「上野桜木」の版間の差分
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下谷桜木町を前身としており、[[上野台]]部分は[[上野花園町]]から独立したところで[[寛永寺|寛永寺域]]であったことからその子院が数多くあった。多数の寺院の存在とともに、[[江戸時代]]の町割り、道割りの上に[[明治]]・[[大正]]・[[昭和]]の近代の建物が混在していて、歴史的重層性のある景観を作りだしている。また、仏教的敬虔さや、職人的、芸術的、文学的な人々の関わりによって、伝統的に高い文化的風土を保持している。地名の通り[[サクラ|桜]]も多く、桜並木が作られている。桜木、谷中、[[上野恩賜公園|上野公園]]の桜は樹齢を重ねたものが多いせいか一本一本が独特の形をしている。町内にある[[寛永寺]]は、[[寛永]]2年([[1625年]])徳川3代将軍[[徳川家光]]の治世に建てられた。寛永寺は[[徳川氏|徳川家]]の[[菩提寺]]として知られ、都内を代表する寺院として知られている。寛永寺には、徳川家の墓所として6人の将軍の霊廟がある。また、[[大慈院]]{{要曖昧さ回避|date=2016年6月}}は[[徳川慶喜]]が謹慎していた場所でもある。 |
下谷桜木町を前身としており、[[上野台]]部分は[[上野花園町]]から独立したところで[[寛永寺|寛永寺域]]であったことからその子院が数多くあった。多数の寺院の存在とともに、[[江戸時代]]の町割り、道割りの上に[[明治]]・[[大正]]・[[昭和]]の近代の各時代の建物が混在していて、歴史的重層性のある景観を作りだしている。また、仏教的敬虔さや、職人的、芸術的、文学的な人々の関わりによって、伝統的に高い文化的風土を保持している。地名の通り[[サクラ|桜]]も多く、桜並木が作られている。桜木、谷中、[[上野恩賜公園|上野公園]]の桜は樹齢を重ねたものが多いせいか一本一本が独特の形をしている。町内にある[[寛永寺]]は、[[寛永]]2年([[1625年]])徳川3代将軍[[徳川家光]]の治世に建てられた。寛永寺は[[徳川氏|徳川家]]の[[菩提寺]]として知られ、都内を代表する寺院として知られている。寛永寺には、徳川家の墓所として6人の将軍の霊廟がある。また、[[大慈院]]{{要曖昧さ回避|date=2016年6月}}は[[徳川慶喜]]が謹慎していた場所でもある。
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かつては[[川端康成]]も居をかまえていた<ref name="hideko1">「第一章 出会い」({{Harvnb|秀子|1983|pp=5-44}})</ref>。妻の[[川端秀子]]は、川端が[[第一高等学校 (旧制)|一高]]時代に上野桜木町の貸間の広告を見て、現場までわざわざ見に行ったことを記した日記に触れ、「(川端にとって)桜木町というのはその時以来憧れの町だった」と語っている<ref name="hideko1"/>。 |
かつては[[川端康成]]も居をかまえていた<ref name="hideko1">「第一章 出会い」({{Harvnb|秀子|1983|pp=5-44}})</ref>。妻の[[川端秀子]]は、川端が[[第一高等学校 (旧制)|一高]]時代に上野桜木町の貸間の広告を見て、現場までわざわざ見に行ったことを記した日記に触れ、「(川端にとって)桜木町というのはその時以来憧れの町だった」と語っている<ref name="hideko1"/>。 |
2019年3月1日 (金) 02:28時点における版
上野桜木 | |
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寛永寺 根本中堂 | |
北緯35度43分17.12秒 東経139度46分17.98秒 / 北緯35.7214222度 東経139.7716611度 | |
国 | 日本 |
都道府県 | 東京都 |
特別区 | 台東区 |
地域 | 下谷地域 |
人口 | |
• 合計 | 2,351人 |
等時帯 | UTC+9 (日本標準時) |
郵便番号 |
110-0002[2] |
市外局番 | 03[3] |
ナンバープレート | 足立 |
地理
台東区の北西、下谷地域の北部に位置する高台の住宅地。武蔵野台地の東端にあたる。町域東部はJR山手線などの線路に接し、これを境に根岸に接する。南部は上野公園に接する。南西部は池之端に接する。西部から北部は、谷中に接する。︵地名はいずれも台東区内︶。上野桜木一丁目と上野桜木二丁目を分ける形で町域の中央を言問通りが東西に通っている。 上野桜木一丁目の過半には寛永寺の広大な敷地が広がる。他に上野桜木一丁目には寛永寺に隣接して台東区立上野中学校がある。上野桜木一丁目の残部と上野桜木二丁目には住居や商店、寺院などが建ち並ぶ/上野桜木一丁目︵一部︶と二丁目が下谷に所在する 下谷警察署の管轄にあたり、上野桜木一丁目︵一部︶が東上野に所在する上野警察署の管轄にあたる。また、全域が東上野に所在する上野消防署の管轄にあたる。地価
住宅地の地価は、2017年︵平成29年︶の公示地価によれば、上野桜木1-1-5の地点で71万1000円/m2となっている[4]。歴史
下谷桜木町を前身としており、上野台部分は上野花園町から独立したところで寛永寺域であったことからその子院が数多くあった。多数の寺院の存在とともに、江戸時代の町割り、道割りの上に明治・大正・昭和の近代の各時代の建物が混在していて、歴史的重層性のある景観を作りだしている。また、仏教的敬虔さや、職人的、芸術的、文学的な人々の関わりによって、伝統的に高い文化的風土を保持している。地名の通り桜も多く、桜並木が作られている。桜木、谷中、上野公園の桜は樹齢を重ねたものが多いせいか一本一本が独特の形をしている。町内にある寛永寺は、寛永2年(1625年)徳川3代将軍徳川家光の治世に建てられた。寛永寺は徳川家の菩提寺として知られ、都内を代表する寺院として知られている。寛永寺には、徳川家の墓所として6人の将軍の霊廟がある。また、大慈院[要曖昧さ回避]は徳川慶喜が謹慎していた場所でもある。 かつては川端康成も居をかまえていた[5]。妻の川端秀子は、川端が一高時代に上野桜木町の貸間の広告を見て、現場までわざわざ見に行ったことを記した日記に触れ、﹁︵川端にとって︶桜木町というのはその時以来憧れの町だった﹂と語っている[5]。 言問通り沿いに、かつては鶯谷駅との乗り換えが便利な京成の寛永寺坂駅があった。日本医科大学看護専門学校がかつて存在した。世帯数と人口
2017年︵平成29年︶12月1日現在の世帯数と人口は以下の通りである[1]。丁目 | 世帯数 | 人口 |
---|---|---|
上野桜木一丁目 | 701世帯 | 1,328人 |
上野桜木二丁目 | 493世帯 | 1,023人 |
計 | 1,194世帯 | 2,351人 |
小・中学校の学区
区立小・中学校に通う場合、学区は以下の通りとなる[6]。
丁目 | 番地 | 小学校 | 中学校 |
---|---|---|---|
上野桜木一丁目 | 15番11〜24号 16番66〜69号 |
台東区立根岸小学校 | 台東区立忍岡中学校 |
その他 | 台東区立上野中学校 | ||
上野桜木二丁目 | 全域 |
交通
道路
施設
かつて存在した施設
脚注
参考文献
- 川端秀子『川端康成とともに』新潮社、1983年4月。ISBN 978-4-10-346001-5。