「パクダ・カッチャーヤナ」の版間の差分
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'''パクダ・カッチャーヤナ'''([[パーリ語]]:Pakudha Kaccayana、漢:迦羅鳩馱迦旃延、生没年不詳)または'''カクダ・カートゥヤーヤナ'''は、[[釈迦]]の在世中に活躍した自由思想家で[[出家]]修行者。[[六師外道]]のひとりで、[[唯物論]]的・[[原子論]]的な七要素説を唱えた。釈迦による批判<ref>『長阿含経』巻第17「沙門果経」に収載されている。</ref>がある。 |
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== 思想 == |
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[[ローカーヤタ]] ''Lokayata''︵順世派︶<ref>後世[[チャールヴァーカ]]''Carvaka''と呼ばれた、唯物論および[[快楽主義|快楽至上主義]]の説を奉ずる学派。</ref>の祖となった自由思想家[[アジタ・ケーサカンバリン]]︵Ajita Kesakambalin、阿耆多翅舎欽婆羅︶は唯物論者として知られ、万物は[[地]]・[[水]]・[[火]]・[[風]]の4元素から成るとする四元素還元説を唱えたが、パクダ・カッチャーヤナはこれら物質的元素に[[苦]]・[[楽]]・[[命]]を加えた七要素説を唱えた。﹁苦﹂と﹁楽﹂は感覚、﹁命﹂は生命のはたらきであり、7つの要素<ref>カッチャーヤナは、それぞれの要素をカーヤ︵''kaya''、﹁肉体﹂︶と呼んでいる。</ref>それぞれは互いに他に対して何の影響もあたえず、また受けないのであり、その点で絶対的で永続的なものであると説いた。
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[[ローカーヤタ]] ''Lokayata''︵順世派︶<ref>後世[[チャールヴァーカ]]''Carvaka''と呼ばれた、唯物論および[[快楽主義|快楽至上主義]]の説を奉ずる学派。</ref>の祖となった自由思想家[[アジタ・ケーサカンバリン]]︵Ajita Kesakambalin、阿耆多翅舎欽婆羅︶は唯物論者として知られ、万物は[[地]]・[[水]]・[[火]]・[[風]]の4元素から成るとする四元素還元説を唱えたが、パクダ・カッチャーヤナはこれら物質的元素に[[苦]]・[[楽]]・[[命]]を加えた七要素説を唱えた。﹁苦﹂と﹁楽﹂は感覚、﹁命﹂は生命のはたらきであり、7つの要素<ref>カッチャーヤナは、それぞれの要素をカーヤ︵''kaya''、﹁肉体﹂︶と呼んでいる。</ref>それぞれは互いに他に対して何の影響もあたえず、また受けないのであり、その点で絶対的で永続的なものであると説いた︵'''[[常見|常住論者]]''',sassatavādā︶。
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カッチャーヤナによれば、7つの要素は、作られたものではなく、作らせられたものではなく、また、何かを作るものでもない。また、不変不動で、直立しており、動揺することなく、他を害することもなく、互いの苦楽のためにもならない。そこには、殺す者も殺される者もなく、学ぶ者も教える者もいない。たとえ、鋭利な[[剣]]によって頭を断ち切ったとしても、誰かが誰かの命を奪うということにはならない。それは単に、7要素の間隙、諸要素間の裂け目に剣先が落ちるにすぎない。カッチャーヤナはこのように述べて絶対的な実体論を主張し、これを敷衍して、ひとつの行為に善悪の区別はないという見解を示した。これはまた、人間には何の力もなく、[[精進]]による[[解脱]]を望んでも無駄だという認識を含んでいる。
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カッチャーヤナによれば、7つの要素は、作られたものではなく、作らせられたものではなく、また、何かを作るものでもない。また、不変不動で、直立しており、動揺することなく、他を害することもなく、互いの苦楽のためにもならない。そこには、殺す者も殺される者もなく、学ぶ者も教える者もいない。たとえ、鋭利な[[剣]]によって頭を断ち切ったとしても、誰かが誰かの命を奪うということにはならない。それは単に、7要素の間隙、諸要素間の裂け目に剣先が落ちるにすぎない。カッチャーヤナはこのように述べて絶対的な実体論を主張し、これを敷衍して、ひとつの行為に善悪の区別はないという見解を示した。これはまた、人間には何の力もなく、[[精進]]による[[解脱]]を望んでも無駄だという認識を含んでいる。
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== 脚注 == |
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== 関連項目 == |
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* [[六師外道]] |
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* [[エンペドクレス]] |
