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[[File:Mitsuda Kensuke.jpg|thumb|光田健輔(1956年)]] |
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'''光田 健輔'''︵みつだ けんすけ、[[1876年]][[1月12日]] - [[1964年]][[5月14日]]︶は、日本の[[病理学|病理学者]]、[[皮膚科学|皮膚科医]]。[[国立療養所長島愛生園|国立長島愛生園]]初代園長 |
'''光田 健輔'''︵みつだ けんすけ、[[1876年]]︵[[明治]]9年︶[[1月12日]] - [[1964年]]︵[[昭和]]39年︶[[5月14日]]︶は、[[日本]]の[[病理学|病理学者]]、[[皮膚科学|皮膚科医]]。生涯を[[ハンセン病]]の撲滅に捧げ、[[国立療養所長島愛生園|国立長島愛生園]]初代園長等を歴任した。生前は﹁救癩の父﹂と崇められ、[[文化勲章]]や[[ダミアン神父|ダミアン・ダットン賞]]を受けた。その一方で、患者の絶対隔離政策を推進する﹁[[癩予防法]]﹂改正、[[無癩県運動]]や﹁[[らい予防法]]﹂制定の中心人物であり、[[日本のハンセン病問題|日本の対ハンセン病政策の明暗]]を象徴する人物ともされる。贈[[正三位]][[勲一等瑞宝章]]。
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== 生 |
== 生涯 == |
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[[山口県]][[佐波郡 (山口県)|佐波郡]][[ |
[[1876年]](明治9年)[[1月12日]]、[[山口県]][[佐波郡 (山口県)|佐波郡]][[中関町|中関村]](現・[[防府市]])に生まれる。 |
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[[高等小学校]]卒業後に上京し、医師 |
[[高等小学校]]卒業後に上京し、医師・[[賀古鶴所]]宅で住み込み書生をしながら苦学して、[[医術開業試験|医術開業前期試験]]に合格した。合格後は実技試験対策のために[[済生学舎]]に入学、1895年、開業後期試験に合格する。済生学舎の同期に[[野口英世]]がいる。
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当時ハンセン |
[[東京帝国大学]]医学部選科に籍を置き、[[学士]]でないハンディを乗り越えて[[病理学]]を学び、[[ハンセン病]]の撲滅を志すようになる。当時ハンセン病の療養施設﹁養育院﹂から献体があったが、学士の同僚達は罹患を恐れ、誰も解剖をしようとはしなかった。﹁ハンセン氏病の患者を救いたい﹂という一心から光田は危険を顧みず、解剖にあたったとされる<ref>武田徹﹃﹁隔離﹂という病い﹄</ref>。
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その後は東京市養育院に勤務し、その後生涯をハンセン氏病の撲滅に捧げ、その人道主義が高く評価され「救癩の父」と崇められ、[[文化勲章]]を受賞している。 |
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[[1898年]]、[[東京大学|東京帝国大学]]医科大学専科︵病理特科︶を卒業し、同年7月に、[[東京市養育院]]に就職する。翌[[1899年]]にかけて、院内に﹁回春病室﹂を開設し、ハンセン病患者の医療に取り組み、患者隔離政策の推進派となる。[[1908年]]には同院副医長に就任。
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[[1909年]]、公立癩療養所[[全生病院]]医長に就任。[[1914年]]︵大正3年︶、全生病院長に就任するとともに、[[保健衛生調査会]]委員に就任し、ハンセン病予防事務視察のため、欧米各国などに渡る。[[1915年]]には、入所者に対してはじめて[[断種]]手術︵ワゼクトミ-︶を行う。これは男女別に収容されていた入所者間に子供が生まれたことを背景に、入所者間の所内結婚︵通い婚︶を認める条件として、男性入所者に対して行われたものであった。
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[[1919年]]に発表した論文「らい結節乳剤を以ってする皮膚反応の価値」は、ハンセン病の病型を診断する「光田反応」の開発へと繋がる研究成果であった。[[1923年]]に[[ストラスブール]]で開催された第3回国際らい学会では名誉会頭・座長を務め、「光田反応」などについて発表したが、反応はなかった<ref>第3回国際らい病学会概況 佐藤秀三 光田健輔 らいに関する論文第2編 1950</ref>。なお、光田反応は弟子の[[林文雄]]によって完成された。 |
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[[1930年]]︵昭和5年︶頃より日本政府によるらい根絶運動が本格化し、光田はその中心人物の一人となる。同年、[[岡山県]]の[[長島 (岡山県)|長島]]に完成した[[国立療養所長島愛生園]]の初代園長に就任する。1931年4月には[[癩予防法]]が改正され、全ハンセン病患者を強制隔離する[[無癩県運動]]がはじまった。[[1943年]]にハンセン病特効薬[[プロミン]]が開発され、[[1947年]]には日本でもプロミンによる治療が開始され、[[薬物療法]]が確立されて強制隔離の医学的必要性が疑われるようになっても、光田は強制隔離政策の維持・強化を主張し続けた。
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[[1951年]]、ハンセン病治療研究および患者救済における功績により[[文化勲章]]を受章する<ref>﹃朝日新聞﹄1951年10月18日﹁文化勲章の受章者内定﹂等。同記事では、国立長島愛生園の光田健輔園長はライ患者の救済をはじめ、[[らい予防法]]制定などにつくした功績により受章内定と紹介されている。</ref>。また、山口県[[防府市]]<ref>{{Cite web|和書|title=ふるさと人物伝 4|website=[[防府市]]|url=https://www.library.hofu.yamaguchi.jp/hurusato_jinbutsu/4_mitsuda_kensuke.pdf|accessdate=2022-07-20}}</ref>並びに[[岡山市]]名誉市民<ref>[http://www.city.okayama.jp/hishokouhou/hisho/hisho_00337.html 岡山市名誉市民|岡山市|市政情報|岡山市長室] {{Wayback|url=https://www.city.okayama.jp/hishokouhou/hisho/hisho_00337.html|date=20171203153845}}</ref>となる。[[国立療養所大島青松園|大島青松園]]長[[野島泰治]]によれば、すでに[[1943年]]に文化勲章受章の動きがあったという。これによれば、同年秋の全国癩療養所所長会議が東京で開催された翌日、[[厚生省]]医務課秘書課長が野島に対し、光田反応の発見を理由とした光田への文化勲章奏請について意見を聞いたといい、野島は光田反応は光田の業績のごく一部にしか過ぎず、﹁先人未到のライ病理の解明をされたことこそ文化勲章に値する﹂という理由で、光田反応を理由としたもの文化勲章奏請に反対したという<ref>野島泰治 らいと梅干と憲兵 昭和46年</ref>。また青柳緑は、1950年から翌年にかけて光田のハンセン病関連論文をまとめた﹃癩に関する論文﹄の第2〜4輯が刊行されたのは、光田を文化功労者にするための[[井上謙]]と厚生省の好意ある陰謀と評している<ref>青柳緑 らいに捧げた八十年 光田健輔の生涯 新潮社 1965</ref>。
