二月革命(読み)ニガツカクメイ(英語表記)Révolution de Février

デジタル大辞泉 「二月革命」の意味・読み・例文・類語

にがつ‐かくめい〔ニグワツ‐〕【二月革命】

 
18482
1917322退  

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精選版 日本国語大辞典 「二月革命」の意味・読み・例文・類語

にがつ‐かくめいニグヮツ‥【二月革命】

 

(一)[  ] =
(二)[  ] 退
 

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改訂新版 世界大百科事典 「二月革命」の意味・わかりやすい解説

二月革命 (にがつかくめい)
Révolution de Février


184822

200300024

 1847



調48212121222012沿222

2223

 24

 25︿︿
48


二月革命 (にがつかくめい)
Fevral'skaya revolyutsiya

第1次世界大戦のさなか,1917年に起こったロシア革命の発端をなした局面。グレゴリオ暦の3月に起こった革命であるが,ロシア暦の2月に当たったところから,そう呼ばれる。300年続いたロマノフ王朝を転覆し,ロシア帝国を分解させた。反乱をおこした兵士・労働者からなる労兵ソビエトの支持をうけて,国会を基礎とする臨時政府が成立した。
ロシア革命
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「二月革命」の意味・わかりやすい解説

二月革命(フランス)
にがつかくめい
Révolution de Février フランス語


184822224西


原因

革命を勃発(ぼっぱつ)させた根本的な原因は、イギリスに端を発する産業革命の波がフランスにも及んで鉄道建設や紡績業が導入され、旧来の手工業と農業中心の社会が変質を始めたことのなかにある。市場向けの生産、取引や交換の活発化、貧乏と失業の増加などが社会に不安と動揺を持ち込んだ。18世紀の末、60万人であったパリの人口は、このころには100万人を超え、下町は貧しい人々であふれた。工業化と都市化が生み出した矛盾は解決を求めており、そのことは社会主義や過激思想のなかにも表現されている。

 二月革命の直接の原因は、1845年から46年にかけての農作物の不作であった。凶作による食料品の値上り、それによる労働者の窮乏、さらに農村の購買力の減少による工業製品の売れ行き不振は、倒産や失業者の増加となって現れた。深刻な経済危機は、やがて政治的危機にまで発展した。

 他方、ルイ・フィリップ治下の議会では、200フラン以上の納税者でなければ有権者になれない選挙制度に対する不満がくすぶっていた。王党派のなかにも、選挙法の改革を主張する者が少なくなかった。野党議員たちは、公然たる反政府運動が抑えられていたので、「宴会」に名を借りて市民を結集し、改革運動の盛り上げを図った。パリのみならず、地方都市にもこれが波及した。

[河野健二]

革命の進展


18482222324殿殿9殿()


臨時政府




 259004235156()3000262


第二共和政へ

六月事件ののち、議会は共和国憲法の制定を急ぎ、同年11月12日になって第二共和政の憲法が承認された。二月革命のスローガンであった「労働権」は認められず、市民の基本的権利は「公共の安全」を害しない限りという条件づきのものとなった。国民の直接選挙で選ばれる任期4年の大統領と、任期3年の一院制議会とが相互に独立し、牽制(けんせい)しあう、動きのとれない統治制度がつくられた。この憲法のもとでルイ・ナポレオンを大統領に選んで、第二共和政は3年間のおぼつかない歩みを始めたが、やがてルイ・ナポレオンは権力の強化を求めてクーデターを試み、第二帝政の時代を開くこととなる。

[河野健二]

『河野健二著『フランス現代史』(1977・山川出版社)』『河野健二著『現代史の幕あけ』(岩波新書)』


二月革命(ロシア)
にがつかくめい

ロシア暦の1917年2月に帝政を崩壊させた革命。西暦では3月にあたり、三月革命ともいう。

[編集部]

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百科事典マイペディア 「二月革命」の意味・わかりやすい解説

二月革命(ロシア)【にがつかくめい】

第1次大戦末期,ロシア革命の発端をなす革命。グレゴリオ暦では3月にあたるので三月革命とも。1917年ロシア暦2月23日(3月8日)首都ペトログラードで婦人労働者が〈パンをよこせ〉と起こしたデモが発端で,労働者・市民と軍隊・警察との衝突に発展した。12日労働者側についた兵士の反乱が始まり,全市は民衆の制圧下に入り,労兵ソビエトが成立。15日ソビエトの支持下に自由主義派国会議員からなる臨時政府が生まれ,皇帝ニコライ2世は退位して帝政は崩壊。ソビエトと臨時政府の並立する二重政権状態が出現した。民族自決や労働者の権利を求める声は高まりつづけ,やがて十月革命へとつながっていった。
→関連項目アクセリロードエス・エル党オルジョニキーゼカデットクロパトキンクロポトキンケレンスキーコルチャークコルニーロフソビエトツァーリズムドゥーマバクーニンブハーリンフルシェフスキーベルトフミリュコーフメンシェビキレーニン
 

()

