アントワーヌ・ラヴォアジエ
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アントワーヌ・ラヴォアジエ | |
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生誕 |
Antoine-Laurent de Lavoisier 1743年8月26日 ![]() |
死没 |
1794年5月8日(50歳没)![]() |
居住 |
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市民権 |
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国籍 |
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研究分野 | 化学・哲学・経済学 |
出身校 | パリ大学 |
主な業績 |
酸素・水素・窒素の命名 質量保存の法則 カロリック説を体系づけて提唱 |
影響を 受けた人物 |
ニコラ・ルイ・ド・ラカーユ ベルナール・ド・ジュシュー ジャン=エティエンヌ・ゲタール ギヨーム=フランソワ・ルエル ピエール・マケール エティエンヌ・ボノ・ドゥ・コンディヤック |
署名 | |
プロジェクト:人物伝 |
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アントワーヌ=ローラン・ド・ラヴォアジエ︵フランス語: Antoine-Laurent de Lavoisier[1]、1743年8月26日 - 1794年5月8日︶はフランス王国のパリ出身の化学者である。質量保存の法則の発見、酸素の命名、フロギストン説の打破などの功績から﹁近代化学の父﹂と称される[2][3][4][5][6][7]。出自は貴族であり、当時のフランス革命の動乱に翻弄され落命した。
業績
質量保存の法則
1774年に物質の体積と重量を精密に測る定量実験を行い、化学反応の前後では、反応系の物質全体の質量が変化しないことを発見した︵質量保存の法則︶[4][8][9]。燃焼の理解 (フロギストン説の打破)
当時は、医師で化学者のゲオルク・シュタール︵ドイツ︶の提唱したフロギストン説が支持されていた。すなわち、燃焼は一種の分解現象であり可燃物からフロギストンが飛び出す現象であるとされていた。1774年にラヴォアジエは実験によってこの説を退け、燃焼を﹁酸素との結合﹂であることを見出し、1779年には酸素を﹁オキシジェーヌ (フランス語: oxygène)﹂と命名した[10][11]。 以上の功績からラヴォアジエはしばしば﹁酸素の発見者﹂とも言及されるが、酸素︵と後に命名・認知される物質︶自体の発見はイギリスの医師のジョン・メーヨーにまで遡る。ラヴォアジエより以前に、メーヨーは血液中にある﹁酸素﹂の存在を提唱していたが、当時は受け入れられていなかった。その後の1775年3月に、イギリスの自然哲学者、教育者、神学者であるジョゼフ・プリーストリーが単体の﹁酸素﹂の分離・発見に成功した。単体の発見者という意味で、﹁酸素﹂の発見はプリーストリーに優先権がある[12]。1775年にプリーストリーはこの発見を論文として王立協会に提出もしており、今日の化学史の視点からも、酸素の発見者はプリーストリーとされる[13]。なお、当時進行中だった科学革命のなかで、プリーストリーのほかに、スウェーデンの化学者、薬学者であるカール・ヴィルヘルム・シェーレもプリーストリーとは独立に酸素を発見している[14]。 このように﹁酸素の発見者﹂の特定は困難だが、燃焼における酸素の役割を解明してフロギストン説を打破したラヴォアジエが、酸素の命名者の栄誉を得た。アメリカの科学史家の トーマス・クーンは、著書﹃科学革命の構造﹄においてパラダイムシフトの観点からラヴォアジエの功績を評価した[13]。その他
「カロリック説」を参照
