私は東芝ノ再建問題ヲ次ノ四段階ニ考ヘテ着手シタ。
第一段階 人員整理
第二段階 本社機構の改革及幹部の更迭
第三段階 経理面整理(資金計画)
第四段階 I.G.E.トノ交渉及調整
以上ノ計画ニ基イテ第一段階ノ人員整理ニ着手シタノハ七月ノ初メカラデアッタガ、コノ一番難事業トシテ世間ノ注視ノ的トナッタ整理モ存外順潮ニ運ビ、少クトモ三ヶ月位ハ相当混乱ヲ予想シテ置ッタガ一ヶ月デ略見通シガツク程度ニ進捗シタ。
昭和24年9月4日条 「重要S、24東芝争議」【石坂泰三関係文書135】
私は東芝ノ再建問題ヲ次ノ四段階ニ考ヘテ着手シタ。
第一段階 人員整理
第二段階 本社機構の改革及幹部の更迭
第三段階 経理面整理(資金計画)
第四段階 I.G.E.トノ交渉及調整
以上ノ計画ニ基イテ第一段階ノ人員整理ニ着手シタノハ七月ノ初メカラデアッタガ、コノ一番難事業トシテ世間ノ注視ノ的トナッタ整理モ存外順潮ニ運ビ、少クトモ三ヶ月位ハ相当混乱ヲ予想シテ置ッタガ一ヶ月デ略見通シガツク程度ニ進捗シタ。
昭和24年9月4日条 「重要S、24東芝争議」【石坂泰三関係文書135】
ここで人員整理を「一番難事業」としているように、石坂が取締役として東芝に入った昭和23(1948)年は、ストライキ等の労働争議が続発し、一部では暴力事件が発生するなど、労使間の対立が激しさを増していました。その頃の様子を石坂は昭和24(1949)年1月の日記のなかで次のように記しています。
石坂は、過激な組合交渉から逃れるために役員会が様々な会場を転々としている有り様を「少し馬鹿げている」と評し、組合に向き合わないそうした経営陣の態度こそ、第一に改めるべきものだと考えました。
「先第一に改善せらるべきは経営陣の改善である」との言葉どおり、石坂は社長への就任が決まると、労働組合側と正面から向き合う態度を示します。当時の労働組合委員長石川忠延が後に語った逸話によれば、石坂は社長就任が決まった後、突然に労働組合事務所へ「この会社の再建が私の仕事です。ざっくばらんに話し合いましょう。」と挨拶をしに来たそうです。
社長就任後の6月には「全東芝従業員諸君に告ぐ」と題した文書で東芝の窮状を詳細に説明して従業員の協力を求め、7月から経営合理化に関する労働組合連合会との交渉を開始します。こうした石坂の確固たる意思のもと、「一番難事業」とされた人員整理も、8月までにほとんど完了するに至りました。
石坂は社長就任時に日記に意気込みを記していました。
入社の意義を自覚し、「最後の努め」との覚悟を持った石坂のもと、残る再建課題であった組織改編、経理の正常化、GE社との関係回復を実現させ、石坂の言葉どおり「東芝の歴史に於て特筆すべき頁」を後世に残すこととなりました。