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== 参考文献 == |
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*[[ミルチア・エリアーデ]]著、[[島田裕巳]]訳 『世界宗教史3 ゴータマ・ブッダからキリスト教の興隆まで(上)』 筑摩書房〈ちくま学芸文庫〉、2000年5月、ISBN 4-480-08563-7 |
*[[ミルチア・エリアーデ]]著、[[島田裕巳]]訳 『世界宗教史3 ゴータマ・ブッダからキリスト教の興隆まで(上)』 筑摩書房〈ちくま学芸文庫〉、2000年5月、ISBN 4-480-08563-7 |
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*[[辛島昇]]、[[前田専学]]、[[江島惠教]]ら監修 『南アジアを知る事典』 平凡社、1992年10月、ISBN 4-582-12634-0 |
*[[辛島昇]]、[[前田専学]]、[[江島惠教]]ら監修 『南アジアを知る事典』 平凡社、1992年10月、ISBN 4-582-12634-0 |
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== 外部リンク == |
== 外部リンク == |
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*[http://www.j-theravada.net/explain/syamonka-5.html パーリ仏典を読む/沙門果経(7)パクダ・カッチャーヤナの教え] |
*[http://www.j-theravada.net/explain/syamonka-5.html パーリ仏典を読む/沙門果経(7)パクダ・カッチャーヤナの教え] |
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*[http://user.numazu-ct.ac.jp/~nozawa/b/bukkyou1.htm インド思想史略説] |
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2022年10月2日 (日) 02:42時点における最新版
パーリ経典に登場する沙門[1] (六師外道) (沙門果経より[2]) | |
沙門[1] | 論(思想)[2] |
プーラナ・カッサパ | 無道徳論、道徳否定論: 善行も悪行もなく、善悪いずれの報いも存在しない。 |
マッカリ・ゴーサーラ (アージーヴィカ教) |
運命決定論 (宿命論): 自己の意志による行いはなく、一切はあらかじめ決定されており、定められた期間流転する定めである。 |
アジタ・ケーサカンバリン (順世派) |
唯物論、感覚論、快楽主義: 人は四大からなり、死ぬと散じ何も残らない。善悪いずれの行いの報いもないとし、現世の快楽・享楽のみを説く。 |
パクダ・カッチャーヤナ (常住論者) |
要素集合説:人は地・水・火・風の四元素と、苦・楽および命(霊魂)の七つの要素の集合にで構成され、それらは不変不動で相互の影響はない。 |
マハーヴィーラ (ジャイナ教) |
相対主義、苦行主義、要素実在説: 霊魂は永遠不滅の実体であり、乞食・苦行生活で業の汚れを落とし涅槃を目指す。 |
サンジャヤ・ベーラッティプッタ |
不可知論、懐疑論: 真理をあるがままに認識し説明することは不可能であるとする。判断の留保。 |
思想[編集]
ローカーヤタ Lokayata︵順世派︶[4]の祖となった自由思想家アジタ・ケーサカンバリン︵Ajita Kesakambalin、阿耆多翅舎欽婆羅︶は唯物論者として知られ、万物は地・水・火・風の4元素から成るとする四元素還元説を唱えたが、パクダ・カッチャーヤナはこれら物質的元素に苦・楽・命を加えた七要素説を唱えた。﹁苦﹂と﹁楽﹂は感覚、﹁命﹂は生命のはたらきであり、7つの要素[5]それぞれは互いに他に対して何の影響もあたえず、また受けないのであり、その点で絶対的で永続的なものであると説いた︵常住論者,sassatavādā︶。 カッチャーヤナによれば、7つの要素は、作られたものではなく、作らせられたものではなく、また、何かを作るものでもない。また、不変不動で、直立しており、動揺することなく、他を害することもなく、互いの苦楽のためにもならない。そこには、殺す者も殺される者もなく、学ぶ者も教える者もいない。たとえ、鋭利な剣によって頭を断ち切ったとしても、誰かが誰かの命を奪うということにはならない。それは単に、7要素の間隙、諸要素間の裂け目に剣先が落ちるにすぎない。カッチャーヤナはこのように述べて絶対的な実体論を主張し、これを敷衍して、ひとつの行為に善悪の区別はないという見解を示した。これはまた、人間には何の力もなく、精進による解脱を望んでも無駄だという認識を含んでいる。脚注[編集]
関連項目[編集]
参考文献[編集]
- ミルチア・エリアーデ著、島田裕巳訳 『世界宗教史3 ゴータマ・ブッダからキリスト教の興隆まで(上)』 筑摩書房〈ちくま学芸文庫〉、2000年5月、ISBN 4-480-08563-7
- 辛島昇、前田専学、江島惠教ら監修 『南アジアを知る事典』 平凡社、1992年10月、ISBN 4-582-12634-0