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その後も、[[1953年]]制定の[[らい予防法]]に積極的に関わるとともに、法令の存続に力を入れた。[[1957年]]3月に退官し、長島愛生園名誉園長となる。[[1961年]]には、ハンセン病医療への貢献に対して贈られるダミアン・ダットン賞︵Damien-Dutton Award︶を受賞した。
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[[1951年]]不正入出国に関する件で衆議院行政監察特別委員会に[[証人喚問]]された<ref>[https://kokkai.ndl.go.jp/#/detail?minId=101004280X00719510518¤t=154 第10回国会 衆議院 行政監察特別委員会 第7号 昭和26年5月18日]</ref>。 |
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[[1964年]][[5月14日]]死去。[[享年]]89。死後2時間後、岡山大学の浜崎名誉教授と小川教授の執刀により、遺体が[[病理解剖]]された後<ref>桜井[1974:329-335]</ref>、遺骨は長島愛生園にある万霊山遺骨堂に納められた。叙・正三位、勲一等瑞宝章追贈。
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== 評価 == |
== 評価 == |
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光田はハンセン病の治療、研究に長年従事し、ハンセン病関連の日本おける政策提言や、患者救済事業に積極的に取り組んだ「パイオニア的な存在」として、医学界からも社会からも高く評価され、文化勲章やダミアン・ダットン賞を受けている。 |
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かつては、ハンセン病治療に携わった医師ということで、ハンセン病患者への救済事業に積極的に取り組んだパイオニア的な存在である。光田の学問的業績は、結核とらいの合併の証明、中枢神経病変、動脈病変など病理学においては、広範囲にわたる。ハンセン病解剖例数も多かったが、最も有名なのは、学問的に病型分類に非常に貢献した「光田反応」を開発をしたことである。1919年の「らい結節乳剤を以てする皮膚反応の価値」は世界に先駆けた業績である。しかし彼はこの反応の完成を弟子の多くにまかせ、その中でも林文雄の功績が大であった。この反応自体は現在は抗原を入手することが困難になり、行われることは少ない。なお、光田健輔は1961年、Damien-Dutton Awardを受賞している。彼の文献は、光田健輔 らいに関する論文 第一輯(1935),第二輯(1950),第三輯(1950)に収録されている。彼に関する論評や文献は多数あるが、没後9年多くの人物からの思い出をまとめた文献がある。<ref>救らいの父 光田健輔の思い出 桜井方策編 ルガール社 1974</ref>また「回春病室」は彼が著者となっているが、朝日新聞社の藤本浩一と医師[[内田守]]による自叙伝である。<ref>光田健輔 回春病室 朝日新聞社 昭和25年</ref> |
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病理学においては、多くの診察・解剖を通じて、結核とらいの合併の証明、中枢神経病変、動脈病変の研究など、広範囲にわたる業績を残した。特に1919年の﹁らい結節乳剤を以てする皮膚反応の価値﹂は、病型分類に大きく貢献する﹁光田反応﹂の基礎となる内容で、世界に先駆けた業績として高く評価される。光田反応は、その後、[[林文雄]]をはじめとする光田の門下生により完成された。ただしこの反応自体は現在は抗原を入手することが困難になり、行われることは少ない。
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== 批判 == |
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しかし近年になって、[[1943年]]にハンセン病特効薬[[プロミン]]が開発され、[[1947年]]にはプロミンによる治療が日本でも開始され、後年その有効性が認められたにもかかわらず、戦前の隔離政策を継続した[[1953年]]制定の[[らい予防法]]に積極的に関わるとともに、法の存続に力を入れた。また、[[優生学]]に基づく患者に関する強制断種︵ワゼクトミー︶の実施など、ハンセン病患者の強制隔離政策を推進し、ハンセン病患者に対する[[差別]]を助長する元凶を作った人物としてハンセン病元患者や[[藤野豊]]などのハンセン病を専攻している近代史の学者などから批判が上がっている。そのために受賞した[[文化勲章]]を剥奪すべきであるとしている人もある。<ref>''光田健輔と文化勲章''︵2008) 国本 衛 ハンセン病市民学会ニュース 6号,2008.3.13. </ref>
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また、19世紀末から20世紀初頭、市井において、ハンセン病患者に対する激しい忌避と[[差別]]感情が存在し、それに対し当時の[[内務省 (日本)|内務省]]が、本格的な対策を講じなかった状況において、果敢に患者の救済とハンセン病撲滅に献身したことも評価されている。以下の文化勳章受章理由は、光田に対する肯定的評価を代表するものである。
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== 毀誉褒貶の評価 == |
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{{Quotation|厚生技官︵国立療養所長島愛生園長︶光田健輔 明治9年1月12日生 癩患者の救済に挺身、癩予防法制定の原動力となり、全生病院医長、同病院長として浮浪病者の収容及び療養生活体の形成に苦心を重ね、内務省保健衛生調査医員として癩の根本的予防対策を建言、これによって国立療養所長島愛生園の設立をみるに至ったが、開設と同時に園長となり、その拡張完成に盡した。又、癩に関する社会各層の啓蒙、癩予防協会の設立に盡瘁、癩事業担当者を育成した。学術方面では癩の皮膚反応、病型分類等、幾多の研究成果をあげ、斯学の発達に寄与した。|内閣府}}
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今日、光田については毀誉褒貶両極端な評価がなされている。彼の事跡の中から意図的に部分を切り取れば今日の[[倫理|医療倫理]]や[[人権]]意識と照らして批判に値することも存在することは否定できない。しかしながら当時市井においてハンセン病患者に対する激しい忌避と[[差別]]感情が存在し、それに対し当時の[[内務省 (日本)|内務省]]が本格的な対策を講じなかった状況において、果敢に患者の救済とハンセン病撲滅と献身した光田の功績は決して全否定されるものではないだろう。今日批判を受けている事柄についても、当時の状況においてはそれなりの合理性が存在したのである。
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一方、主に[[20世紀]]後半以降、日本におけるハンセン病政策の不当性や、患者・元患者に対する[[人権蹂躙]]が論じられるようになるにつれ、光田に対する批判もなされるようになった。
