デジタル大辞泉
「阿部信行」の意味・読み・例文・類語
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あべ‐のぶゆき【阿部信行】
(一)陸軍大将、政治家。昭和一四年︵一九三九︶、内閣を組織、外相を兼任するが、軍部や政党の関係で失敗し五か月足らずで総辞職。明治八~昭和二八年︵一八七五‐一九五三︶
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阿部信行
あべのぶゆき
(1875―1953)
陸軍軍人、政治家。石川県金沢生まれ。陸軍士官学校9期。陸軍大学校卒業後、日露戦争、シベリア出兵に従軍。参謀本部や陸軍省の要職を歴任。関東大震災のとき戒厳参謀長となる。宇垣閥に属し、浜口雄幸(はまぐちおさち)内閣では宇垣一成(うがきかずしげ)陸相の代理を務めたが、宇垣退役後は中間的立場をとった。1933年︵昭和8︶大将。1936年の二・二六事件では軍事参議官として決起将校寄りの態度をみせた。同年3月予備役。1939年8月組閣。日中戦争の早期解決、欧州大戦不介入を掲げたが、貿易省設置の失敗など弱体ぶりをさらけ出し、軍部の支持も失って5か月で総辞職した。1940年中国特派大使、1942年貴族院勅選議員、翼賛政治会総裁、1944年朝鮮総督などを歴任。敗戦後戦犯に指名されたが不起訴となる。海軍大将井上成美(いのうえしげよし)は義弟。
﹇小田部雄次﹈
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阿部信行 (あべのぶゆき)
生没年:1875-1953(明治8-昭和28)
第2次世界大戦中陸軍に擁立されて首相などを歴任した軍人。石川県出身。陸軍士官学校︵9期︶,陸軍大学校卒業。関東大震災当時参謀本部総務部長で,戒厳参謀長となるなど中央部の要職を経て,ロンドン条約問題当時陸軍次官で,宇垣一成陸相の病気のため陸相臨時代理となった。次いで大将となったが,二・二六事件で予備役。1939年8月平沼騏一郎内閣総辞職のあと首相となり,欧州戦争不介入を声明したが,国民の生活不安で代議士の退陣要求をうけ陸軍からも見捨てられて40年1月に退陣した。4月には特命全権大使となり汪兆銘政権と日華基本条約を結んだ。陸軍出身の重臣として木戸幸一内大臣︵阿部の姻戚︶の東条英機内閣推薦を支持。42年,翼賛選挙では翼賛政治体制協議会会長として推薦候補の人選にあたり,選挙後には翼賛政治会総裁となった。44年朝鮮総督。敗戦後連合国から戦犯に指名されたが不起訴。
執筆者‥今井 清一
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阿部信行
あべのぶゆき
[没]1953.9.7. 東京
陸軍軍人,政治家。陸軍士官学校,陸軍大学校卒業後,ドイツ,オーストリアに駐在。その後,参謀本部課長,参謀本部総務部長,軍務局長,陸軍次官,台湾軍司令官などを歴任,1933年大将に昇進,軍事参議官となった。退役後,39年8月30日,陸軍の支持を得て,平沼騏一郎内閣のあとをうけて首相となったが,おりからのインフレーションの悪化,貿易省設置案の失敗,官吏身分保障制撤廃案の失敗,日米通商航海条約継続交渉の失敗により,特にみるべきものがないまま,4ヵ月半で退陣した。その後翼賛政治会総裁を経て,44年7月,朝鮮総督となったが,まもなく終戦を迎えた。
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阿部信行
あべのぶゆき
1875.11.24~1953.9.7
大正・昭和期の陸軍軍人・政治家。石川県出身。陸軍大学校卒。陸軍省軍務局長などをへて1928年(昭和3)陸軍次官。宇垣一成陸相下で一時陸相臨時代理・軍事参議官をも務めるが,2・26事件後に予備役に編入された。39年平沼内閣のあとをうけて組閣,欧州大戦不介入を宣言し,日中戦争解決をめざしたが,短命に終わった。40年中国特派全権大使となり,汪兆銘(おうちょうめい)と日華基本条約を締結。42年翼賛政治会総裁。
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阿部信行 あべ-のぶゆき
1875-1953 明治-昭和時代前期の軍人,政治家。
明治8年11月24日生まれ。陸軍省軍務局長,陸軍次官などを歴任。昭和8年陸軍大将。14年首相兼外相となるが,第二次大戦勃発による国内外の混乱に対応できず,翌年総辞職。のち中国大使,翼賛政治会総裁,朝鮮総督をつとめた。昭和28年9月7日死去。77歳。石川県出身。陸軍大学校卒。
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阿部信行【あべのぶゆき】
軍人,政治家。金沢の生れ。陸大卒。陸軍大将。1929年浜口内閣のとき陸軍次官,一時は代理陸相を勤めた。1939年平沼内閣のあとを受けて組閣。のち中国特派全権大使,朝鮮総督などを歴任。→阿部信行内閣
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世界大百科事典(旧版)内の阿部信行の言及
【粛軍】より
…しかし,彼らが二・二六事件の指導者として決起すると,今度は逆に事件の責任の追及と内部統制再建のための措置が粛軍の具体的内容とされた。陸軍中央部は事件鎮圧とともに特設軍法会議を設け,反乱軍指導者をはじめ民間の北一輝らをも死刑を主とする厳罰に処したが,この間,36年3,4月には,事件当時の軍事参議官林銑十郎,真崎甚三郎,荒木貞夫,阿部信行の4大将をはじめ,現役の大将10名中7名を予備役に編入するなど,8月の定期異動をも含めて3000名をこえる空前の将校人事異動を行い,事件の責任を明らかにするとともに,[皇道派]勢力の一掃をはかった。また寺内寿一陸相は,4月8日の師団長会議で,軍人個々の政治行動は軍人の本分にもとるとし,軍の政治行動は陸軍大臣を通じてのみ行うべきものと訓示して軍内統制の方向を示し,政府も5月の第69議会で不穏文書取締法を成立させて,いわゆる怪文書取締りを強化して軍内秩序を側面から支援する姿勢を示した。…
【翼賛選挙】より
…1942年4月30日東条英機内閣によって実施された第21回衆議院議員総選挙の通称。東条内閣は総選挙にはじめて候補者推薦制度の導入を決定し,42年2月23日,軍部・大政翼賛会・財界・農業団体・貴衆両院・その他の代表33名を招き,元首相[阿部信行]陸軍大将を会長とする翼賛政治体制協議会(翼協)を結成させた。翼協は〈政事結社〉の届出をし,民間人による自発的運動という体裁をととのえるため,道府県単位の支部を結成し,地元の有力者742名を支部長と支部会員に任命するとともに,政府にかわって候補者の推薦と選挙運動を行った。…
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