出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
ブッダの入滅後、教団はしだいに拡大・発展し、とくに前3世紀前半にインドに初めて出現した統一国家であるマウリヤ朝、そしてその黄金時代を築いたアショカ王の仏教への帰依(きえ)は、仏教の勢力を全インドに飛躍的に伸展させた。教団の拡大とともに、おそらくアショカ王よりやや以前に、教団は、保守派と進歩派との対立から、ついには分裂して、それぞれ上座部(じょうざぶ)、大衆部(だいしゅぶ)と称した。さらにそれから100年余の間に大衆部中に、さらにそれから100年余の間に上座部中で、再分裂が起こり、計約20の部派が成立した。のちにおこった大乗仏教徒は、これを小乗二十部とよぶことがある。各部派はそれぞれまず口伝(くでん)の教え(阿含)を経として固定したうえに、おのおのの解釈によりその教理教義を組織化・体系化した。この精密な教義体系はアビダルマabhidharma(阿毘達磨(あびだつま)・アビダンマ・阿毘曇(あびどん))とよばれ、西洋の神学、とくにスコラ哲学に匹敵する。現在アビダルマは南方仏教の伝える上座部の七論と、説一切有部(せついっさいうぶ)(有部)の漢訳の七論とが伝えられ、そのほか所属不明の漢訳が数種ある。部派仏教はほとんど出家者の独占にゆだねられて、彼らはひたすら自己の修行に精進し、しかも教団に属する荘園(しょうえん)に依存していた。
[三枝充悳]
5世紀初め鳩摩羅什(くまらじゅう)が西域から長安に到着し、以後9年間、さまざまな大乗経典の優れた翻訳を行い、また3000余人といわれる弟子を教育した。ここに中国仏教は新しい時代を迎え、翻訳された漢文の経典だけによって、十分に仏教教理の研究、思想の理解が可能となった。そのほか、仏駄跋陀羅(ぶっだばっだら)、曇無讖(どんむせん)、真諦(しんだい)、菩提流支(ぼだいるし)などの渡来僧により、優れた漢訳仏典が完成し、これらの種々の経や論の研究が進んで、それぞれに依拠する多くの学派が形成された。一方、この時代には訳経書の整理が行われ、経録や伝記など信頼に値する仏教史の諸資料がつくられた。そして混乱の続いたこの時代に仏教はようやく民衆の間に入り、漢民族の習俗に融合し、盂蘭盆会(うらぼんえ)などの法会が盛んに行われるようになった。ときに王朝による廃仏があっても、ただちに仏教は復活し、大同・雲崗(うんこう)の石仏や竜門石窟(せっくつ)なども、熱烈な仏教信仰を物語っている。
[三枝充悳]
この時代のなかばにふたたび廃仏があり、多くの経典が焼却され、宗派も中絶したが、実践に専念する浄土と禅、そして民間信仰に同化した密教が栄えた。なかでも禅は十分に中国化した仏教として発達し、優れた高僧が輩出して、その教えが継承されていくと同時に、それらの語録(『臨済録(りんざいろく)』『碧巌録(へきがんろく)』『従容録(しょうようろく)』『無門関(むもんかん)』などが名高い)が編集された。また禅の寺院の自給自足的な生活規定が生まれ、それを清規(しんぎ)と称した。宋(そう)代以後、大蔵経(だいぞうきょう)が開板され、こうして経典が刊本により広く人々に読まれるようになった。
[三枝充悳]
かなり古い時期から、大陸の仏教は朝鮮半島を経由して伝えられて、当初は渡来人を中心に、やがて民間に広まっていたが、公式の伝来は欽明天皇(きんめいてんのう)の代(538年ないし552年)とされる。その後、蘇我(そが)氏の崇仏と物部(もののべ)氏・中臣(なかとみ)氏の排仏の争いがあったが、聖徳太子によって仏教の受容が確定し、日本に仏教が根を下ろすことになった。
聖徳太子は仏教思想を取り入れて「十七条憲法」を制定し、仏教の経典を詳しく学んで『法華経(ほけきょう)』『維摩経(ゆいまぎょう)』『勝鬘経(しょうまんぎょう)』に義疏(ぎしょ)(注釈)を書いた(『維摩経』については異説もある)。『法華経』はインド・中国でも広く読まれたが、太子を経て日本でもっとも愛好される経典となり、多くのものを円融的に総合するその一乗思想は、長く日本仏教の性格の一つとなった。また『維摩経』『勝鬘経』のもつ在家仏教の性格は、のち僧俗一体の菩薩道(ぼさつどう)といった姿に展開し、やはり日本仏教の顕著な特徴となった。太子はまた隋(ずい)と国交を結んで留学生を大陸に送り、文化の中枢で直接仏教を含むその文化を学ぶ道を開拓する一方、四天王寺などを建てて病人や貧民を救った。続いて、法隆寺、中宮寺などが建てられ、仏像・仏画などの諸芸術作品が、いわゆる飛鳥(あすか)・白鳳(はくほう)の美をつくりあげた。大化改新には仏教興隆の詔(みことのり)が発せられて、多くの僧尼が活躍し、種々の法会(ほうえ)が盛んに行われた。このいわば上からの国家仏教の性格は、次の奈良仏教において頂点に達する。なお、仏教と政治との癒着は、時代により強弱はあっても、日本仏教には現在に至るまできわめて濃い。
