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「光田健輔」の版間の差分

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[[1876年]](明治9年)[[1月12日]]、[[山口県]][[佐波郡 (山口県)|佐波郡]][[中関町|中関村]](現・[[防府市]])に生まれる。

[[1876年]](明治9年)[[1月12日]]、[[山口県]][[佐波郡 (山口県)|佐波郡]][[中関町|中関村]](現・[[防府市]])に生まれる。



[[高等小学校]]卒業後に上京し、医師[[賀古鶴所]]宅で住み込み書生をしながら苦学して、[[医術開業試験|医術開業前期試験]]に合格した。合格後は実技試験対策のために[[済生学舎]]に入学、1895年、開業後期試験に合格する。済生学舎の同期に[[野口英世]]がいる。

[[高等小学校]]卒業後に上京し、医師[[賀古鶴所]]宅で住み込み書生をしながら苦学して、[[医術開業試験|医術開業前期試験]]に合格した。合格後は実技試験対策のために[[済生学舎]]に入学、1895年、開業後期試験に合格する。済生学舎の同期に[[野口英世]]がいる。




[[]][[]][[]][[]]<ref></ref>

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[[1898]][[|]]7[[]][[1899]][[1908]]

[[1898]][[|]]7[[]][[1899]][[1908]]


[[1909年]]、公立癩療養所[[全生病院]]医長に就任。[[1914年]](大正3年)、全生病院長に就任するとともに、保健衛生調査会委員に就任し、ハンセン病予防事務視察のため、欧米各国などに渡る。[[1915年]]には、入所者に対してはじめて[[断種]]手術(ワゼクトミ-)を行う。これは男女別に収容されていた入所者間に子供が生まれたことを背景に、入所者間の所内結婚(通い婚)を認める条件として、男性入所者に対して行われたものであった。


[[1909]][[]][[1914]]3[[調]][[1915]][[]]


[[1919年]]に発表した論文「らい結節乳剤を以ってする皮膚反応の価値」は、ハンセン病の病型を診断する「光田反応」の開発へと繋がる研究成果であった。[[1923年]]に[[ストラスブール]]で開催された第3回国際らい学会では名誉会頭・座長を務め、「光田反応」などについて発表したが、反応はなかった<ref>第3回国際らい病学会概況 佐藤秀三 光田健輔 らいに関する論文第2編 1950</ref>。なお、光田反応は弟子の[[林文雄]]によって完成された。

[[1919年]]に発表した論文「らい結節乳剤を以ってする皮膚反応の価値」は、ハンセン病の病型を診断する「光田反応」の開発へと繋がる研究成果であった。[[1923年]]に[[ストラスブール]]で開催された第3回国際らい学会では名誉会頭・座長を務め、「光田反応」などについて発表したが、反応はなかった<ref>第3回国際らい病学会概況 佐藤秀三 光田健輔 らいに関する論文第2編 1950</ref>。なお、光田反応は弟子の[[林文雄]]によって完成された。

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[[1930年]](昭和5年)頃より日本政府によるらい根絶運動が本格化し、光田はその中心人物の一人となる。同年、[[岡山県]]の[[長島 (岡山県)|長島]]に完成した[[国立療養所長島愛生園]]の初代園長に就任する。1931年4月には[[癩予防法]]が改正され、全ハンセン病患者を強制隔離する[[無癩県運動]]がはじまった。[[1943年]]にハンセン病特効薬[[プロミン]]が開発され、[[1947年]]には日本でもプロミンによる治療が開始され、[[薬物療法]]が確立されて強制隔離の医学的必要性が疑われるようになっても、光田は強制隔離政策の維持・強化を主張し続けた。

[[1930年]](昭和5年)頃より日本政府によるらい根絶運動が本格化し、光田はその中心人物の一人となる。同年、[[岡山県]]の[[長島 (岡山県)|長島]]に完成した[[国立療養所長島愛生園]]の初代園長に就任する。1931年4月には[[癩予防法]]が改正され、全ハンセン病患者を強制隔離する[[無癩県運動]]がはじまった。[[1943年]]にハンセン病特効薬[[プロミン]]が開発され、[[1947年]]には日本でもプロミンによる治療が開始され、[[薬物療法]]が確立されて強制隔離の医学的必要性が疑われるようになっても、光田は強制隔離政策の維持・強化を主張し続けた。