現代化学からみて誤りではあったが、物体の温度変化を﹁カロリック﹂によって引き起こされるものと提唱した。ラヴォアジエはこれを体系づけたカロリック説を構築した。
生涯
出生から学生時代
1743年8月26日、フランス王国パリに裕福な弁護士である父の下に生まれるが、ラヴォアジエが5歳の頃に母を失い、莫大な遺産を引きついだ。そして叔母の下で育てられた[15]。 1754年より1761年までマザラン学校で化学、植物学、天文学、数学を学ぶ。その後は父の職を継ぐべく法律家を目指した。 1761年からはパリ大学法学部に進学して1763年に学士号を修得。翌年1764年には弁護士試験に合格して高等法院法学士となるがパリ大学在学中に同国出身の天文学者であるニコラ・ルイ・ド・ラカーユ、博物学者のベルナール・ド・ジュシューからは植物学を学び、以前からラヴォアジエ家と親交があった博物学者、鉱物学者のジャン=エティエンヌ・ゲタールからは地質学と鉱物学を、化学者のギヨーム=フランソワ・ルエルからは化学を学んで自然科学に興味を持つようになる[3][15]。また、法学部に在籍しているにもかかわらず化学の講義を聴講したり[4]、喜望峰に滞在して天文学の研究をしたり[6]、ゲタールと共にフランスの地質図作成に協力した[3]。 その後もゲタールとアルザス=ロレーヌなどを旅行して各地を回った際、各地方の石膏に関心を示して比較研究をしたことがラヴォアジエの最初の研究であった[3]。この石膏に関する研究は後にラヴォアジエの特記すべき定量実験の兆しであり、推測ではない確実な実験が重視されている[10]。フランス科学アカデミー入会から結婚まで
1766年にフランス科学アカデミーが﹃都市の街路に最良な夜間照明法﹄というテーマで論文を懸賞募集し、ラヴォアジエは最初に著した論文にもかかわらず1766年4月9日に1等賞を得て[6]、時のフランス国王であったルイ15世より金メダルが授与された。その後、ゲタールと地質図作成の旅行で集めた飲料水の分析した結果を発表して[16]1768年5月18日にフランス科学アカデミーの会員となった。この頃よりイギリスの化学者で物理学者のヘンリー・キャヴェンディッシュが水素を発見したが、ラヴォアジエは水や燃焼に興味を示して、当時支配的であった四大元素説で﹁水は土に変わることがある﹂という説があったが、同年末から翌1769年にかけて、水をガラス容器に入れて101日間も密閉状態で沸騰させた後に正確に重さを測る実験︵﹁ペリカン[17]の実験﹂︶を行い、﹁水は土に変化しうる﹂という説は正しくないことを示した。 1768年にフランス科学アカデミーから﹃空から巨大な石が落下して農夫が働いていた近くの地面にめり込んだ﹄という報告書の検討を依頼された際、ラヴォアジエは、空から巨大な石が落下することは絶対にないと思い目撃者の勘違いか嘘と返事した[18]。 ラヴォアジエは裕福で資産を十分に持っており、実験器具を買うお金があったにもかかわらず、実験器具を買う費用を資産からは出さず、自分の資産を有利に運用しようと、1768年頃より徴税請負人の仕事︵市民から税金を取り立て経済的に苦しめ国王に引き渡すかわりに自分は高収入を得る仕事で、しばしば市民を過剰に苦しめたので、当時の市民から憎まれていた職業︶に就いた。また、ラヴォアジエにとって実験とは"道楽"であると物理学者の小山慶太は述べており[19]、週に1日は実験に耽り、ラヴォアジエはその1日を"幸福の1日"と呼んでいた[20]。 1771年12月6日、徴税請負人長官のジャック・ポールズ︵Jacques Paulze︶の娘であるマリー=アンヌ・ピエレット・ポールズと、パリにあるサンロック教会で結婚する。二人の間に子供はできなかったものの、妻マリー=アンヌは夫ラヴォアジエの役に立とうと英語・ラテン語・イタリア語を学び、化学や絵画の描き方などを習得。そしてアイルランドの科学者であるリチャード・カーワンやプリーストリーの論文や手紙をラヴォアジエのためにフランス語に翻訳し、実験の際には非常に細かい点までスケッチし、記録に残した[21]。様々な実験から﹃化学命名法﹄出版まで