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特に患者に対する強制[[不妊手術]]・[[人工妊娠中絶]]手術の実施や、ハンセン病患者の強制隔離政策︵[[無癩県運動]]︶の推進に深く関わった点、1940年代以降、特効薬[[プロミン]]による[[薬物療法]]の確立後も、強制隔離政策の継続を強く主張し、[[らい予防法]]︵[[1953年]]︶に積極的に関わった点等は、ハンセン病元患者や、[[藤野豊]]などのハンセン病問題を研究する[[歴史学者]]などから、差別や人権侵害を助長したものとして批判されている。
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例えば、批判を受けた患者への断種については、遺伝の問題よりは患者間の性の問題が関係している。各施設は男女別に板塀で区切られていたが管理者が早朝、施設を巡検すると男女が入り乱れて寝ている姿が発見されたりしたこともあり管理者側を悩ませていた。結果的に望まぬ妊娠・出産が多発し、子供の扶養の問題が施設の運営を圧迫した。
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[[無癩県運動]]にかかわった組織による反省声明にも、光田の主張を受け入れてしまったことによる謝罪の弁があり<ref>([[無癩県運動]]における[[真宗大谷派]]の謝罪声明を参照。)</ref>、[[文化勲章]]を剥奪すべきとする人もある<ref>国本衛「光田健輔と文化勲章」『ハンセン病市民学会ニュース』6号、2008.3.13. </ref>。 |
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この問題に対しては[[ハンナ・リデル]]の[[熊本]]回春病院など外国人が経営する[[キリスト教]]系施設では徹底して患者に禁欲を強いた<ref>青木恵哉『選ばれた島』</ref>。これに対し光田は人間の恋愛の情を強制的に禁ずることの惨さを批判し、現実的な方法を模索したのである。それは患者に生涯禁欲を強いるのではなく、一定の制約のもとで結婚を認めようとする方針を採用したと言うことである。結婚の条件として患者に生殖能力を人工的に消失させる断種手術を課したのである<ref>武田徹『「隔離」という病い---近代日本の医療空間』</ref> 。これによって患者の恋愛を叶え同時に望まぬ子供の出生の防止という問題を解決することが可能となった。しかし光田自身に温情という考えがあったかは疑わしく、当時においても当然違法であり、「告訴されれば私が刑務所に行くまでだ」と確信的であった。<ref>高山文彦『火花---北条民雄の生涯』</ref> 。 |
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光田が患者救済と差別助長という矛盾した行動を取った背景について、藤野豊は﹁らいは恐ろしい伝染病であり、らい患者が存在することは文明国の恥である﹂という光田独自の考えがあったからではないかと論じている |
このような光田批判に対しては、当時の文脈においては合理的な判断であり、また光田自身には患者を救済しようとする人道的意図があったとして光田を擁護する反論もある。例えば、光田が患者救済と差別助長という矛盾した行動を取った背景について、藤野豊は﹁らいは恐ろしい伝染病であり、らい患者が存在することは文明国の恥である﹂という光田独自の考えがあったからではないかと論じている。
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これに対して、光田に師事した医師[[犀川一夫]]は、光田が﹁たとえ病原菌が無くなっても、世間の差別の目のせいで元患者が社会復帰するのは難しい。だからあえて隔離するのだ﹂と主張した事例を紹介し、当時の患者を取り巻く状況においてはそれなりの合理的な理由があったのではと述べている<ref>ただし、犀川自身はハンセン病国家賠償訴訟における証人の場でハンセン病隔離政策は誤りであったと主張しており、間接的にではあるが、光田のハンセン病に対するスタンスを批判している</ref>。
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一方で、その隔離を求める主張が[[無癩県運動]]等のらい病患者を追い詰める政策の根拠となり、また光田自身も[[無癩県運動]]ではその運動を正当化する講演を引き受けるなど、差別を助長するような行動が多々見られたのもまた事実である。当時、[[無癩県運動]]にかかわった組織による反省声明にも、光田の主張を受け入れてしまったことによる謝罪の弁がある。<ref>︵[[無癩県運動]]における真宗大谷派の謝罪声明を参照。︶</ref>
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また、患者への断種については、[[優生学]]に基づくというより、患者間の性の問題が関係していたとして光田を擁護する論がある。それによれば、各地の国立療養所では、男女別に収容されていたにもかかわらず、早朝に施設を巡検すると男女が入り乱れて寝ている姿が発見されることなどがあり、結果的に望まぬ妊娠・出産が多発し、子供の扶養の問題が施設の運営を圧迫していた。
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== 経歴 == |
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* [[1876年]](明治9年)[[1月12日]] - 現在の[[山口県]][[防府市]]に生まれる。 |
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* [[1896年]] - [[日本医科大学|済生学舎]]を卒業し[[医術開業試験]]に合格する。 |
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* [[1898年]] - [[東京大学|東京帝国大学]]医科大学専科︵病理特科︶を卒業し、同年7月に、東京市養育院に勤務する。翌[[1899年]]にかけて、院内に﹁回春病室﹂を開設、ハンセン病患者の医療に取り組む。
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* [[1908年]] - 東京市養育院副医長に就任。 |
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* [[1909年]] - 公立癩療養所全生病院医長に就任。 |
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* [[1914年]](大正3年)- 全生病院長に就任するとともに保健衛生調査会委員に就任し、ハンセン病予防事務視察のため、欧米各国などに渡る。 |
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* [[1915年]] - 断種手術(ワゼクトミ-)による断種を行う。男女別に収容されていた患者間に子供が生まれた。所内結婚(通い婚)を認める代わりに、男性患者に対して断種手術を施した。 |
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* [[1919年]] - ハンセン病の病型を診断する「光田反応」に導いた論文「らい結節乳剤を以ってする皮膚反応の価値」を発表。 なお「光田反応」は弟子の[[林文雄]]が完成させた。 |
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* [[1923年]] - 第3回国際らい学会(ストラスブルク)出席。名誉会頭。座長もつとめる。「光田反応」などを発表したが、この反応には反応はなかった。<ref>第3回国際らい病学会概況 佐藤秀三 光田健輔 らいに関する論文第2編 1950</ref> |
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* [[1931年]](昭和6年) - 国立長島愛生園の初代園長に就任。 |
