泰山荘、その価値とは 【後編】
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・泰山荘、その価値とは ︻前編︼
東京での一畳敷所在地 出典‥ヘンリー・スミス﹃泰山荘―松浦武四郎 の一畳敷の世界﹄
三度目の移築によって、一畳敷は高風居ごと三鷹大沢の地へ移される。
文化活動や慈善事業に私財を投じてきた頼倫であったが、家計を顧みなかったために徳川家の経済状況が悪化、彼が亡くなった後には調度品が放出され、高風居と一畳敷もやむなく手放されることとなった。
そこに目を付けたのが新興財閥・日本産業株式会社︵日産︶の重役であった山田敬亮とその妻・のぶである。夫妻は本社設立に合わせて西日本から東京へ移ってきたのだが、妻のぶは東京の上流社会への足がかりとして茶室文化を利用しようとした。その披露の場として計画されたのが泰山荘である。茶道の世界では、由緒ある調度品や建物を取り入れる慣習がある。冒頭で紹介した泰山荘の母屋も、もともとは近辺の農家を移築したものだとされている。高風居と一畳敷も泰山荘を実現する際に徳川家から取得したものなのだ。
三鷹大沢に土地を購入したのが1934年で、泰山荘全体が完成したのが1939年だったのだが、折悪しくも日中戦争勃発と国家総動員法による統制、ドイツのポーランド侵攻による第二次世界大戦開戦によって、華々しいお茶会を開催できるような状況ではなくなっていってしまった。
そんな山田夫妻の手に余っていた泰山荘一帯に買収の話が持ち上がる。目を付けたのは中島飛行機の創設者、中島知久平である。中島飛行機は研究所のための土地を探していたのだが、近在の工場や調布飛行場に近いこの地は研究所設置に最適だったのだ。研究所設立のために泰山荘の敷地含め三鷹の広大な土地が取得されたが、泰山荘自体壊されることなく知久平の自宅として引き続き存続することとなった。
現在の泰山荘敷地内図 出典‥湯浅八郎記念館
泰山荘の価値とは一体何であるのかという問いに今一度立ち戻ってみると、筆者としてはつまるところ、歴史の多重性・多様性ではないかと考える。松浦武四郎をはじめ様々な人物の関わりや、一畳敷と各地の古社寺との結びつき、そして一畳敷や高風居がどのように継承され、歴史の舞台としてあり続けてきたのかこそが、我々をして泰山荘が価値あるものと認識せしめる根拠なのではないだろうか。
紙面の都合もあり、まだまだ語り尽せていない部分が残るが、読者の皆さんにとって泰山荘について少しでも思いを巡らすきっかけになれば幸いである。