1772年頃には貴族の地位を金で得た。1775年頃は火薬硝石公社の火薬管理監督官となり、翌1776年には兵器廠︵砲兵工廠︶に移り住み、そこに実験室をつくり、実験の大部分をそこで行うことになった。また、マリー=アンヌも自身のサロンを構え、客人を招いていた[16]。余談だが、この実験室は他の化学者達が集う場所として有名になった[7]。同実験室で大砲用の火薬を改良し、硝石の生産量を大幅に増やして火薬の製造力を増大させた[5][22]。そして、火薬に炭酸カリウムを入れると火力が上がることを発見して農家に報酬金を支払うことで硝石を作らせた。このようにラヴォアジエは農業にも関心を示し、後に王立農業学会、フランス政府の農業委員会に加わることとなった[5]。 1774年1月に上記の﹁ペリカンの実験﹂より化学反応の前後では質量が変化しないことを見出し、質量は変化しないとする法則︵﹁質量保存の法則﹂︶を発見。 当時は燃焼を説明する理論としては、シュタールのフロギストン説が最も知られ、主流︵正統︶であった。同説は、燃焼とは一種の分解現象だと説明し、燃焼物中に含まれていたフロギストンが出てきて熱や炎となる、とされた。ただし、一般に燃焼によって重量が軽くなるのに対し、金属を加熱して金属灰にすると重量が増すことが明らかになっていて、その矛盾が課題になっていた。ラヴォアジエは1772年に、まずリンを燃焼させる実験を行ってその重量が増加することを確認し、それに続いて硫黄についても燃焼実験を行い同様に重量が増すことを確認したが、この燃焼実験のときに、空気が吸収されたことから、燃焼のときに重量が増加する原因は、空気が燃焼物に吸収されることによるのだと考え、1773年初頭に、燃焼と重量増加の問題を徹底的に調査しようと決意した。この段階で、ラヴォアジエはフロギストンの存在を否定したりはせず、﹁燃焼時にはフロギストンと空気が入れ替わる﹂とした[23]。またラヴォアジエは、吸収される空気は、ブラックが1755年ころ発見した﹁固定空気﹂︵現在で言うところの﹁二酸化炭素﹂︶ではないかと推定していた[23]。 なお、ラヴォアジエは1773年2月20日付けの実験ノートに﹁化学に於ける革命になる﹂と書いた[10]。 1774年4月にはレトルトに錫を入れて加熱し、燃焼によりできた錫灰の重さを比較する﹁レトルトの実験﹂を行い、アイルランドの貴族で化学者のロバート・ボイルが提唱した﹁火の粒子︵フロギストン︶﹂は存在しない、と判断。同年の11月12日にフランス科学アカデミーでそれを発表した。なお、同年の10月にプリーストリーがフランスを訪れ、彼から、水銀灰を加熱すると何らかの気体が出てくる、その気体は燃焼を助ける、という話を聴いた[24]。 翌1775年に、ラヴォアジエは酸化水銀を強熱してある種の気体を得る実験を繰り返し[25]、その気体と﹁固定空気﹂︵=二酸化炭素︶とは別のものだと断定した[23]彼はこの気体と結合することで酸が生じる、と考えたので、この気体を﹁oxygène オクシジェーヌ﹂︵酸の素となるもの、と言う意味︶と命名した。 燃焼とは、この気体と物質が結合することだと気づいた。だが実は、スウェーデンの化学者で薬学者のカール・ヴィルヘルム・シェーレが1773年頃にその物質をすでに発見しており﹁傷んだ空気﹂と呼んでいて、未発表であったにすぎなかった。 1777年に燃焼は﹁物質と気体が結合すること﹂と説明し、1779年にその気体を﹁oxygène︵酸素︶﹂と名付けた︵実際は水素イオンであった[3]︶。 1781年にキャヴェンディッシュが、別の ある気体と酸素を混ぜて水をつくり出した実験に関心を示したラヴォアジエは1783年にキャヴェンディッシュが行った実験を定量実験を用いて追試し、水は元素でないこと、物質が組み合わさってできているものであることを証明し、その別の気体を、水を作り出す素であるという理屈で﹁hydrogène イドロジェーヌ﹂︵﹁水の素﹂という意味︶と名付けた。