開国から明治の初めにかけては、海外への旅行は限られていました。電子展示会﹁国立国会図書館憲政資料室 日記の世界﹂で紹介する人物の中には、留学生、使節団随行、用務などで訪れた国々の様子を日記に綴っている人もいます。ここでは、抜書きを通じて、こうした日記の一部を紹介したいと思います。
文久2︵1862︶年沢太郎左衛門をはじめ、榎本武揚、内田恒次郎、赤松則良らはオランダ留学生として日本を離れます。同年7月4日︵1862年7月30日︶の沢の日記には、船出前から流行していた麻疹に乗組員が多数罹患し、下田に逗留を余儀なくされたこと、同年8月2日︵1862年8月26日︶には下田での逗留が終わって出発したことが書かれています。文久3年1月1日︵1863年2月18日︶、旧暦で祝った正月は船上でシャンパンによる乾杯だったと沢・榎本両人が書いています。2月9日︵1863年3月27日︶、内田はナポレオンについて書いています。それぞれが多様な関心を抱えつつ留学先に向かったようです。赤松も約11ヵ月の旅の後、4月にオランダに到着した折の印象を記しています。
文久2年8月2日(1862年8月26日)
快晴。風少く海面油を流せし如く、夕七ツ時御船当港出船、志州浦え向。夜中遠州灘え進む。この灘は兎角﹇とにかく﹈波立荒き所なれ共、風これ無きに付致て穏静。
文久3年1月1日(1863年2月18日)
午前十時「シャンパン」酒を酌みて礼を為す。嗚蘭人[オランダ人]また臨席相祝す。和蘭水夫その外皆諸同行に向て新年を賀す。
文久3年2月9日(1863年3月27日)
烈翁[ナポレオン]謫居[たっきょ]の時、この所に住し今を去る○終無き人の数に入たる所なり。
文久3年4月16日(1863年6月2日)
六時半スチュールボールドの方に当て、和蘭[オランダ]セーランドの内スコーウェンの地方を見る。■して水面を抜く事高からず。
横浜鎖港談判使節団でヨーロッパに向かった杉浦譲は、文久4年2月19日(1864年3月26日)にエジプト到着のことを書いています。この日訪れたモスクから遠くに見えたピラミッドを、2月28日(1864年4月4日)に見物し集合写真を撮りました。(コラム「古代をのぞく海外旅日記」を参照。)。
文久4年2月21日(1864年3月28日)
それより一巨寺に遊ぶ。市外阜上にあり、凍石を彫刻して柱梁とす。高さ凡十余丈もあるべく、上は金碧五彩熀燿目を眩し、下は凍石を舗き列﹇つら﹈ね、回廊水盤華■にして観るべし。是礼拝堂にて門口砲卒警衛せり。寺外より望めは市府一目了然にて、有名の巨塚人首の壮観も遥﹇はるか﹈に見えり。
明治になってから欧米各国へ各分野の留学生が向かいましたが、官費留学は明治10年代後半頃からはドイツ中心になっていきました。また使節団の派遣も行われました。明治4(1871)年不平等条約撤廃に向けた調査などを目的とした、岩倉具視を全権大使とする欧米への使節団が出発します。副使であった伊藤博文は訪問したドイツで当時の皇帝ヴィルヘルム1世と宰相ビスマルクに謁見場で会っています。随行者には、幼い女子留学生、津田梅子や山川(大山)捨松もいました。
明治6(1873)年3月11日
ドイツ宮殿での皇帝一家への謁見
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謁見の席において帝並にビスマルク両人、次室に軍官宮内の官員等排列す。双方演説終り、また皇后に謁す。宮女四五名侍席す。午後、各省長官各国大使等へ名刺を投す。夜戯場に遊す。
また軍人の大山巌は、明治3︵1870︶年普仏戦争観戦視察のため渡欧し、2回目の渡欧では、明治4︵1871︶年からフランス・スイスに留学しています。明治3年9月17日︵1870年10月11日︶、はじめてヨーロッパに向かう船上で、見渡す限りの海を見ながらコロンブスを懐古します。留学中の明治5年9月18日︵1872年10月20日︶には、のちのロシア人革命家・メーチニコフの訪問を受け親交が始まります。留学によって人脈も広がりました。
明治3年9月17日(1870年10月11日)
揚碇後、殆んど二十日になれども一島又は一舟を見ず。時に因て鷗[かもめ]の如きなる鳥の飛ぶあり。往昔「コロンヒス」(西班牙人[スペイン人]初て米利堅[アメリカ]を発見せし人)が米利堅を発見せしも、かくやあらんと思ひしられたり。
明治10年代には、榎本武揚がロシアから帰国する際にシベリアを横断した記録を遺しました。﹁シベリヤ日記﹂と呼ばれる日記は、単なる個人の日記でなく、シベリア地方の多くの情報が記載された貴重なものです。
明治11(1878)年8月23日
十時半、予は当府の写真を買ふため、寺見生と同車して先発す。日耳曼人[ゲルマン人]の写真師某の家にて二枚を買入たり。
これまでは欧米の話でしたが、最後にアジア、太平洋地域に用務に出かけた人の日記を紹介しましょう。明治18︵1885︶年2月に伊藤博文は天津条約調印のため清国に派遣されています。﹁西巡日記﹂と呼ばれる記録には、3月16日に清国宰相・李鴻章と会って光緒帝への謁見を求めたことなどが記されています。また明治天皇の特使としてハワイ王国を訪れた長崎省吾が﹁布哇国滞在中日記﹂と題する任務遂行の記録を記しています。
明治18(1885)年3月16日
午後六時半、李相道台[どうだい]及び通弁を携帯し来る。食後使事を談ぜんと欲し、別室に誘引し余先づ彼に告曰く、聞く所に拠れば、閣下全権委任を受たりと、果し[て]しかれば、余実に欣躍に堪へず、しかるに全権大使の任、必ず先づその国都に入り皇帝に謁を請ひ、携帯する所の国書を捧呈せざるを得ざるの職務あるをもって、節をこの地に駐ずるを得ざるをもってす。李曰、我皇帝尚幼沖[ようちゅう]にあるをもって外国の使臣に接せずと。余又曰、皇帝幼沖にして引接に便ならざる、皇太后垂簾[すいれん]政務を執る、帝に代て謁を賜ふも可なり。李曰、我国風婦女子外人に接せず、閣下能[よ]くこれを知るべしと。
明治15(1882)年4月1日
食畢﹇おわっ﹈て庭前へ皇帝陛下、本使初めを御誘引にて、大樹の蔭に到らる。…婦人三人男子一人、皆白衣、紅の短袴を着して立て踊る。婦人三人は互に手を連結して回り舞、男子は三婦にかかわらず左右の手を翻して踊る。右畢﹇おわっ﹈て音楽数回これあり。この見物中酒及煙草等時々下され、頗﹇すこぶ﹈る鄭重なる御饗応にて、午後五時帰館。