[三枝充悳]
鎌倉新仏教は人々の宗教的欲求にこたえて、短時日の間に民衆のなかに広まった。
臨済禅は足利(あしかが)幕府の庇護(ひご)を受けて、京都と鎌倉の五山を中心に栄え、五山文学を生み、また茶道、華道、絵画(とくに水墨画)、芸能、造園、料理、建築など文化の諸方面に深い影響を及ぼした。この系統に、室町時代には南浦紹明(なんぽじょうみょう)(大応国師)、宗峰妙超(しゅうほうみょうちょう)(大燈国師(だいとうこくし))、夢窓疎石(むそうそせき)、関山慧玄(かんざんえげん)、虎関師錬(こかんしれん)など、江戸時代には沢庵宗彭(たくあんそうほう)、至道無難(しどうぶなん)、臨済中興と仰がれる白隠慧鶴(はくいんえかく)、盤珪永琢(ばんけいようたく)などのほか、合理的精神により日常生活にその教えの実践を説いた鈴木正三(すずきしょうさん)が出る。
曹洞宗には、江戸時代に卍山道白(まんざんどうはく)、面山瑞方(めんざんずいほう)などが現れて教えを正しており、大愚良寛(たいぐりょうかん)もこの宗に属する。
なお、臨済禅の別派の黄檗宗(おうばくしゅう)が江戸時代に隠元によって明(みん)から伝えられた。これには中国風の色彩が強く、この宗に出た鉄眼道光(てつげんどうこう)は「大蔵経(だいぞうきょう)」の新刻を完成したほか、飢饉(ききん)には難民を救って人々の敬慕を集めた。
浄土宗は、法然の没後、諸派に分かれたが、江戸時代には徳川氏の宗旨となって栄え、江戸増上寺と京都知恩院とがその中心となった。
浄土真宗は8代目の蓮如(れんにょ)によって飛躍的に発展し、ついには日本最大の宗派となり、戦国時代にはしばしば一向一揆(いっこういっき)を起こして武将を脅かした。そのために、徳川幕府は本願寺を東西に二分してその勢力を押さえた。
天台宗には徳川家康の寵(ちょう)を受けた天海が出て、寛永寺(かんえいじ)を開き、日光山を再興したほか、「大蔵経」を開板(かいはん)(板本の作成)した。これが日本の「大蔵経」完刻の最初である。
真言宗には、江戸時代に飲光(おんこう)(慈雲尊者(じうんそんじゃ))が出て、正法律(しょうぼうりつ)を唱え、またサンスクリット語を研究して大著『梵学津梁(ぼんがくしんりょう)』を著した。
また江戸時代には、仏典の文献学的研究もおこり、普寂(ふじゃく)(1707―1781)、鳳潭(ほうたん)、法幢(ほうとう)、富永仲基(とみながなかもと)、中井竹山(ちくざん)、中井履軒(りけん)などが知られる。
周知のように、徳川幕府はキリシタン禁制のために、厳重な鎖国を敷き、その反作用として仏教を保護した。しかしそれも、徳川家を頂点とする封建制度を維持する一環として仏教を利用したにすぎず、いたずらに寺院制度だけがそびえて、生気あふれる仏教活動はあまりみられない。各宗派は本山―末寺、寺―檀家(だんか)の関係を厳しく守り、個人の信心よりも、家の宗門に縛られることになった。他方、宗派内では宗学を確立して発展させると同時に、寺子屋を開いて一種の国民的な教育機関をつとめた。
明治政府は、初め神仏分離から廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)にまで進んだが、日本人の心に根を下ろしていた仏教は、現代もなお日本人の風俗習慣や思考のどこかに、程度の差はあっても、かなり深く宿されていることが多い。これは、日本に伝来し繁栄したのが、ゴータマ・ブッダの説に基づく阿含(あごん)仏教ではなく、まさしく大乗仏教であり、しかもそれは文学・絵画・彫刻・建築・音楽などにわたる芸術一般から、言語・習俗・儀礼・技術・政治などを網羅した大乗文化ともいうべきものであって、それにまったく席巻(せっけん)されたまま継承されたことによる。散発的なブームらしいものがあっても、一般的にみれば、現代の日本人の仏教思想は潜在していて、あまり目だつことがなく、いわば切実と無関心との間をさまよっていて、後者から、一部に葬式仏教の貶称(へんしょう)さえある。また第二次世界大戦後は、いわゆる新宗教といわれるものが、とくに日蓮系統(たとえば創価学会、霊友会、立正佼成会(りっしょうこうせいかい)など)から、ほかに天台や真言系統から多く出て、多数の信者を獲得している。仏教系の信者数は8690万2013(『宗教年鑑』平成26年版)。各宗派の信者数等はそれぞれの項を参照。