最初はフロギストン説に肯定的であったラヴォアジエも1783年を機にしてフロギストンに関する論文を著し、フロギストン説を公然と完全否定するようになった[10]。1782年から翌年の1783年にかけて同国出身の自然科学者、数学者、物理学者、天文学者であるピエール=シモン・ラプラスと共に氷熱量計を作り、1777年には、動物の呼吸というのは、一種の燃焼であることを実験によって裏付けた[3][10]。︵つまり酸素と結合することであると示した︶。 1787年、ラヴォアジエは同国出身の化学者で医師のクロード・ルイ・ベルトレーやルイ=ベルナール・ギトン・ド・モルボー、アントワーヌ・ド・フルクロワらとともに、新しい化学用語が書かれた﹃化学命名法﹄を著した。これは元素に新たな定義を与え、物質の命名法を定め、また、水の成分が酸素と水素である、と記したものであった。ただし、これについては実はラヴォアジエに先立ってキャヴェンディッシュが既に発見していて、最初の発見者は彼なのだが、かなりの変わり者で人間嫌いだったキャヴェンディッシュはラヴォアジエの発表に何の関心も優先権も主張しなかったため、ラヴォアジエに優先権が発生することとなった。 同年の1787年からは彼が所有地を持つオルレアンの地方議会で第三身分の代議員になっていた。フランスでは当時、専制的な王が無駄遣いや贅沢の限りをつくし、国民を苦しめており、1787年には貴族らも王権に反発し、反抗を始めていた。フランス革命勃発、﹃化学原論﹄出版から処刑まで
1789年、ラヴォアジエは﹃化学原論︵邦訳名‥化学のはじめ︶﹄を出版し、そこで現在の元素に相当する、33の単一物質のリスト[26] を示した。これにより、化学の革命を成し遂げた、ともいえる。︵ただし、そのリストにはカロリック︵熱素︶も含まれている[26]︶。13個の図版はマリー=アンヌが手がけ、第一部には気体の生成分解、第二部は塩基や酸、塩に関する記述、第三部には化学の実験器具とその操作について書かれ、質量保存の法則についての明確な記述が書かれてある[27]。因みに﹃化学原論﹄は出版からその後の10年間、ヨーロッパ全土で標準的な教科書とされた[3]。なお同年、ラヴォアジエは新たに窒素をギリシア語で﹁生命がない﹂と言う意の表現﹁アゾティコス﹂︵azotikos︶に因んで﹁アゾート﹂︵azote︶と名付けた[28]。 同年1789年7月14日にはバスティーユ襲撃が勃発しフランス革命が進行。当時ラヴォアジエはパリで貴族階級の補足代議員を務めていた。 1790年には各温度を測り、体積の蒸留水の質量を測定して新しい質量の単位を決議するため新度量衡法設立委員会の委員を務めた。この頃にはラヴォアジエの実験の対象は気体の化学から、呼吸と燃焼の関係性を調べる生理学的なものに移っていった[29] 1791年に徴税請負制度は廃止されたが、フランス国王ルイ16世に財政面の手腕を見込まれて国家財政委員に任命された。ラヴォアジエはフランスの金融および徴税制度を改革しようとした。 フランス革命がひたひたと進行する中、1792年ラヴォアジエは政府関係の職を全て辞任し、兵器廠にあった住居︵実験室でもある住居︶からも引っ越し、科学アカデミーの活動に専念する。しかし、革命によりフランス科学アカデミーも閉鎖となり、ラヴォアジエの呼吸と燃焼に関する生理学的な実験は途中で終わった。 1793年11月24日には革命政府は︵それまで専制的な王の手先・共犯者となり市民を苦しめていた者である︶徴税請負人を全員逮捕すべく指名手配した。彼ら徴税請負人は、市民から正規の税に加え、しばしば不当で高額な手数料をさらにとり、市民を苦しめていたためである。ラヴォアジエは自首したが、徴税請負人の娘と結婚していたことなども理由に投獄された。しかし、ラヴォアジエはそこまで酷い徴税はせず、むしろ税の負担を減らそうと努力していた[3]。 1794年5月8日、革命裁判所における審判で﹁フランス人民に対する陰謀﹂との罪[22][30]で死刑の判決が下った。