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豊臣氏 (とよとみうじ)
近世の姓氏。秀吉が豊臣姓を称したのに始まる。秀吉は尾張中村出自の木下氏だが,織田信長の重臣となり1573年︵天正1︶羽柴氏に改めた。平姓を称していたが,85年関白になるに際し近衛前久︵さきひさ︶の養子となり藤原を姓とし,翌年太政大臣になるに及び朝廷より豊臣の姓を受けた。秀吉は一族に豊臣氏を称させるとともに,諸大名にも羽柴氏,豊臣姓を授けた。91年秀吉の長男鶴松が夭折すると姉の子秀次に関白職を譲って後継者としたが,次男秀頼が生まれると95年︵文禄4︶秀次を高野山に追放して自殺させ,秀頼を後継とした。この秀次にかかわる事件は,朝鮮出兵の失敗とともに豊臣政権の力を弱め,秀吉の死後,関ヶ原の戦により政権は徳川氏に移り,1614年︵慶長19︶,15年︵元和1︶両度の大坂の陣により徳川氏に滅ぼされた。
執筆者‥加藤 益幹
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豊臣氏
とよとみうじ
豊臣秀吉(とよとみひでよし)に始まる近世の姓氏。秀吉は尾張国愛知郡中村に生れ木下氏であったが、織田信長の家臣として出頭し、1573年︵天正元︶羽柴氏(はしばし)と改めた。信長死後、平姓を称し、1585年関白につくに際し近衛前久(このえさきひさ)の養子となって藤原姓を称し、翌年太政大臣(だいじょうだいじん)就任に及んで朝廷から豊臣の姓を受けた。以後、一族のほか、秀吉は諸大名にも羽柴氏や豊臣姓を授けた。1591年長男鶴松が死ぬと、秀吉は甥豊臣秀次を後継者としたが、1593年︵文禄2︶次男豊臣秀頼が誕生、1595年秀次は高野山(こうやさん)に追放、自殺させられた。しかし、1598年︵慶長3︶秀吉が死去し徳川家康が政権を握ると、1615年︵元和元︶大坂夏の陣に秀頼は敗れ、豊臣氏は滅亡した。
﹇朝尾直弘﹈
﹃山陽新聞社編・刊﹃ねねと木下家文書﹄︵1982︶﹄
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豊臣氏
とよとみし
織豊期の武家。豊臣秀吉に始まり,2代で絶えた。秀吉ははじめ木下氏,のち羽柴氏を名のる。姓は信長の後継という立場から平姓だったが,1585年(天正13)7月近衛前久(さきひさ)の猶子となり藤原に改姓して関白に就任。さらに新姓の創出を申請し,﹁天地長久万民快楽﹂の意をこめて豊臣に改姓した。勅許は太政大臣就任を機に行われたようである。以後,豊臣姓は弟秀長や甥の秀次のほか宇喜多秀家など有力諸将にも与えられ,これにより大名掌握・統制をはかった。秀吉没後,子の秀頼があとをつぐが,関ケ原の戦・江戸開府などをへて,豊臣氏は公儀権力から転落,1615年(元和元)大坂夏の陣で徳川氏に滅ぼされた。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
豊臣氏
とよとみし
秀吉が1586年太政大臣に任じられ,豊臣の姓を賜ったのに始まる。秀吉の死後,幼子秀頼は大坂城にいたが,関ケ原の戦い後,一大名となった。1615年大坂の役に敗れ秀頼は自害し,豊臣家は滅亡した。
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豊臣氏
とよとみうじ
天正 14 (1586) 年羽柴秀吉が賜わった姓。秀吉は同13年7月関白になると藤原を姓としたが,翌年12月奏して豊臣姓を受けた。こののち元和1 (1615) 年子秀頼が徳川家康に滅ぼされ,断絶した。
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世界大百科事典(旧版)内の豊臣氏の言及
【太閤蔵入地】より
…豊臣氏直轄領をいう。その全貌は〈慶長三年蔵納目録〉によって概観できる。…
※「豊臣氏」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」