルボンヌ大学教授のルヌーバンPierre Renouvin(1893―1974)や、旧西ドイツの歴史学者でフライブルク大学史学科教授のリッターらが発表した開戦責任の問題についての共同宣言は、「レビジョニスト」の主張の延長線上に位置していたといってよい。ところが、1961年になって、ハンブルク大学史学科教授のフィッシャーFritz Fischer(1908―1999)が『世界強国への道』を発表したことにより、このような無風状態が突如打ち破られる。フィッシャーは、1914年9月9日にベートマン・ホルウェークが作成した戦争目的についてのプログラム(九月綱領)はきわめて侵略的な性格のものであり、このような戦争目的は第一次大戦中のドイツの政策に一貫してみいだされる、と主張した。フィッシャーの学説は、彼がこの「九月綱領」という新しい史料を発見し、分析したことから出発している。彼はさらに、第一次大戦、ワイマール共和国、第二次大戦の三つの時期のドイツ外交は、その侵略性において一貫している、という連続説を唱えた。ドイツのいわば内側からの、過去に対するこの告発は、西ドイツだけではなく、国際的に大きな波紋を呼び起こした。ここに「フィッシャー論争」が開始されるが、リッターは、フィッシャーに反駁(はんばく)する保守派の歴史学者の急先鋒(きゅうせんぽう)であった。先にあげた1916年9月27日のベートマン・ホルウェークの講和のプログラムについても、フィッシャーとリッターの解釈は真正面から対立する。リッターはこれを「きわめて穏健なもの」とみるが、フィッシャーはこの見方を全面的に否定している。これまで、優柔不断ではあるが平和の機会をとらえようと努力を続けたとされていたベートマン・ホルウェークについての評価を、フィッシャーは逆転させようとするのに対し、リッターはこの評価を史料を通じて再確認しようとする。4巻に及ぶリッターのドイツ軍国主義研究『国政術と戦争の手仕事』のうちの分厚い第3巻はもっぱらベートマン・ホルウェーク弁護にあてられている。いずれにせよフィッシャー論争が研究者の関心を大戦前史から大戦そのものへ移動させる結果を招いたことにより大戦の研究は、史料に関しても史実の解釈に関しても大きく前進したといえる。
[三宅正樹]
『義井博著「第一次大戦とドイツ帝国の没落」(『世界の戦争9 二十世紀の戦争』所収・1985・講談社)』▽『中山治一著『新書西洋史7 帝国主義の展開』(1973・講談社現代新書)』▽『中山治一編『世界の歴史13 帝国主義の時代』(中公文庫)』▽『江口朴郎著『帝国主義の時代』(1969・岩波書店)』▽『西川正雄・南塚信吾著「帝国主義の時代」(『ビジュアル版世界の歴史18』1986・講談社)』▽『岡部健彦著「二つの世界大戦」(『世界の歴史20』1978・講談社)』▽『「第一次世界大戦」(『岩波講座 世界歴史24 現代1』1971・岩波書店)』▽『三宅正樹他著「第一次世界大戦」(『世界の戦史9』1967・人物往来社)』▽『A・J・P・テイラー著、倉田稔訳『目で見る戦史――第一次世界大戦』(1980・新評論)』▽『F・フィッシャー著、村瀬興雄監訳『世界強国への道――ドイツの挑戦 1914~1918年』全2巻(1972、1983・岩波書店)』▽『G・W・F・ハルガルテン著、西川正雄・富永幸生・鹿毛達雄編・訳『帝国主義と現代』(1967・未来社)』▽『守川正道著『第一次大戦とパリ講和会議』(1983・柳原書店)』▽『今津晃編著『第一次大戦下のアメリカ――市民的自由の危機』(1981・柳原書店)』▽『A・J・メイア著、斉藤孝・木畑洋一訳『ウィルソン対レーニン 新外交の政治的起源 1917―1918年』全2巻(1983・岩波書店)』▽『日本国際政治学会編『日本外交史研究 第一次世界大戦』(1963・有斐閣)』▽『岡義武著「転換期の大正」(『日本近代史大系5』1969・東京大学出版会)』▽『L. C. F. TurnerOrigins of the First World War (1970, E. Arnold, London)』▽『J. A. MosesThe Politics of Illusion; The Fischer Controversy in German Historiography (1975, G. Prior, London)』▽『G. RitterStaatskunst und Kriegshandwerk; Das Problem des “Militarismus” in Deutschland, vol. Ⅱ,Ⅲ (1965, 1964, R. Oldenbourg, München)』▽『Th. SchiederStaatensystem als Vormacht der Welt 1848‐1918 (1977, Propyläen, Frankfurt am Main)』
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報
出典 旺文社日本史事典 三訂版旺文社日本史事典 三訂版について 情報
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
日本の上代芸能の一つ。宮廷で舞われる女舞。大歌 (おおうた) の一つの五節歌曲を伴奏に舞われる。天武天皇が神女の歌舞をみて作ったと伝えられるが,元来は農耕に関係する田舞に発するといわれる。五節の意味は...
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