[[1951]][[]]<ref>19511018[[]]</ref>[[]][[]]<ref>[http://www.city.okayama.jp/hishokouhou/hisho/hisho_00337.html ]</ref>[[|]][[]][[1943]][[]]<ref>  46</ref>195024[[]]<ref>    1965</ref>

[[1951]][[]]<ref>19511018[[]]</ref>[[]]<ref>{{Cite web||title= 4|website=[[]]|url=https://www.library.hofu.yamaguchi.jp/hurusato_jinbutsu/4_mitsuda_kensuke.pdf|accessdate=2022-07-20}}</ref>[[]]<ref>[http://www.city.okayama.jp/hishokouhou/hisho/hisho_00337.html ] {{Wayback|url=https://www.city.okayama.jp/hishokouhou/hisho/hisho_00337.html|date=20171203153845}}</ref>[[|]][[]][[1943]][[]]<ref>  46</ref>195024[[]]<ref>    1965</ref>



[[1953]][[]][[1957]]3退[[1961]]Damien-Dutton Award

[[1953]][[]][[1957]]3退[[1961]]Damien-Dutton Award

[[1951年]]不正入出国に関する件で衆議院行政監察特別委員会に[[証人喚問]]された<ref>[https://kokkai.ndl.go.jp/#/detail?minId=101004280X00719510518&current=154 第10回国会 衆議院 行政監察特別委員会 第7号 昭和26年5月18日]</ref>。



[[1964年]][[5月14日]]死去。[[享年]]89。死後2時間後、岡山大学の浜崎名誉教授と小川教授の執刀により、遺体が[[病理解剖]]された後<ref>桜井[1974:329-335]</ref>、遺骨は長島愛生園にある万霊山遺骨堂に納められた。叙・正三位、勲一等瑞宝章追贈。

[[1964年]][[5月14日]]死去。[[享年]]89。死後2時間後、岡山大学の浜崎名誉教授と小川教授の執刀により、遺体が[[病理解剖]]された後<ref>桜井[1974:329-335]</ref>、遺骨は長島愛生園にある万霊山遺骨堂に納められた。叙・正三位、勲一等瑞宝章追贈。

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また、19世紀末から20世紀初頭、市井において、ハンセン病患者に対する激しい忌避と[[差別]]感情が存在し、それに対し当時の[[内務省 (日本)|内務省]]が、本格的な対策を講じなかった状況において、果敢に患者の救済とハンセン病撲滅に献身したことも評価されている。以下の文化勳章受章理由は、光田に対する肯定的評価を代表するものである。

また、19世紀末から20世紀初頭、市井において、ハンセン病患者に対する激しい忌避と[[差別]]感情が存在し、それに対し当時の[[内務省 (日本)|内務省]]が、本格的な対策を講じなかった状況において、果敢に患者の救済とハンセン病撲滅に献身したことも評価されている。以下の文化勳章受章理由は、光田に対する肯定的評価を代表するものである。

{{Quotation|厚生技官(国立療養所長島愛生園長)光田健輔 明治9年1月12日生 癩患者の救済に挺身、癩予防法制定の原動力となり、全生病院医長、同病院長として浮浪病者の収容及び療養生活体の形成に苦心を重ね、内務省保健衛生調査医員として癩の根本的予防対策を建言、これによって国立療養所長島愛生園の設立をみるに至ったが、開設と同時に園長となり、その拡張完成に盡した。又、癩に関する社会各層の啓蒙、癩予防協会の設立に盡瘁、癩事業担当者を育成した。学術方面では癩の皮膚反応、病型分類等、幾多の研究成果をあげ、斯学の発達に寄与した。|内閣府}}

{{Quotation|厚生技官(国立療養所長島愛生園長)光田健輔 明治9年1月12日生 癩患者の救済に挺身、癩予防法制定の原動力となり、全生病院医長、同病院長として浮浪病者の収容及び療養生活体の形成に苦心を重ね、内務省保健衛生調査医員として癩の根本的予防対策を建言、これによって国立療養所長島愛生園の設立をみるに至ったが、開設と同時に園長となり、その拡張完成に盡した。又、癩に関する社会各層の啓蒙、癩予防協会の設立に盡瘁、癩事業担当者を育成した。学術方面では癩の皮膚反応、病型分類等、幾多の研究成果をあげ、斯学の発達に寄与した。|内閣府}}


[[20]][[]][[]][[]][[]]1940[[]][[]][[]][[1953]][[]][[]][[]]<ref>[[]]</ref>[[]]<ref>62008.3.13. </ref>

