遣隋使(読み)ケンズイシ

デジタル大辞泉 「遣隋使」の意味・読み・例文・類語

けんずい‐し【遣×隋使】

 
使1560716()()()()22()()()()()  

出典 小学館デジタル大辞泉について 情報 | 凡例

精選版 日本国語大辞典 「遣隋使」の意味・読み・例文・類語

けんずい‐し【遣隋使】

 

(一)   使()=
 

出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報 | 凡例

改訂新版 世界大百科事典 「遣隋使」の意味・わかりやすい解説

遣隋使 (けんずいし)


︿562589使

 600820使使使使607153︿使使608︿610使608使614

 使607使使使沿
使 


出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

日本大百科全書(ニッポニカ) 「遣隋使」の意味・わかりやすい解説

遣隋使
けんずいし


7()()581618使60061466008206101862使()()()使345600使()()()使()()()()()()

 607153使()()()()()()()608使()使()()()()

 使614()使



使 1980

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

百科事典マイペディア 「遣隋使」の意味・わかりやすい解説

遣隋使【けんずいし】

 
使607608()614()3600使()()607使︿()()使
 

出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報

山川 日本史小辞典 改訂新版 「遣隋使」の解説

遣隋使
けんずいし


(())使41600(8)()1()()()2(607)()使()()3(608)使()(())()4(614)()使使2

出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「遣隋使」の意味・わかりやすい解説

遣隋使
けんずいし

 
使18 (600) 使2 (1) 15使316使22使使  

出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報

旺文社日本史事典 三訂版 「遣隋使」の解説

遣隋使
けんずいし

飛鳥時代,隋に派遣された公式の使節
聖徳太子が中国の文物・制度を摂取する目的で派遣。第1次の600年は『隋書』のみにみえる。第2次の607年は小野妹子が大使となり,翌年隋使斐世清 (はいせいせい) と帰国。さらに同年妹子が再度派遣され,高向玄理 (たかむこのげんり) ・僧旻 (みん) ・南淵請安 (みなぶちのしようあん) らの留学生・学問僧が同行。帰国後,文化の発展や大化の改新に多大の貢献をなした。614年には犬上御田鍬 (いぬがみのみたすき) を第4次遣隋使として派遣した。

出典 旺文社日本史事典 三訂版旺文社日本史事典 三訂版について 情報

旺文社世界史事典 三訂版 「遣隋使」の解説

遣隋使
けんずいし

日本の推古朝から隋に送った使節
聖徳太子が行い,目的は中国文物の輸入,政治・文化の刷新にある。607年,小野妹子の派遣のときの国書は「日出処天子 致書日没天子 無恙(日出 (いづ) る処の天子,書を日没する処の天子に致す,恙 (つつが) なきや)」の語に始まる。614年には犬上御田鍬 (いぬがみのみたすき) が派遣された。同行の留学生・留学僧は,帰国後,大化の改新の推進力となった。

出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報

山川 世界史小辞典 改訂新版 「遣隋使」の解説

遣隋使(けんずいし)


使600(8)34()()

出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報

世界大百科事典(旧版)内の遣隋使の言及

【飛鳥時代】より




 5811600(8)使7使

【聖徳太子】より

…この時期は蘇我氏権力がまさにその絶頂にさしかかったときであり,推古朝の政治は基本的には蘇我氏の政治であって,女帝も太子も蘇我氏に対してきわめて協調的であったといってよい。したがって,この時期に多く見られる大陸の文物・制度の影響を強く受けた斬新な政策はみな太子の独自の見識から出たものであり,とくにその中の冠位十二階の制定,十七条憲法の作成,遣隋使の派遣,《天皇記》《国記》以下の史書の編纂などは,蘇我氏権力を否定し,律令制を指向する性格のものだったとする見方が一般化しているが,これらもすべて基本的には太子の協力の下に行われた蘇我氏の政治の一環とみるべきものである。 しかし太子は若くして高句麗僧慧慈(えじ)に仏典を,博士覚哿(かくか)に儒学等の典籍を学び,その資質と文化的素養は時流を抜くものがあったらしい。…

【隋】より

…すなわち,官僚機構,軍制,税制等制度面の整備がいっそう進んで,皇帝を中心とする中央集権体制が完成の域にまでひき上げられ,大運河の開削を通しては,隋の当初から追求された政治・経済・文化の各方面での南北一体化がさらに促された。対外活動でも,文帝以来の方針を踏まえたうえで,吐谷渾を討って西方へ領土を広げ,同時に西域諸国との関係改善を図り,南は林邑(りんゆう)(ベトナム)や流求(台湾)に進出を果たしたのであり,しかも遠く倭(日本)からは聖徳太子の〈日出づる処の天子,書を日没する処の天子に致す,恙(つつが)無きや,云々〉で有名な国書を携えた遣隋使が派遣されてきた。ちなみに隋代における倭からの使者は,中国文献によれば文帝末時(600)が最初であり,後述にあるように,このときにもたらされたものが太子の政治改革に影響を与えたと考えられる。…

※「遣隋使」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

今日のキーワード

タコノキ


12m7cm()...


コトバンク for iPhone

コトバンク for Android