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* [[1951年]] - 文化勲章受章。山口県[[防府市]]並びに[[岡山市]]名誉市民。 |
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* [[1957年]] - 3月退官。長島愛生園名誉園長。 |
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* [[1961年]] - Damien-Dutton 賞受賞。 |
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* [[1964年]][[5月14日]] - 死去。[[享年]]89。遺体は死後2時間後、岡山大学の浜崎名誉教授と小川教授の執刀により、[[病理解剖]]された。<ref>桜井[1974:329-335]</ref>叙・正三位、勲一等瑞宝章追贈。遺骨は長島愛生園にある万霊山遺骨堂に納められた。
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この問題に対して、[[ハンナ・リデル]]の運営する[[熊本]]回春病院など[[キリスト教]]系施設では、徹底して患者に[[禁欲]]を強いたが<ref>青木恵哉『選ばれた島』</ref>、光田は人間の恋愛の情を強制的に禁ずることの惨さを批判し、一定の制約の下で結婚を認めようという現実的な方針を採用し、結婚の条件として患者に生殖能力を人工的に消失させる断種手術を課したという<ref>武田徹『「隔離」という病い---近代日本の医療空間』</ref>。強制断種は当時においても違法であり、光田は「告訴されれば私が[[日本の刑務所|刑務所]]に行くまでだ」と確信的であったという<ref>高山文彦『火花---北条民雄の生涯』</ref>。 |
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== 学問的業績== |
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多数あるが主要なものにとどめる。 |
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* 癩性りんぱ腺炎について<ref>光田健輔 東京医学会雑誌 13,1899</ref> |
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* 癩病の末梢神経および血管に於ける病変に就いて <ref>光田健輔・[[菅井竹吉]] 東京医学会雑誌 14,15,1900</ref> |
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* 癩病の血管殊に静脈の変化及びその臨床的の意義について<ref>光田健輔 日本医学 15,1906</ref> |
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* 癩病の中枢神経系における病理解剖知見増補 <ref>神経学雑誌 6,6 and 7, 1906</ref> |
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* 癩性禿頭について<ref>光田健輔 東京医事新誌 1711,1911</ref> |
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* 癩病に対する大風子油の価値<ref>光田健輔 皮膚科泌尿器科雑誌 12,12,1912</ref> |
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* 癩の血清反応について 第1報<ref>光田健輔、村田茂助 皮膚科及泌尿器科雑誌 11,7,1919</ref> |
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* 癩結節乳剤を以てする皮膚反応の意義<ref>光田健輔 皮膚科及泌尿器科雑誌 19,8,1919</ref>光田反応に導いた論文 |
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* 疥癬と癩病との注染<ref>光田健輔 日本公衆保健協会雑誌 10,11,1934</ref> |
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* 癩に関する論文集第1編<ref>光田健輔 癩に関する論文集第1篇 1935</ref> |
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* On the Langhans giant cell in leprosy and the stellate body in nodular leprosy<ref>On the Langhans giant cell in leprosy and the stellete body in nodular leprosy Mitsuda K. Int J Lepro 3,3, 1935</ref> |
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* [ワゼクトミー」20周年<ref>「ワゼクトミー」20周年 光田健輔 愛生 第6巻4号 1936</ref> |
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* A study of 150 autopsies on cases of leprosy<ref>A study of 150 autopsies on cases of leprosy. Mitsuda K, Ogawa M. Int J Leprosy. 5,1,1937</ref> |
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* On alopecia leprosa<ref>On alopecia leprosa. Mitsuda K, Nagai K. Int J Lepr 5,3,1937</ref> |
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*「ワゼクトミー」に就いて<ref><「ワゼクトミー」に就いて 光田健輔 皮膚科泌尿器科雑誌 41,3,1937</ref> |
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* 30年間癩患者に接触したる石渡婦長の血液像と皮内反応<ref>光田健輔 第12回日本癩学会総会 抄録 Lep 13,1, 1941</ref> |
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* 癩型の分類について<ref>光田健輔 レプラ 15,2,1943</ref> |
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* Cepharanthinによる癩の治療<ref>Cepharanthinによる癩の治療 光田健輔 田尻敢 立川昇 本多正八郎 日本医学 3389,1944</ref> |
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* 南方に行く程癩症軽るし<ref>南方に行く程癩症軽るし 光田健輔 レプラ 15,3,1944</ref> |
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* 癩病理講習会講演 (1949)<ref>光田健輔 癩に関する論文 第3篇 1950</ref>25ページもある講習会の記録で、質疑応答もあり、光田の実力がいかんなく発揮されている。 |
