国立国会図書館憲政資料室 日記の世界

日記に記した異国情報
――幕末・明治初期の渡航者

コラム

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文久2年8月2日(1862年8月26日)

穏やかな海へ出航  海外 詳しく



文久3年1月1日(1863年2月18日)

元旦にシャンパンで乾杯  海外 正月 詳しく

午前十時「シャンパン」酒を酌みて礼を為す。嗚蘭人[オランダ人]また臨席相祝す。和蘭水夫その外皆諸同行に向て新年を賀す。

文久3年2月9日(1863年3月27日)

ナポレオンを偲んで  海外 詳しく

烈翁[ナポレオン]謫居[たっきょ]の時、この所に住し今を去る○終無き人の数に入たる所なり。

文久3年4月16日(1863年6月2日)

オランダ到着  海外 詳しく

六時半スチュールボールドの方に当て、和蘭[オランダ]セーランドの内スコーウェンの地方を見る。■して水面を抜く事高からず。

横浜鎖港談判使節団でヨーロッパに向かった杉浦譲は、文久4年2月19日(1864年3月26日)にエジプト到着のことを書いています。この日訪れたモスクから遠くに見えたピラミッドを、2月28日(1864年4月4日)に見物し集合写真を撮りました。(コラム「古代をのぞく海外旅日記」を参照。)。

文久4年2月21日(1864年3月28日)

壮観、ピラミッド、スフィンクス像! 海外 詳しく



明治になってから欧米各国へ各分野の留学生が向かいましたが、官費留学は明治10年代後半頃からはドイツ中心になっていきました。また使節団の派遣も行われました。明治4(1871)年不平等条約撤廃に向けた調査などを目的とした、岩倉具視を全権大使とする欧米への使節団が出発します。副使であった伊藤博文は訪問したドイツで当時の皇帝ヴィルヘルム1世と宰相ビスマルクに謁見場で会っています。随行者には、幼い女子留学生、津田梅子や山川(大山)捨松もいました。

明治6(1873)年3月11日

ドイツ宮殿での皇帝一家への謁見  外交 海外 詳しく


使

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明治3年9月17日(1870年10月11日)

渡仏の洋上での想い  海外 詳しく

揚碇後、殆んど二十日になれども一島又は一舟を見ず。時に因て鷗[かもめ]の如きなる鳥の飛ぶあり。往昔「コロンヒス」(西班牙人[スペイン人]初て米利堅[アメリカ]を発見せし人)が米利堅を発見せしも、かくやあらんと思ひしられたり。

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明治11(1878)年8月23日

シベリアで写真を集める  海外 詳しく

十時半、予は当府の写真を買ふため、寺見生と同車して先発す。日耳曼人[ゲルマン人]の写真師某の家にて二枚を買入たり。

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明治18(1885)年3月16日

幼帝への国書捧呈の行方  外交 海外 詳しく

午後六時半、李相道台[どうだい]及び通弁を携帯し来る。食後使事を談ぜんと欲し、別室に誘引し余先づ彼に告曰く、聞く所に拠れば、閣下全権委任を受たりと、果し[て]しかれば、余実に欣躍に堪へず、しかるに全権大使の任、必ず先づその国都に入り皇帝に謁を請ひ、携帯する所の国書を捧呈せざるを得ざるの職務あるをもって、節をこの地に駐ずるを得ざるをもってす。李曰、我皇帝尚幼沖[ようちゅう]にあるをもって外国の使臣に接せずと。余又曰、皇帝幼沖にして引接に便ならざる、皇太后垂簾[すいれん]政務を執る、帝に代て謁を賜ふも可なり。李曰、我国風婦女子外人に接せず、閣下能[よ]くこれを知るべしと。

明治15(1882)年4月1日

布哇(ハワイ)王国での歓迎  外交 海外 詳しく


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