ラヴォアジエの弁護人はラヴォアジエの科学上の実績を持ち出して弁論を行ったが﹁共和国に科学者は不要である[31]﹂と裁判長のジャン=バティスト・コフィナルに指摘され、その日のうちにコンコルド広場にあるギロチンで処刑された。なお、ラヴォアジエが投獄、処刑された理由については、革命指導者の一人で化学者でもあったジャン=ポール・マラーが、かつて学会に提出した論文が審査を担当したラヴォアジエによって却下されたこと︵定量実験をモットーとするラヴォアジエによれば﹁実験もせず憶測の内容であったため﹂却下︶への逆恨みによるものである、とも伝えられている[32]。 同国出身の天文学者であるジョゼフ=ルイ・ラグランジュは、ラヴォアジエの死に接して﹁彼の頭を切り落とすのは一瞬だが、彼と同じ頭脳を持つものが現れるには100年かかるだろう﹂[33] とラヴォアジエの才能を惜しんだ[34]。 2013年現在ではパリの市役所には、ラヴォアジエの功績を讃えて像が飾られている。ギロチンの都市伝説
ラヴォアジエがギロチンにかけられる際、処刑後の人に意識があるのかを実験するため、周囲の人間に﹁斬首後、可能な限り瞬きを続ける﹂と宣言して実際に瞬きを行なったという話がある[35]。しかしながらラヴォアジエの処刑は35分間で26人を処刑する流れ作業の途中で行われ、その場にはラグランジュら数名の科学者が立ち合ってはいたものの、警察官の列によってギロチンから隔離されており、そのような実験をする時間も猶予もなかった。また、実験を依頼されたのはしばしばラグランジュとされているにもかかわらず、ラグランジュの著書にそのような記述は全くない。よってこれらの話は事実ではなく、ボーリュー医師の1905年の論文などをもとに1990年代以降創られた都市伝説であると考えられている。1998年にディスカバリーチャンネルで放送された番組﹃ギロチン﹄の中で、神経外科医の解説とともに出所不明のまま取り上げられてしまったことで[36]、この都市伝説が広まってしまったと歴史家のジェンセンは指摘している[37]。 また、かつてサーモフィッシャーサイエンティフィック社がラヴォアジエのデスマスクを所有していると主張した時期があるが、こちらも贋作であると考えられる[37]。ラヴォアジエの元素表
ラヴォアジエは著書﹃化学原論﹄で、次の33項目を﹁単一物質﹂[38]として挙げている。この33の単一物質を以下に表で示す。33項目のうち25個は現代の化学においても元素として扱われている。残る8つのうち、ホウ酸基、ライム、マグネシア、バリタ、アルミナ、シリカの6つは、それぞれ個別の単体元素の酸化物である︵順に、ホウ素、カルシウム、マグネシウム、バリウム、アルミニウム、ケイ素の各元素の酸化物︶。分類 | 個数 | 元素(現代化学において元素とされるものは太字で示した) |
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自然界に広くあるもの | 5 | 光[39]、カロリック(熱素)[40]、酸素、窒素、 水素 |
非金属 | 6 | 硫黄、リン、炭素、塩酸基(塩素)、フッ酸基(フッ素)、ホウ酸基 |
金属 | 17 | アンチモン、銀、ヒ素、ビスマス、コバルト、銅、スズ、鉄、モリブデン、ニッケル、金、白金、鉛、タングステン、亜鉛、マンガン、水銀 |
土 | 5 | ライム(酸化カルシウム)、マグネシア、バリタ(酸化バリウム)、アルミナ、シリカ |
脚注
(一)^ 日本語に訳されるにあたっては他に、ラボアジェ、ラヴワジエ、ラボアジエ等とも表記される。発音記号で表記すると [ɑ̃twan lɔʁɑ̃ də lavwazje]となる。
(二)^ ドイツの思想家フリードリヒ・エンゲルスはその著書﹃自然の弁証法﹄で、﹁﹁近代化学の父﹂と呼ぶ人物にはジョン・ドルトンが相応しい﹂としている。
(三)^ abcdefgh世界大百科事典 1972, p. 246.