なお日本仏教は漢訳仏典をそのまま用い、この点は中国やチベット仏教と相違する。また平安初期ごろまでは、中国や朝鮮仏教と同じく、諸宗兼学が常態であったが、とくに鎌倉以後は特定の一宗に凝縮され、結晶して深化したとはいえ、仏教全体への展望は失われた傾向が強い。明治以降に諸宗の連帯が深まり、また仏教学は著しく進展した。
[三枝充悳]
ラマ教という別称を、チベット仏教徒は用いない。チベットへの仏教初伝は、全土統一を果たしたソンツェンガンポ王(在位?~638、643~649)による。のちチソンデツェン王(在位754~797)は、インドから、後期大乗と密教に通じた3人の高僧、シャーンティラクシタ(寂護(じゃくご))、パドマサンババ(蓮華生(れんげしょう))、カマラシーラ(蓮華戒)を迎えて、仏教興隆を進める。約100年の断絶後、11世紀にアティーシャがインドから移り、以後チベット仏教は全盛を極める。最大の高僧ツォンカパは仏教の根本的改革を行うと同時に、顕教にも密教にも通じ、とくに中観派(ちゅうがんは)の解釈を密教に徹底させた名著を著す。以後のチベット仏教は、この系譜が正統となり、ダライ・ラマと称して全チベットの統一君主として、宗教・政治・文化をすべて統率する。ダライ・ラマ5世(1617―1682)は別の大寺の高僧にパンチェン・ラマの称号を贈ったが、その系譜は宗教的な一権威にとどまる。近世から現代には、イギリス、ロシア、そして第二次世界大戦後は中国により多大の弾圧などを受けたが、チベット仏教の根強い力は依然衰えていない。またこの影響はチベットのほか、モンゴルやロシアの一部などに残る。ダライ・ラマ14世(1935― )は中国政府に追われて、インド北部に宗教自治区を形成している。なお、西蔵大蔵経(チベットだいぞうきょう)は、とくに大乗仏教・密教を伝えるもっとも貴重な宝庫として、世界各地で盛んに研究が進められている。
[三枝充悳]
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…しかしインドへ移入されてインド的展開を遂げたイスラムなど外来の哲学・宗教思想もまた含められるべきであろう。仏教国である日本では,明治時代以降〈印度哲学〉と表記され,〈仏教(学)〉の同義語として用いられる場合もあるが,ここでいう〈インド哲学〉は,インド仏教を,数多くの諸体系の一つとして包括している。この場合の〈インド〉は今日のインド(バーラト)のみならず,その近隣諸国をも含む〈インド亜大陸〉といわれる地域を指す。…
…この場合,信仰は人格的対象をもち,かつ現実の生の困難にたえて神への要請にこたえる行為とされるのであるが,信仰があまりにも一点に集中しているため,〈信仰の自由〉や〈信仰と文化〉の問題が起こることはほとんどないのである。仏教では〈信心〉が出発点で,それが仏法の知恵と悟りにまで高められることを目的として進み,その過程で世界と人間の罪業の深きを知り,因縁の深さに打たれると説かれる。信心の究極は仏となることにあり,この本願に導かれることが信仰であるといえる。…
…この時代では儒教の《易経》と《老子》《荘子》を合わせて三玄とよび,その学問を玄学とよんだが,知識人の教養としては儒学よりは玄学の比重が圧倒的に大きくなった。 またこれとともに注目すべきことは,この時代になって初めて仏教が知識人の関心をひくようになったことである。その際仏教が六朝の知識人の心をとらえたのは,第1点は仏教の根本義である〈空〉が老荘の〈無〉に通ずるものをもつこと,第2点は従来の中国にはまったくなかった輪廻(りんね)説,三世報応説をもたらしたことである。…
…このため後漢の儒学には哲学的な発展が見られなかったが,ただ後漢初の王充の《論衡》は,その無神論的な立場から当時の俗信を徹底的に批判したのが注目される。
[六朝時代]
後漢につづく400年間の六朝は,漢代の哲学不毛の時代とは対照的に,老荘や仏教を中心として哲学的関心が著しく高まった時期である。まずそれは老荘思想の流行となって現れる。…
※「仏教」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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