デジタル大辞泉
「薬師」の意味・読み・例文・類語
くす‐し【▽薬師】
《「くすりし」の音変化》医者。
「―ふりはへて、屠蘇、白散、酒くはへてもてきたり」〈土佐〉
くすり‐し【薬師】
医者。くすし。
「―は常のもあれど賓客の今の―貴かりけり」〈仏足石歌〉
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やく‐し【薬師】
(一)[1] =やくしにょらい︵薬師如来︶
(一)[初出の実例]﹁薬師浄土変一鋪﹂(出典‥西大寺資財流記帳‐宝亀一一年︵780︶)
(二)﹁等身の薬師一躰、並に釈迦阿彌陀の像﹂(出典‥平家物語︵13C前︶一)
(二)[2] 〘 名詞 〙 ( ﹁薬師十二神将﹂の十二を連想していう ) 一二匁であったところから、遊女、一切(ひときり)の揚代をいう江戸、深川の岡場所での隠語。︹洒落本・通仁枕言葉︵1781︶︺
くすり‐し【薬師】
- 〘 名詞 〙 =くすし(薬師)
- [初出の実例]「久須理師(クスリシ)は 常のもあれど 賓客の 今の久須理師 貴かりけり 賞(め)だしかりけり」(出典:仏足石歌(753頃))
くす‐し【薬師】
- 〘 名詞 〙 医者。くすりし。
- [初出の実例]「使(つかひ)を遣(つかは)して、良き医(クスシ)を新羅に求く」(出典:日本書紀(720)允恭三年正月(図書寮本訓))
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薬師 (やくし)
人々の病をいやし,苦悩から救うとされる仏︵如来︶。サンスクリットのバイシャジヤ・グルBhaiṣajya-guruの訳。薬師瑠璃光︵るりこう︶如来とも呼ばれる。薬師は菩薩時代に12の大願を立て︵その中に自分の名を聞く者を不具や病気から救うという項目がある︶,仏となって東方の浄瑠璃世界の主となり,日光菩薩,月光菩薩︵日光・月光︶を従えている。瀕死の病人を救うために薬師如来に祈る供養法︵続命法︶が行われ,また薬師経を唱える信者を十二神将が守護するとも説かれる。別に七仏薬師︵しちぶつやくし︶の伝承があり,これによると東方に次々に如来がおり,最も遠い第7の如来が薬師であるとされる。七仏がそれぞれ独立した仏であるか,七仏は薬師仏の別名であるかが古来論ぜられている。
執筆者‥定方 晟
日本における薬師信仰
薬師は日本でも古くから治病に験ある仏として重んじられた。最も初期の薬師信仰の例として有名なのは,推古天皇と聖徳太子が,用明天皇の遺命によって607年︵推古15︶に造像したと伝える法隆寺金堂の薬師像である。しかしこの像については,造像年代を引き下げる説もあり,飛鳥時代の薬師信仰の存在は明らかでない。薬師信仰が盛んになるのは7世紀末以後であり,680年︵天武9︶天武天皇は皇后の病によって薬師寺建立を発願し,720年︵養老4︶藤原不比等が病むと諸寺で︽薬師経︾をよみ,745年︵天平17︶聖武天皇が病んだときも薬師悔過︵けか︶を行うなど,天皇家や上流貴族の病気の際は薬師に祈願するのが通例であった。平安時代に入り密教修法が盛んになると,︽七仏本願功徳経︾による七仏薬師法が発達した。七仏薬師法は,薬師7体を並べて祈るもので,9世紀の円仁がはじめたというが,10世紀の中ごろ天台宗の良源が摂関家の安産祈願に修して以来,有名になった。東密では七仏薬師法を行わないが,台密では除病安産など息災増益の秘法として特に重んじた。民間でも薬師は早くから治病の仏とされたが,︽日本霊異記︾や︽今昔物語集︾などの説話の数からみれば,観音や地蔵の信仰ほどには盛んでなかった。ことに室町時代ころを境として,治病信仰の中心的地位も,より幅広い利益を兼ね備えて民衆に親しみ深い地蔵に譲る形となっていった。
執筆者‥速水 侑
図像
薬師如来の図像については,本来明確な根拠に乏しい。︽薬師経︾は形姿について説かず,一応,如来としての一般的な姿,すなわち通仏相と理解される。また密教の両界曼荼羅には描かれない。日本では飛鳥,白鳳,奈良,平安の各時代を通じて,きわめて多くの造像が行われ,当初は通仏相として右手施無畏・左手与願の印相をもつ,釈迦如来と同体の像に表現された。法隆寺金堂像,薬師寺金堂像,唐招提寺金堂立像,東寺金堂像などがあげられる。一方,薬師如来の図像的特色として一般に知られる薬壺を持つことを明確に規定した儀軌は,不空訳︽薬師如来念誦儀軌︾などのほかに見当たらず,むしろ薬師如来の名称から連想される,医薬の効験を示す仏としての解釈から,後世になって生まれた図像的特徴と考えられる。中国においては薬壺をもつ像はなく,むしろ鉢と錫杖を持つ例が多い。日本では平安時代以降に薬壺を執る像が多く,さらに通仏相の施無畏・与願の印相をとる像に,後世薬壺を付け加えたとみられる場合もある。