(四)^ abcラボアジエとは - コトバンク、2013年3月27日閲覧。
(五)^ abcロイド 2012, p. 411.
(六)^ abcグランド現代百科事典 1983, p. 352.
(七)^ ab世界文化大百科事典 1971, p. 8.
(八)^ 大宮 2005, p. 42.
(九)^ 臺、鈴木 2008, p. 184.
(十)^ abcde万有百科大事典 1974, p. 642.
(11)^ ただし、この命名の背景には、酸と酸素の混同があったとされる。
(12)^ Kuhn 1996, pp. 53–60; Schofield 2004, pp. 112–13
(13)^ ab桜井 2009, p. 65.
(14)^ ただし、論文等の著書・著作での発表はプリーストリーよりも後である。
(15)^ ab万有百科大事典 1974, p. 641.
(16)^ ab廣田 2013, p. 33.
(17)^ ここでのペリカンは鳥のペリカンではなく形が鳥のペリカンに似ていることからペリカンと名付けられた蒸留器を指す。
(18)^ コリン・ウィルソン (1989年6月30日). 世界不思議百科. 青土社. p. 15ページ
(19)^ 小山 2013, p. 66.
(20)^ 小山 2013, p. 67.
(21)^ 川島, 慶子 (2006), “ラヴワジエ夫人‥化学革命の女神か?” (PDF), サイエンスネット (数研出版) (26): 6-9 2011年2月4日閲覧。
(22)^ ab参考文献欄﹃ラルース 図説 世界史人物百科﹄Ⅱ 460ページ
(23)^ abc廣田 2013, p. 29.
(24)^ 廣田 2013, p. 28.
(25)^ 注 - 水銀を12日間加熱した
(26)^ abTraité élémentaire de chimie, p.192。[1] [2]
(27)^ 万有百科大事典 1974, p. 643.
(28)^ 桜井 2009, p. 57.
(29)^ 大日本百科事典 1971, p. 424.
(30)^ あるいは﹁水と有害物質をタバコに混入した﹂との架空の罪。
(31)^ La République n'a pas besoin de savants ni de chimistes.
(32)^ 但し、マラーは投獄に関与があった可能性までは排除できないが、1793年7月13日に殺害されており、処刑に関与があったとは考えにくい。
(33)^ Il ne leur a fallu qu'un moment pour faire tomber cette tête et cent années, peut-être, ne suffiront pas pour en reproduire une semblable.
(34)^ No. 728:DEATH OF LAVOISIER、2013年4月14日閲覧。
(35)^ 斬首 ― 切断された人間の頭部は意識を有するか - X51.ORG、2013年4月14日閲覧。
(36)^ Adams, C. "Triumph of the Straight Dope," Ballantine Books: New York, NY 1999. なお番組で解説した神経外科医のRobert Finkは後の取材に対し、この話は知り合いから聞かされた話であり、話の出所までは確認していなかったと答えている。
(37)^ abJensen, W. B. "Did Lavoisier Blink?" J. Chem. Educ. 2004, 81 (5) , 629.
