藤原不比等(読み)フジワラノフヒト

デジタル大辞泉 「藤原不比等」の意味・読み・例文・類語

ふじわら‐の‐ふひと〔ふぢはら‐〕【藤原不比等】

 
659720()()()()()()  

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精選版 日本国語大辞典 「藤原不比等」の意味・読み・例文・類語

ふじわら‐の‐ふひと【藤原不比等】

 

(一)
 

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改訂新版 世界大百科事典 「藤原不比等」の意味・わかりやすい解説

藤原不比等 (ふじわらのふひと)
生没年:659-720(斉明5-養老4)


3調3142698271367162

 717172081076048345

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朝日日本歴史人物事典 「藤原不比等」の解説

藤原不比等

没年:養老4.8.3(720.9.9)
生年:斉明5(659)
律令国家成立期の政治家。内大臣中臣(藤原)鎌足の第2子。史とも書く。長兄は入唐学問僧定恵(貞慧・貞恵とも)。母は車持国子の娘与志古娘。天智皇胤説は後世の付会。天智8(669)年11歳で父と死別,山科の田辺史大隅らの家に養われ,史の名はそれによるという。天武9(680)年蘇我臣連子の娘娼子との間に武智麻呂が誕生,次いで房前,宇合が生まれ,また異母妹五百重娘との間に4男麻呂をもうけた。この4子はのち南家,北家,式家,京家を興す。女子では賀茂小黒麻呂の娘賀茂比売との間に宮子,また後妻県犬養三千代との間に安宿媛(光明子)と多比能が生まれた。 持統3(689)年直広肆(従五位下)判事(裁判官)となる(正史上の初見)。この年草壁皇太子は死に臨んで佩刀「黒作懸佩刀」を与え,軽皇子(のちの文武天皇)の将来を託したという(「東大寺献物帳」)。持統11(697)年文武即位に当たり黒作懸佩刀を献呈,また宮子入内,文武妃となる。翌2年詔により藤原朝臣の姓は不比等の継承するところとし,意美麻呂(鎌足の猶子という)らは神事にかかわるため中臣の旧姓に復す。これにより藤原氏は神事から離脱,政治貴族の道を進む。同4年大宝律令の編纂に加わる。直広壱(正四位下)。大宝1(701)年大納言正三位となり公卿に列す。この年宮子に外孫首皇子(のちの聖武天皇)が誕生,また同年に生まれた娘・安宿媛はのち首皇太子妃となる(716)。慶雲1(704)年大納言従二位(廟堂第3座)。同4年文武は死に臨んで黒作懸佩刀を再び与える。和銅1(708)年3月右大臣正二位となる。同3年平城遷都が実現すると,氏寺(興福寺)を平城に移す。霊亀1(715)年,知太政官事穂積親王没し,廟堂第2座となる。養老1(717)年,石上麻呂没し,廟堂首座となる。同2年養老律令の編纂を開始。太政大臣に任じられるが,固辞。同4年,死に先だち黒作懸佩刀を首皇太子に献ずる。8月3日死去。10月太政大臣正一位を追贈,諡を文忠公という。律令天皇制国家の演出者であり,冷徹で現実的な官僚政治家の風貌を想わしめるが,それを直接語る史料は極めて少ない。『懐風藻』に漢詩5首を載す。天平宝字4(760)年斉の太公の故事により追封されて淡海公と称される。<参考文献>上田正昭『藤原不比等』

(原秀三郎)

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百科事典マイペディア 「藤原不比等」の意味・わかりやすい解説

藤原不比等【ふじわらのふひと】

 
()()()()()()()()4
 

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「藤原不比等」の意味・わかりやすい解説

藤原不比等
ふじわらのふひと
(658/659―720)


()()2()()()()()()宿()()()6893()()()()()()()()5000退20007081()宿()()()7182()()720()()()7604()()12()()()

 

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「藤原不比等」の意味・わかりやすい解説

藤原不比等
ふじわらのふひと

 
[]4(658)/5(659)
[]4(720).8.3.
4 (700)  (6)  (11) 1 (701) 1 (708) 2 (718)  (10)  (10) 7 () 4 (760) 44  

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「藤原不比等」の解説

藤原不比等
ふじわらのふひと


659720.8.3

()()689(3)698(2)使701()708()()4宿()()

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「藤原不比等」の解説

藤原不比等 ふじわらの-ふひと

659-720 飛鳥-奈良時代の公卿(くぎょう)。
斉明天皇5年生まれ。藤原鎌足(かまたり)の次男。母は車持与志古娘(くるまもちの-よしこのいらつめ)。藤原四家の祖。「大宝律令」撰定の功で大納言となり,和銅元年(708)正二位,右大臣。律令体制を確立し,平城遷都,「養老律令」編修をすすめた。娘宮子,光明子を文武・聖武(しょうむ)天皇の後宮にいれ,皇権とむすぶ藤原氏の特権的地位をきずいた。「懐風藻」に詩5首がのこる。養老4年8月3日死去。62歳。贈正一位太政大臣。名は史ともかく。諡(おくりな)は淡海公。

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旺文社日本史事典 三訂版 「藤原不比等」の解説

藤原不比等
ふじわらのふひと

 
659720

2710729 ()  ()  () 4  

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世界大百科事典(旧版)内の藤原不比等の言及

【橘三千代】より

…天武朝に出仕するのと前後して美努(みの)王と結婚し,684年(天武13)葛城(かつらぎ)王(橘諸兄)を生み,前年誕生した軽(かる)皇子(文武天皇)の乳母となり,次いで佐為(さい)王(橘佐為),牟漏(むろ)女王(藤原房前(ふささき)室)を生んだ。後に藤原不比等(ふひと)に接近し,彼の長女宮子を文武天皇夫人とすることに成功して急速に親密となり,ついに美努王のもとを去り不比等と再婚した。701年(大宝1)宮子が首(おびと)皇子(聖武天皇)を生むと,三千代もまた不比等の第3女安宿媛(あすかべひめ)(光明皇后)を生み,再び乳母となって首皇子を養育した。…

【中臣氏】より

…日本古代の豪族。大和朝廷では祭祀を担当し姓(かばね)は連(むらじ)。大化改新後に藤原氏を分出,八色(やくさ)の姓の制度で朝臣を賜姓。奈良後期から嫡流は大中臣(おおなかとみ)氏。中世以後は岩出(いわで),藤波(ふじなみ)などと称する。中臣とは,《中臣氏系図》の〈延喜本系〉に奈良後期の本系帳を引用し〈高天原に初めて,皇神(すめかみ)の御中(みなか),皇御孫(すめみま)の御中執り持ちて,いかし桙(ほこ)傾けず,本末(もとすえ)なからふる人,これを中臣と称へり〉とか,《台記別記》の〈中臣寿詞(なかとみのよごと)〉に〈本末傾けず茂槍(いかしほこ)の中執り持ちて仕へ奉る中臣〉とか,《大織冠伝》に〈世々天地の祭を掌り,人神の間を相和す。…

【奈良時代】より


2退

 宿3

【藤原氏】より



【養老律令】より


701(1)()(1)(2)()

※「藤原不比等」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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