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* 第3回国際癩病学会概況 <ref><佐藤秀三:光田健輔 癩に関する論文 第2編 1950</ref>佐藤秀三による記録で光田の活躍が記されている。 |
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* 癩に関する論文集第2編<ref>光田健輔 癩に関する論文集第2編 1950</ref> |
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* 癩に関する論文集第3篇<ref>光田健輔 癩に関する論文集第3編 1950</ref> |
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* Promin並びに類似化合物による癩治療の協同研究・病理方面<ref>Promin並びに類似化合物による癩治療の協同研究 光田健輔 横田篤三、犀川一夫、第13回癩学会、抄録Lep 20,5,1951</ref> |
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* Atlas of Leprosy (図譜)<ref>Mitsuda K: Atlas of Leprosy 1952</ref> |
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* エッセイその他:愛生 開園50周年記念号(昭和55年10別冊)に愛生に書いたエッセイ、短歌、参考事項250編以上題、号が纏められている。 |
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*Primary and secondary tuberculoid leprosy. '''Mitsuda K.''' Int J Lepr. 1956 Jul-Sep;24(3):264-8. |
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光田の人柄についても、傲慢という評価がある一方で、謙遜ではにかみ屋、気前がよい等の評価も見られる。実力者でありながら、[[医学博士]]号をとらなかったことを謙虚さの証とみる者もいる。1907年の日本医学校の卒業証書に及第と署名した18人の教員中、光田一人が﹁医学博士﹂とも﹁医学士﹂とも書いていなかったという<ref>桜井[1974:64-65]</ref>。年俸は全生病院時代は2000円、愛生園園長時代は4000円であったが、研究や患者に必要なものには気前よく支出したといい、気の毒な患者に会うと50銭を握らせたといったエピソードが語られている<ref>桜井[1974:160, 234]</ref><ref>桜井[1974:234]</ref>。
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== エピソード == |
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*十分実力がありながら、[[医学博士]]号はとらなかった。1907年の日本医学校の卒業証書に18人の教師が及第としているが彼一人医学博士も医学士も書いてない。<ref>桜井[1974:64-65]</ref>光田は傲慢という人もいるが、実は謙遜ではにかみ屋であったという。なお、彼の弟子には博士号はとらせていた。
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* 光田の文化勲章受章に関して‥野島泰治︵大島青松園長︶は<ref>野島泰治 らいと梅干と憲兵 昭和46年</ref> 昭和18年の秋,全国ライ療養所所長会議が東京で開催された翌日、厚生省の医務課秘書課長が質問した。﹁実は今度光田反応にたいして、光田先生に文化勲章を奏請しようと思うのだが、あなたの光田反応にたいする意見を聞かせてほしい﹂ということであった。野島の答は﹁光田反応にたいして文化勲章を奏請されることには反対である。光田氏反応は光田先生の輝かしい数多くのライ業績中のほんのわずかの一点である。私は先人未到のライ病理の解明をされたことこそ文化勲章に値するものと考える。別の文献によると、前記の論文集の出版は︵4編が1950,51年発行︶光田健輔を文化功労者にする井上謙と厚生省の好意ある陰謀とある。<ref>青柳緑 らいに捧げた八十年 光田健輔の生涯 新潮社 1965</ref>
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* 『朝日新聞』(1951年10月18日付)によると、文化勲章の受章者内定とあり、国立長島愛生園の光田健輔園長はライ患者の救済をはじめ、ライ予防法制定などにつくした功績とある。<ref>『朝日新聞』1951年10月18日</ref> |
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* 余り飾らない人のようで、光田が年長になって、どこの老人だろうかと思った人と、業績を考えオーラを発していると感じた人がいる。お金には恬淡としていたようで、結婚式で三等車できて、故郷の人が吃驚したり、熊本の本妙寺をみにくるために、態々国鉄の運賃が安い夏休みにきたりしている。文化勲章に年金がついて助かったのでは、という人もいる。年俸は全生病院時代は2000円、愛生園園長時代は4000円であったが、研究や患者に必要なものには気前よく支出した。内田守に対しては、療養所の本来の業務でないせいか、文学の出版などには寄付をするのは渋っていた。
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*気の毒な患者に会うと、50銭を握らせた。明治時代の末、鎌倉のあるお寺にいた患者のボスにもあげたし<ref>桜井[1974:160]</ref>、[[内田守]]が愛生園にいた時代もそうであった。<ref>桜井[1974:234]</ref>
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== 学問的業績 == |
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光田のハンセン病関連論文は5編の﹃癩に関する論文﹄に纏められている︵長濤会、1935〜11952年︶。以下には主要な論文等を挙げる。著者名のないものは光田の単著。
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* 昭和26年当時の文化勲章の担当官庁は内閣府であった。当時の正式な文章である。 |
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* 「癩性りんぱ腺炎について」東京医学会雑誌』13, 1899年 |
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{{Quotation|厚生技官︵国立療養所長島愛生園長︶光田健輔 明治9年1月12日生 癩患者の救済に挺身、癩予防法制定の原動力となり、全生病院医長、同病院長として浮浪病者の収容及び療養生活体の形成に苦心を重ね、内務省保健衛生調査医員として癩の根本的予防対策を建言、これによって国立療養所長島愛生園の設立をみるに至ったが、開設と同時に園長となり、その拡張完成に盡した。又、癩に関する社会各層の啓蒙、癩予防協会の設立に盡瘁、癩事業担当者を育成した。学術方面では癩の皮膚反応、病型分類等、幾多の研究成果をあげ、斯学の発達に寄与した。}}
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* 光田健輔・[[菅井竹吉]]「癩病の末梢神経および血管に於ける病変に就いて」『東京医学会雑誌』14,15, 1900年 |
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* 「癩病の血管殊に静脈の変化及びその臨床的の意義について」『日本医学』15, 1906年 |