平安時代初期には,造形的に優れた薬師如来像が相次いで造立された。座像としては新薬師寺像,醍醐寺像,奈良国立博物館像︵もと京都若王子社の本地仏︶など,立像では元興寺像,神護寺像,室生寺像などが著名で,いずれも平安時代初期の量感を強調した木彫の優作である。さらに文献からは,比叡山延暦寺根本中堂の本尊が薬師如来であったのをはじめ,多くの薬師如来像の作例がこの時期に集中的に造立されたことを知る。現在各地の国分寺に伝わる本尊の多くが薬師如来であり,平安時代初期には宗派を問わずきわめて盛んに造顕が行われた。薬師如来の脇侍としては日光菩薩,月光菩薩があり,中尊薬師如来とともに三尊形をなす例も多い。また十二神将を伴う例もある。十二神将を伴う早い例としては,新薬師寺像や京都大原野の勝持寺像がある。
絵画では平安時代にさかのぼる作例は見当たらず,高野山桜池院の︽薬師十二神将図︾が鎌倉時代の作例として知られるものの,他に薬師如来を描いた仏画は多くない。
執筆者‥百橋 明穂
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薬師【やくし】
薬師仏,薬師如来の略。仏教の仏の一つで,サンスクリットのバイシャジヤグルの訳。薬師瑠璃(るり)光如来,大医王仏,医王善逝(ぜんせい)などと訳す。東方浄瑠璃世界の教主で,病気を除き,諸根を具足させて,衆生を解脱(げだつ)へ導く仏とされる。左手に薬壺を持ち,右手は施無畏(せむい)印。日光菩薩,月光菩薩を脇侍とし,薬師三尊と呼ばれる。また十二神将はその眷属(けんぞく)。日本でも古くから信仰され,薬師寺の三尊像ほか多くの遺作がある。
→関連項目大谷磨崖仏|守護霊
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薬師
くすし
医者の古称。﹃日本書紀﹄允恭(いんぎょう)天皇3年︵413︶の条に﹁医﹂の文字がみえ、同じく欽明(きんめい)天皇14年︵553︶の条に﹁薬物﹂の文字があるが、大己貴(おおなむち)・少彦名(すくなひこな)の2神を薬師の神とよび、日本医道の祖とされている。初めて薬師とよばれたのは、推古(すいこ)朝7世紀初頭、隋(ずい)に渡って医術を学び、帰国して大仁(だいにん)に叙せられた恵日(えにち)で、その後、薬師恵日は630年︵舒明天皇2︶犬上御田鍬(いぬがみのみたすき)とともに最初の遣唐使として派遣され、子孫は758年︵天平宝字2︶難波連(なにわのむらじ)の姓を賜り、以後、医者を一般に薬師とよぶようになった。官医、僧医、民間医の別があって、薬医者のほか呪(のろ)い医者や鍼灸(しんきゅう)医をも含めてよんだが、薬師の語源はさだかでなく、﹁薬を用いる﹂の他動詞﹁くすす﹂の名詞化説が有力視されている。
﹇佐藤農人﹈
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薬師
くすし
医師の古語。語源には2説ある。﹃倭名類聚抄﹄に﹁医,和名は久須之,くすし,病を治す工 (たくみ) なり﹂とあり,新井白石と本居宣長は﹁クスシは奇すしで,古語はクシで後にクスシと変ったもの,もともとは医術の奇効からきている﹂と説いている。また平田篤胤は﹁クスシはクスリシのリが脱けたもの。医にクスリはつきものでござる﹂といっている。
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世界大百科事典(旧版)内の薬師の言及
【縁日】より
…平安時代には,阿弥陀,観音,地蔵の信仰が卓越しており,阿弥陀が15日,地蔵が24日となっている。なお︽古事談︾には,地蔵を8日にしているが,むしろ8日は薬師の縁日が一般的であった。 江戸時代,仏教が民俗化した段階で,主な縁日をあげると,観音が毎月18日,正月の初観音のほかに,元旦詣は100日参詣と同じ利益があるという。…
※「薬師」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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