一方、主に[[20世紀]]後半以降、日本におけるハンセン病政策の不当性や、患者・元患者に対する[[人権蹂躙]]が論じられるようになるにつれ、光田に対する批判もなされるようになった。


[[]][[]][[]]1940[[]][[]][[]][[1953]][[]][[]]

[[無癩県運動]]にかかわった組織による反省声明にも、光田の主張を受け入れてしまったことによる謝罪の弁があり<ref>([[無癩県運動]]における[[真宗大谷派]]の謝罪声明を参照。)</ref>、[[文化勲章]]を剥奪すべきとする人もある<ref>国本衛「光田健輔と文化勲章」『ハンセン病市民学会ニュース』6号、2008.3.13. </ref>。







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[[]]姿

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この問題に対して、[[ハンナ・リデル]]の運営する[[熊本]]回春病院など[[キリスト教]]系施設では、徹底して患者に[[禁欲]]を強いたが<ref>青木恵哉『選ばれた島』</ref>、光田は人間の恋愛の情を強制的に禁ずることの惨さを批判し、一定の制約の下で[[結婚]]を認めようという現実的な方針を採用し、結婚の条件として患者に生殖能力を人工的に消失させる断種手術を課したという<ref>武田徹『「隔離」という病い---近代日本の医療空間』</ref>。強制断種は当時においても違法であり、光田は「告訴されれば私が[[日本の刑務所|刑務所]]に行くまでだ」と確信的であったという<ref>高山文彦『火花---北条民雄の生涯』</ref>。

この問題に対して、[[ハンナ・リデル]]の運営する[[熊本]]回春病院など[[キリスト教]]系施設では、徹底して患者に[[禁欲]]を強いたが<ref>青木恵哉『選ばれた島』</ref>、光田は人間の恋愛の情を強制的に禁ずることの惨さを批判し、一定の制約の下で結婚を認めようという現実的な方針を採用し、結婚の条件として患者に生殖能力を人工的に消失させる断種手術を課したという<ref>武田徹『「隔離」という病い---近代日本の医療空間』</ref>。強制断種は当時においても違法であり、光田は「告訴されれば私が[[日本の刑務所|刑務所]]に行くまでだ」と確信的であったという<ref>高山文彦『火花---北条民雄の生涯』</ref>。




[[]]190718<ref>[1974:64-65]</ref>2000400050<ref>[1974:160, 234]</ref><ref>[1974:234]</ref>

[[]]190718<ref>[1974:64-65]</ref>2000400050<ref>[1974:160, 234]</ref><ref>[1974:234]</ref>
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* Mitsuda K, Ogawa M. "A study of 150 autopsies on cases of leprosy". ''Int J Leprosy'' 5(1),1937

* Mitsuda K, Ogawa M. "A study of 150 autopsies on cases of leprosy". ''Int J Leprosy'' 5(1),1937

* Mitsuda K, Nagai K. "On alopecia leprosa". ''Int J Leprosy'' 5(3),1937

* Mitsuda K, Nagai K. "On alopecia leprosa". ''Int J Leprosy'' 5(3),1937

*「「ワゼクトミー」に就いて」『皮膚科泌尿器科雑誌』41(3)、1937年

* 「「ワゼクトミー」に就いて」『皮膚科泌尿器科雑誌』41(3)、1937年

* 「30年間癩患者に接触したる石渡婦長の血液像と皮内反応」(第12回日本癩学会総会 抄録)『レプラ』13(1), 1941年

* 「30年間癩患者に接触したる石渡婦長の血液像と皮内反応」(第12回日本癩学会総会 抄録)『レプラ』13(1), 1941年

* 「癩型の分類について」『レプラ』15(2), 1943年

* 「癩型の分類について」『レプラ』15(2), 1943年

* 光田健輔・田尻敢・立川昇・本多正八郎「Cepharanthinによる癩の治療」『日本医学』3389, 1944年

* 光田健輔・田尻敢・立川昇・本多正八郎「Cepharanthinによる癩の治療」『日本医学』3389, 1944年

* 「南方に行く程癩症軽るし」『レプラ』15(3), 1944年

* 「南方に行く程癩症軽るし」『レプラ』15(3), 1944年

* 佐藤秀三「第3回国際癩病学会概況」佐藤秀三により、同学会での光田の活躍が記される。

* 佐藤秀三「第3回国際癩病学会概況」佐藤秀三により、同学会での光田の活躍が記される。

* 「癩病理講習会講演」(1949年)は質疑応答を含む。

* 「癩病理講習会講演」(1949年)は質疑応答を含む。

* 光田健輔・横田篤三・犀川一夫「Promin並びに類似化合物による癩治療の協同研究」(第13回癩学会 抄録)『レプラ』20(5), 1951年

* 光田健輔・横田篤三・犀川一夫「Promin並びに類似化合物による癩治療の協同研究」(第13回癩学会 抄録)『レプラ』20(5), 1951年

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== 文献 ==

== 文献 ==

*光田健輔『回春病室』朝日新聞社、1950年(朝日新聞社の藤本浩一と医師[[内田守]]による自叙伝)