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* 「癩病の中枢神経系における病理解剖知見増補」『神経学雑誌』6(6 and 7), 1906年 |
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* 「癩性禿頭について」『東京医事新誌』1711, 1911年 |
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* 「癩病に対する大風子油の価値」『皮膚科泌尿器科雑誌』12(12), 1912年 |
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* 光田健輔・村田茂助「癩の血清反応について 第1報」『皮膚科及泌尿器科雑誌』19(7), 1919年 |
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* 「癩結節乳剤を以てする皮膚反応の意義」『皮膚科及泌尿器科雑誌』19(8), 1919年 |
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* 「疥癬と癩病との注染」『日本公衆保健協会雑誌』10(11), 1934年 |
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* Mitsuda K. "On the Langhans giant cell in leprosy and the stellete body in nodular leprosy". ''Int J Leprosy'' 3(3), 1935 |
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* 「「ワゼクトミー」20周年」『愛生』第6巻4号、1936年 |
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* Mitsuda K, Ogawa M. "A study of 150 autopsies on cases of leprosy". ''Int J Leprosy'' 5(1),1937 |
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* Mitsuda K, Nagai K. "On alopecia leprosa". ''Int J Leprosy'' 5(3),1937 |
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* 「「ワゼクトミー」に就いて」『皮膚科泌尿器科雑誌』41(3)、1937年 |
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* 「30年間癩患者に接触したる石渡婦長の血液像と皮内反応」(第12回日本癩学会総会 抄録)『レプラ』13(1), 1941年 |
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* 「癩型の分類について」『レプラ』15(2), 1943年 |
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* 光田健輔・田尻敢・立川昇・本多正八郎「Cepharanthinによる癩の治療」『日本医学』3389, 1944年 |
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* 「南方に行く程癩症軽るし」『レプラ』15(3), 1944年 |
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* 佐藤秀三「第3回国際癩病学会概況」佐藤秀三により、同学会での光田の活躍が記される。 |
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* 「癩病理講習会講演」(1949年)は質疑応答を含む。 |
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* 光田健輔・横田篤三・犀川一夫「Promin並びに類似化合物による癩治療の協同研究」(第13回癩学会 抄録)『レプラ』20(5), 1951年 |
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* ''Atlas of Leprosy,'' 1952年(図譜) |
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*"Primary and secondary tuberculoid leprosy". ''Int J Lepr'' 24(3):264-8; 1956 Jul-Sep. |
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また、『愛生』開園50周年記念号(昭和55年10別冊)に『愛生』に書いたエッセイ、短歌、参考事項250編以上の題号が纏められている。 |
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==文献== |
== 文献 == |
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*光田健輔『回春病室』朝日新聞社、1950年(朝日新聞社の藤本浩一と医師[[内田守]]による自叙伝) |
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*桜井方策編 「救らいの父 光田健輔の思い出」 1974 ルガール社 |
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*桜井方策編『救らいの父 光田健輔の思い出』ルガール社、1974年(没後9年たって多くの人物による「思い出」をまとめたもの) |
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その他、光田に関する論評や文献は多数存在する。 |
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== 脚注 == |
== 脚注 == |
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<references/> |
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== 関連項目 == |
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* [[ハンセン病]] |
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* [[日本のハンセン病問題]] |
* [[日本のハンセン病問題]] |
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* [[国立ハンセン病療養所]] |
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* [[らい予防法]] |
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* [[無癩県運動]] |
* [[無癩県運動]] |
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* [[らい予防法]] |
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* [[らい予防法違憲国家賠償訴訟]] |