(38)^ あえて訳せば、元素や単体と解せる。
(39)^ 光は現代化学の元素でこそないが、標準模型においては基本粒子︵光子︶である。ただしもちろん、ラヴォアジエの時代には素粒子物理学はおろか量子力学もまだない。
(40)^ 燃焼反応の理解を大きく前進させたラヴォアジエであるが、﹁熱の正体﹂は﹁物質﹂的なものであるとの古来の四元素以来の観念は脱却できなかった。この点で人類は、19世紀の熱力学の発展まで待たねばならなかった。
参考文献
●フランソワ・トレモリエール、カトリーヌ・リシ編者、樺山紘一日本語版監修﹃ラルース 図説 世界史人物百科﹄Ⅱ ルネサンスー啓蒙時代 原書房 2004年 ISBN 4-562-03729-6 ●植村琢、崎川範行、桜田一郎、水島三一郎 著、相賀徹夫 編﹃万有百科大事典15化学﹄︵初版︶小学館︿日本大百科全書﹀︵原著1974年10月20日︶。 ●林達夫 編﹃世界大百科事典31ユシ-リョ﹄︵1972年版︶平凡社︿世界大百科事典﹀︵原著1972-4︶。 ●大沼正則 著、林達夫 編﹃大日本百科事典18よ-ん﹄︵1971年版︶小学館︿日本大百科全書﹀︵原著1971-9-15︶。 ●鈴木泰二 編﹃グランド現代百科事典29ヤシチ-リツフ﹄学習研究社︵原著1983-6-1︶。 ●鈴木勤 編﹃世界文化大百科事典11ラファ-ワンリ 索引﹄世界文化社︵原著1971年︶。 ●小山慶太 著、小林敬和 編﹃科学史人物事典 150のエピソードが語る天才たち﹄︵初版︶中央公論新社︵原著2013-2-25︶。ISBN 978-4121022042。 ●桜井弘﹃元素111の新知識 第2版﹄︵第2版︶講談社︵原著2009-1-20︶。ISBN 978-4062576277。 ●大宮信光 著、阿部林一郎 編﹃世界を変えた科学の大理論100﹄︵第2版︶日本文芸社︵原著1998年12月︶。ISBN 978-4537115109。 ●廣田襄 著、檜山爲次郎 編﹃現代化学史 原子・分子の科学の発展﹄︵初版︶京都大学学術出版会︵原著2013-10-5︶。ISBN 978-4876982837。 ●マイケル・モーズリー、ジョン・リンチ 著、久芳清彦 訳、川畑慈範 編﹃科学は歴史をどう変えてきたか その力、証拠、情熱﹄︵初版第1刷︶︵原著2011年8月22日︶。ISBN 978-4487805259。 ●臺靖、鈴木敏平 著、全国歴史教育研究協議会 編﹃世界史B用語集 改訂版﹄︵改訂版︶山川出版社︵原著2008-1-31︶。ISBN 978-4634033023。 ●井本稔、大沼正則、道家達将、中川直哉 著、竹之内静雄 編﹃化学のすすめ﹄︵初版︶筑摩書房︵原著1971年11月30日︶。 ●クリストファー・ロイド、ほか著 著、野中香方子 訳、文藝春秋 編﹃137億年の物語 宇宙が始まってから今日までの全歴史﹄︵第2版︶︵原著2012年9月10日︶。ISBN 978-4163742007。 ●藤村淳、肱岡義人、江上生子、兵藤友博、ほか著 著、東京教学社 編﹃科学 その歩み﹄︵第22刷︶︵原著2010年4月1日︶。 ●“ラボアジエとは”. コトバンク. 2013年3月27日閲覧。 ●ラボアジエ 著、田中豊助、原田紀子 訳﹃化学のはじめ︵古典化学シリーズ4︶﹄︵増補改訂版︶内田老鶴圃。ISBN 4-7536-3104-4。 ●ラボアジエ 著、田中豊助、原田紀子、牧野文子 訳﹃化学命名法︵古典化学シリーズ6︶﹄内田老鶴圃。ISBN 978-4-7536-3106-3。関連項目
●ジョン・ドルトン - イギリスの化学者。ラヴォアジエ亡き後に古代ギリシアの哲学者レウキッポスが提唱した原子論を展開した。
●アメデオ・アヴォガドロ - イタリアの化学者。分子論を提唱。
●元素
●エッフェル塔に名前を刻まれた72人のフランスの科学者の一覧
●アメリカ合衆国の独立 - ラヴォアジエは外交家としてアメリカ独立戦争の際にアメリカの味方をした。
●ラヴォアジエ (クレーター) - ラヴォアジエの業績を讃えて名付けられた月のクレーター。
●ラヴォアジエ・メダル