 
18482()退3
1848  

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「二月革命」の意味・わかりやすい解説

二月革命[フランス]
にがつかくめい[フランス]
Révolution de Février

 
1848222232447 F.4822222324殿4216  

二月革命[ロシア]
にがつかくめい[ロシア]
Fevral'skaya revolyutsiya; February Revolution

ロシアのツァーリズムを打倒した 1917年3月 (旧暦2月) の革命。新暦では三月革命。第1次世界大戦は,それまで蓄積されてきたロシアの社会的矛盾を一気に表面化させた。食糧は底をつき,失業者が続出,2月 27日 (旧暦 14日) には首都ペトログラード (現サンクトペテルブルグ) に労働者のストライキが起り,3月3日 (旧暦2月 18日) 首都のプチロフ工場から始ったストライキは自然発生的に全市に拡大した。闘争は3月8日 (旧暦2月 23日) から本格化し,やがて鎮圧に出動した軍隊も次々に反乱を起し,13日 (旧暦2月 28日) には首都における政府軍は解体,権力は労働者兵士ソビエトの手に帰した。3月 15日 (旧暦2日) ニコライ2世は帝位を弟に譲ったが,後者はそれを受けず,ここに 300年にわたるロマノフ朝支配 (ツァーリズム) は崩壊した。他方穏健な改革を望む国会臨時委員会はペトログラード・ソビエトの条件付き承認のもとに,同日臨時政府を組織,以後臨時政府とソビエトとが並存する二重権力体制が現出した。 (→ロシア革命 )  

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旺文社世界史事典 三訂版 「二月革命」の解説

二月革命
にがつかくめい
Révolution de Février

1848年2月,選挙法改革運動を行っていたブルジョワ共和派と小市民・労働者が七月王政を倒し,第二共和政を成立させた革命
七月王政では,人口の1%未満という制限選挙制の下に大金融資本のブルジョワ寡頭政の性格が強まった。これに対し,産業革命の結果成長した中小資本家層は選挙権の拡大を要求し,労働者階級の間には社会主義の影響が強まっていたが,ギゾー内閣の対英屈従外交・労働者弾圧,さらに1845〜47年の経済危機はこれに拍車をかけ,各地で普通選挙を要求する改革宴会が開かれ,反政府機運が高まった。1848年2月,パリでの改革宴会弾圧が民衆の蜂起をよび,ギゾー内閣は辞職,ついでルイ=フィリップも亡命し,臨時共和政府が成立した(第二共和政)。臨時政府にはルイ=ブランらの社会主義者も加わり,労働者の権利保障,国立工場設立などが決定された。しかし,ブルジョワ共和派と社会主義者との対立が激化し,六月暴動で社会主義者は敗北,12月ルイ=ナポレオンが大統領に選ばれた。この革命には労働者階級が重要な役割を果たし,ドイツの三月革命,イタリアの統一運動など,全ヨーロッパの自由主義・国民主義の運動に大きな影響を与えた。

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「二月革命」の解説

二月革命(にがつかくめい)


Révolution de Février 1848247482退


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世界大百科事典(旧版)内の二月革命の言及

【チャーチスト運動】より

… 第3段階(1843‐48年秋) 前半は沈滞期で,不振となった《ノーザン・スター》も44年に発行所をリーズからロンドンに移したが,45年以後,土地計画運動,アイルランド解放運動,インターナショナリズムが刺激となって運動は復活した。二月革命の興奮も加わった48年4月には,197万人の署名をもつ(最高指導者オコーナーは560万人と豪語したが,点検の結果この数が確認された)第3次請願を行った。ロンドンの請願集会の日には民間人による特別警察15万人が警備に動員され,デモは不発に終わり,にせの署名が目だつ請願も撤回を余儀なくされた。…

【奴隷廃止運動】より

…フランス革命ではそれらの廃止は実現しなかったが,西インド諸島のフランス植民地の中心サン・ドマングでは,F.D.トゥサン・ルベルチュールとその後継者J.J.デサランの活躍によって,1804年,奴隷と混血者(ムラート)による反乱が最終的に成功してハイチ共和国の独立が宣言され,事実上奴隷貿易の意味はなくなり,14年に結ばれたイギリスとの協定に19年以降の奴隷貿易廃止が明文化された。その後七月王政時代の36年,本国に足を踏み入れた奴隷の解放が実現し,最終的に全フランス領の奴隷制廃止がイギリスと同様に有償で決定したのは48年二月革命のときで,これは奴隷制廃止が全共和派の目標の一つとなったからである。 このようなイギリス,フランスにおける奴隷貿易および奴隷制の廃止にいたる過程では,経済的要因が大きく作用している。…

【48年革命】より

…フランスの二月革命,ドイツの三月革命を含み1848‐49年にヨーロッパ全体に同時多発的に起こった革命を総称して48年革命あるいは1848年革命と呼ぶ。個別の諸革命もそれぞれ48年革命と呼ぶこともあるが,48年革命と呼ぶときにはとくに革命の全ヨーロッパ的性格が強調されている。…

【ラマルティーヌ】より


(1847)48224

【ロシア革命】より

…マルクス主義者をユーラシア大陸に広がる大国の権力の座につけ,社会主義の名のもとに新しい社会体制をつくり出す一方,反資本主義,反帝国主義の革命運動を全世界に拡大する火元を生み,世界史に革新的な作用を及ぼした。 革命は大きく分けて,1905年の革命(第1次革命)と17年の革命から成り,後者はさらに〈二月革命〉と〈十月革命〉に区分される。この〈十月革命〉は,ロシア革命の全過程の中で最も重要な局面を構成し,マルクス主義にもとづく社会主義社会の実現を目ざす政権を,人類史上初めて誕生させたことで知られる。…

※「二月革命」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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