* [[らい予防法違憲国家賠償訴訟]] |
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* [[ |
* [[ハンセン病に関連した人物]] |
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* [[小笠原登]] - 光田らにより進められた断種・隔離政策に反対し学会から抹殺された。 |
** [[小笠原登]] - 光田らにより進められた断種・隔離政策に反対し、学会から抹殺された。 |
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** [[小川正子]] |
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** [[河野進]] - 長島愛生園でキリスト教伝道活動を行う。光田の人柄について詠んだ詩「破片」がある。 |
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* [[林芳信]] |
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** [[神谷美恵子]] |
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** [[林文雄]] |
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** [[宮崎松記]] |
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== 外部リンク == |
== 外部リンク == |
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* {{青空文庫著作者|1698|光田 健輔}} |
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* [http://www.mhlw.go.jp/topics/bukyoku/kenkou/hansen/index.html 厚生労働省「ハンセン病に関する情報ページ」] |
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* [https://www.mhlw.go.jp/topics/bukyoku/kenkou/hansen/index.html 厚生労働省「ハンセン病に関する情報ページ」] |
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* [https://www.jlf.or.jp/work/hansen/report/ ハンセン病問題に関する検証会議 最終報告書] - 公益財団法人 日弁連法務研究財団 |
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* [http://shimingakkai.com/ ハンセン病市民学会] |
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* [http://www.eonet.ne.jp/~libell/main.html ハンセン病のリンク集] |
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* [http://www.mognet.org/ モグネット] |
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2023年11月13日 (月) 12:13時点における版
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生涯
1876年︵明治9年︶1月12日、山口県佐波郡中関村︵現・防府市︶に生まれる。 高等小学校卒業後に上京し、医師・賀古鶴所宅で住み込み書生をしながら苦学して、医術開業前期試験に合格した。合格後は実技試験対策のために済生学舎に入学、1895年、開業後期試験に合格する。済生学舎の同期に野口英世がいる。 東京帝国大学医学部選科に籍を置き、学士でないハンディを乗り越えて病理学を学び、ハンセン病の撲滅を志すようになる。当時ハンセン病の療養施設﹁養育院﹂から献体があったが、学士の同僚達は罹患を恐れ、誰も解剖をしようとはしなかった。﹁ハンセン氏病の患者を救いたい﹂という一心から光田は危険を顧みず、解剖にあたったとされる[1]。 1898年、東京帝国大学医科大学専科︵病理特科︶を卒業し、同年7月に、東京市養育院に就職する。翌1899年にかけて、院内に﹁回春病室﹂を開設し、ハンセン病患者の医療に取り組み、患者隔離政策の推進派となる。1908年には同院副医長に就任。 1909年、公立癩療養所全生病院医長に就任。1914年︵大正3年︶、全生病院長に就任するとともに、保健衛生調査会委員に就任し、ハンセン病予防事務視察のため、欧米各国などに渡る。1915年には、入所者に対してはじめて断種手術︵ワゼクトミ-︶を行う。これは男女別に収容されていた入所者間に子供が生まれたことを背景に、入所者間の所内結婚︵通い婚︶を認める条件として、男性入所者に対して行われたものであった。 1919年に発表した論文﹁らい結節乳剤を以ってする皮膚反応の価値﹂は、ハンセン病の病型を診断する﹁光田反応﹂の開発へと繋がる研究成果であった。1923年にストラスブールで開催された第3回国際らい学会では名誉会頭・座長を務め、﹁光田反応﹂などについて発表したが、反応はなかった[2]。なお、光田反応は弟子の林文雄によって完成された。 1930年︵昭和5年︶頃より日本政府によるらい根絶運動が本格化し、光田はその中心人物の一人となる。同年、岡山県の長島に完成した国立療養所長島愛生園の初代園長に就任する。1931年4月には癩予防法が改正され、全ハンセン病患者を強制隔離する無癩県運動がはじまった。1943年にハンセン病特効薬プロミンが開発され、1947年には日本でもプロミンによる治療が開始され、薬物療法が確立されて強制隔離の医学的必要性が疑われるようになっても、光田は強制隔離政策の維持・強化を主張し続けた。 1951年、ハンセン病治療研究および患者救済における功績により文化勲章を受章する[3]。また、山口県防府市[4]並びに岡山市名誉市民[5]となる。大島青松園長野島泰治によれば、すでに1943年に文化勲章受章の動きがあったという。これによれば、同年秋の全国癩療養所所長会議が東京で開催された翌日、厚生省医務課秘書課長が野島に対し、光田反応の発見を理由とした光田への文化勲章奏請について意見を聞いたといい、野島は光田反応は光田の業績のごく一部にしか過ぎず、﹁先人未到のライ病理の解明をされたことこそ文化勲章に値する﹂という理由で、光田反応を理由としたもの文化勲章奏請に反対したという[6]。また青柳緑は、1950年から翌年にかけて光田のハンセン病関連論文をまとめた﹃癩に関する論文﹄の第2〜4輯が刊行されたのは、光田を文化功労者にするための井上謙と厚生省の好意ある陰謀と評している[7]。 その後も、1953年制定のらい予防法に積極的に関わるとともに、法令の存続に力を入れた。1957年3月に退官し、長島愛生園名誉園長となる。1961年には、ハンセン病医療への貢献に対して贈られるダミアン・ダットン賞︵Damien-Dutton Award︶を受賞した。 1951年不正入出国に関する件で衆議院行政監察特別委員会に証人喚問された[8]。 1964年5月14日死去。享年89。死後2時間後、岡山大学の浜崎名誉教授と小川教授の執刀により、遺体が病理解剖された後[9]、遺骨は長島愛生園にある万霊山遺骨堂に納められた。叙・正三位、勲一等瑞宝章追贈。評価