*光田健輔『回春病室』朝日新聞社、1950年(朝日新聞社の藤本浩一と医師[[内田守]]による自叙伝)

*桜井方策編『救らいの父 光田健輔の思い出』ルガール社、1974年(没後9年たって多くの人物による「思い出」をまとめたもの)

*桜井方策編『救らいの父 光田健輔の思い出』ルガール社、1974年(没後9年たって多くの人物による「思い出」をまとめたもの)

その他、光田に関する論評や文献は多数存在する。

その他、光田に関する論評や文献は多数存在する。



== 脚注 ==

== 脚注 ==

{{Reflist}}

<references/>



== 関連項目 ==

== 関連項目 ==

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== 外部リンク ==

== 外部リンク ==

* {{青空文庫著作者|1698|光田 健輔}}

* {{青空文庫著作者|1698|光田 健輔}}

* [http://www.mhlw.go.jp/topics/bukyoku/kenkou/hansen/index.html 厚生労働省「ハンセン病に関する情報ページ」]

* [https://www.mhlw.go.jp/topics/bukyoku/kenkou/hansen/index.html 厚生労働省「ハンセン病に関する情報ページ」]

* [http://www.jlf.or.jp/work/hansen_report.shtml 財団法人日弁連法務研究財団『ハンセン病問題に関する検証会議 最終報告書]

* [https://www.jlf.or.jp/work/hansen/report/ ハンセン病問題に関する検証会議 最終報告書] - 公益財団法人 日弁連法務研究財団

* [http://shimingakkai.com/ ハンセン病市民学会]

* [http://shimingakkai.com/ ハンセン病市民学会]

* [http://www.eonet.ne.jp/~libell/main.html ハンセン病のリンク集]

* [http://www.mognet.org/ モグネット]

* [http://www.mognet.org/ モグネット]



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{{DEFAULTSORT:みつた けんすけ}}

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[[Category:日本の病理学者]]

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[[Category:日本の皮膚科医]]

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[[Category:日本の厚生労働技官]]

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[[Category:証人喚問された人物]]

[[Category:東京大学出身の人物]]

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[[Category:勲一等瑞宝章受章者]]

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[[Category:山口県出身の人物]]

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[[Category:1876年生]]

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[[Category:1964年没]]

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[[Category:ハンセン病]]


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光田健輔(1956年)

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13, 1899

14,15, 1900

15, 1906

6(6 and 7), 1906

禿1711, 1911

尿12(12), 1912

 1尿19(7), 1919

尿19(8), 1919

10(11), 1934

Mitsuda K. "On the Langhans giant cell in leprosy and the stellete body in nodular leprosy". Int J Leprosy 3(3), 1935

20641936

Mitsuda K, Ogawa M. "A study of 150 autopsies on cases of leprosy". Int J Leprosy 5(1),1937

Mitsuda K, Nagai K. "On alopecia leprosa". Int J Leprosy 5(3),1937

尿41(3)1937

3012 13(1), 1941

15(2), 1943

Cepharanthin3389, 1944

15(3), 1944

3

1949

Promin13 20(5), 1951

Atlas of Leprosy, 1952

"Primary and secondary tuberculoid leprosy". Int J Lepr 24(3):264-8; 1956 Jul-Sep.

505510250

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1950

 19749


脚注[編集]



(一)^ 

(二)^ 3   2 1950

(三)^ 19511018

(四)^ 4. . 2022720

(五)^   2017123 - 

(六)^   46

(七)^     1965

(八)^ 10   7 26518

(九)^ [1974:329-335]

(十)^ 

(11)^ 62008.3.13. 

(12)^ 

(13)^ 

(14)^ ---

(15)^ ---

(16)^ [1974:64-65]

(17)^ [1974:160, 234]

(18)^ [1974:234]

関連項目[編集]

外部リンク[編集]