光田はハンセン病の治療、研究に長年従事し、ハンセン病関連の日本おける政策提言や、患者救済事業に積極的に取り組んだ﹁パイオニア的な存在﹂として、医学界からも社会からも高く評価され、文化勲章やダミアン・ダットン賞を受けている。 病理学においては、多くの診察・解剖を通じて、結核とらいの合併の証明、中枢神経病変、動脈病変の研究など、広範囲にわたる業績を残した。特に1919年の﹁らい結節乳剤を以てする皮膚反応の価値﹂は、病型分類に大きく貢献する﹁光田反応﹂の基礎となる内容で、世界に先駆けた業績として高く評価される。光田反応は、その後、林文雄をはじめとする光田の門下生により完成された。ただしこの反応自体は現在は抗原を入手することが困難になり、行われることは少ない。 また、19世紀末から20世紀初頭、市井において、ハンセン病患者に対する激しい忌避と差別感情が存在し、それに対し当時の内務省が、本格的な対策を講じなかった状況において、果敢に患者の救済とハンセン病撲滅に献身したことも評価されている。以下の文化勳章受章理由は、光田に対する肯定的評価を代表するものである。 厚生技官︵国立療養所長島愛生園長︶光田健輔 明治9年1月12日生 癩患者の救済に挺身、癩予防法制定の原動力となり、全生病院医長、同病院長として浮浪病者の収容及び療養生活体の形成に苦心を重ね、内務省保健衛生調査医員として癩の根本的予防対策を建言、これによって国立療養所長島愛生園の設立をみるに至ったが、開設と同時に園長となり、その拡張完成に盡した。又、癩に関する社会各層の啓蒙、癩予防協会の設立に盡瘁、癩事業担当者を育成した。学術方面では癩の皮膚反応、病型分類等、幾多の研究成果をあげ、斯学の発達に寄与した。 — 内閣府 一方、主に20世紀後半以降、日本におけるハンセン病政策の不当性や、患者・元患者に対する人権蹂躙が論じられるようになるにつれ、光田に対する批判もなされるようになった。 特に患者に対する強制不妊手術・人工妊娠中絶手術の実施や、ハンセン病患者の強制隔離政策︵無癩県運動︶の推進に深く関わった点、1940年代以降、特効薬プロミンによる薬物療法の確立後も、強制隔離政策の継続を強く主張し、らい予防法︵1953年︶に積極的に関わった点等は、ハンセン病元患者や、藤野豊などのハンセン病問題を研究する歴史学者などから、差別や人権侵害を助長したものとして批判されている。 無癩県運動にかかわった組織による反省声明にも、光田の主張を受け入れてしまったことによる謝罪の弁があり[10]、文化勲章を剥奪すべきとする人もある[11]。 このような光田批判に対しては、当時の文脈においては合理的な判断であり、また光田自身には患者を救済しようとする人道的意図があったとして光田を擁護する反論もある。例えば、光田が患者救済と差別助長という矛盾した行動を取った背景について、藤野豊は﹁らいは恐ろしい伝染病であり、らい患者が存在することは文明国の恥である﹂という光田独自の考えがあったからではないかと論じている。 これに対して、光田に師事した医師犀川一夫は、光田が﹁たとえ病原菌が無くなっても、世間の差別の目のせいで元患者が社会復帰するのは難しい。だからあえて隔離するのだ﹂と主張した事例を紹介し、当時の患者を取り巻く状況においてはそれなりの合理的な理由があったのではと述べている[12]。 また、患者への断種については、優生学に基づくというより、患者間の性の問題が関係していたとして光田を擁護する論がある。それによれば、各地の国立療養所では、男女別に収容されていたにもかかわらず、早朝に施設を巡検すると男女が入り乱れて寝ている姿が発見されることなどがあり、結果的に望まぬ妊娠・出産が多発し、子供の扶養の問題が施設の運営を圧迫していた。 この問題に対して、ハンナ・リデルの運営する熊本回春病院などキリスト教系施設では、徹底して患者に禁欲を強いたが[13]、光田は人間の恋愛の情を強制的に禁ずることの惨さを批判し、一定の制約の下で結婚を認めようという現実的な方針を採用し、結婚の条件として患者に生殖能力を人工的に消失させる断種手術を課したという[14]。強制断種は当時においても違法であり、光田は﹁告訴されれば私が刑務所に行くまでだ﹂と確信的であったという[15]。 光田の人柄についても、傲慢という評価がある一方で、謙遜ではにかみ屋、気前がよい等の評価も見られる。実力者でありながら、医学博士号をとらなかったことを謙虚さの証とみる者もいる。1907年の日本医学校の卒業証書に及第と署名した18人の教員中、光田一人が﹁医学博士﹂とも﹁医学士﹂とも書いていなかったという[16]。年俸は全生病院時代は2000円、愛生園園長時代は4000円であったが、研究や患者に必要なものには気前よく支出したといい、気の毒な患者に会うと50銭を握らせたといったエピソードが語られている[17][18]。学問的業績
光田のハンセン病関連論文は5編の﹃癩に関する論文﹄に纏められている︵長濤会、1935〜11952年︶。以下には主要な論文等を挙げる。著者名のないものは光田の単著。 ●﹁癩性りんぱ腺炎について﹂東京医学会雑誌﹄13, 1899年 ●光田健輔・菅井竹吉﹁癩病の末梢神経および血管に於ける病変に就いて﹂﹃東京医学会雑誌﹄14,15, 1900年 ●﹁癩病の血管殊に静脈の変化及びその臨床的の意義について﹂﹃日本医学﹄15, 1906年 ●﹁癩病の中枢神経系における病理解剖知見増補﹂﹃神経学雑誌﹄6(6 and 7), 1906年 ●﹁癩性禿頭について﹂﹃東京医事新誌﹄1711, 1911年 ●﹁癩病に対する大風子油の価値﹂﹃皮膚科泌尿器科雑誌﹄12(12), 1912年 ●光田健輔・村田茂助﹁癩の血清反応について 第1報﹂﹃皮膚科及泌尿器科雑誌﹄19(7), 1919年 ●﹁癩結節乳剤を以てする皮膚反応の意義﹂﹃皮膚科及泌尿器科雑誌﹄19(8), 1919年 ●﹁疥癬と癩病との注染﹂﹃日本公衆保健協会雑誌﹄10(11), 1934年 ●Mitsuda K. "On the Langhans giant cell in leprosy and the stellete body in nodular leprosy". Int J Leprosy 3(3), 1935 ●﹁﹁ワゼクトミー﹂20周年﹂﹃愛生﹄第6巻4号、1936年 ●Mitsuda K, Ogawa M. "A study of 150 autopsies on cases of leprosy". Int J Leprosy 5(1),1937 ●Mitsuda K, Nagai K. "On alopecia leprosa". Int J Leprosy 5(3),1937 ●﹁﹁ワゼクトミー﹂に就いて﹂﹃皮膚科泌尿器科雑誌﹄41(3)、1937年 ●﹁30年間癩患者に接触したる石渡婦長の血液像と皮内反応﹂︵第12回日本癩学会総会 抄録︶﹃レプラ﹄13(1), 1941年 ●﹁癩型の分類について﹂﹃レプラ﹄15(2), 1943年 ●光田健輔・田尻敢・立川昇・本多正八郎﹁Cepharanthinによる癩の治療﹂﹃日本医学﹄3389, 1944年 ●﹁南方に行く程癩症軽るし﹂﹃レプラ﹄15(3), 1944年 ●佐藤秀三﹁第3回国際癩病学会概況﹂佐藤秀三により、同学会での光田の活躍が記される。 ●﹁癩病理講習会講演﹂︵1949年︶は質疑応答を含む。 ●光田健輔・横田篤三・犀川一夫﹁Promin並びに類似化合物による癩治療の協同研究﹂︵第13回癩学会 抄録︶﹃レプラ﹄20(5), 1951年 ●Atlas of Leprosy, 1952年︵図譜︶ ●"Primary and secondary tuberculoid leprosy". Int J Lepr 24(3):264-8; 1956 Jul-Sep. また、﹃愛生﹄開園50周年記念号︵昭和55年10別冊︶に﹃愛生﹄に書いたエッセイ、短歌、参考事項250編以上の題号が纏められている。文献
●光田健輔﹃回春病室﹄朝日新聞社、1950年︵朝日新聞社の藤本浩一と医師内田守による自叙伝︶ ●桜井方策編﹃救らいの父 光田健輔の思い出﹄ルガール社、1974年︵没後9年たって多くの人物による﹁思い出﹂をまとめたもの︶ その他、光田に関する論評や文献は多数存在する。脚注
関連項目
外部リンク
- 光田 健輔:作家別作品リスト - 青空文庫
- 厚生労働省「ハンセン病に関する情報ページ」
- ハンセン病問題に関する検証会議 最終報告書 - 公益財団法人 日弁連法務研究財団
- ハンセン病市民学会
- モグネット