「光田健輔」の版間の差分
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光田はハンセン病の治療、研究に長年従事し、ハンセン病関連の政策や患者救済事業に積極的に取り組んだパイオニア的な存在として、医学界からも社会からも高く評価され、文化勲章やダミアン・ダットン賞を受けている。 |
光田はハンセン病の治療、研究に長年従事し、ハンセン病関連の日本おける政策提言や、患者救済事業に積極的に取り組んだ「パイオニア的な存在」として、医学界からも社会からも高く評価され、文化勲章やダミアン・ダットン賞を受けている。 |
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病理学においては、多くの診察・解剖を通じて、結核とらいの合併の証明、中枢神経病変、動脈病変の研究など、広範囲にわたる業績を残した。特に1919年の﹁らい結節乳剤を以てする皮膚反応の価値﹂は、病型分類に大きく貢献する﹁光田反応﹂の基礎となる内容で、世界に先駆けた業績として高く評価される。光田反応は、その後、[[林文雄]]をはじめとする光田の門下生により完成された。ただしこの反応自体は現在は抗原を入手することが困難になり、行われることは少ない。
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病理学においては、多くの診察・解剖を通じて、結核とらいの合併の証明、中枢神経病変、動脈病変の研究など、広範囲にわたる業績を残した。特に1919年の﹁らい結節乳剤を以てする皮膚反応の価値﹂は、病型分類に大きく貢献する﹁光田反応﹂の基礎となる内容で、世界に先駆けた業績として高く評価される。光田反応は、その後、[[林文雄]]をはじめとする光田の門下生により完成された。ただしこの反応自体は現在は抗原を入手することが困難になり、行われることは少ない。
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また、19世紀末から20世紀初頭、市井において、ハンセン病患者に対する激しい忌避と[[差別]]感情が存在し、それに対し当時の[[内務省 (日本)|内務省]]が、本格的な対策を講じなかった状況において、果敢に患者の救済とハンセン病撲滅に献身したことも評価されている。以下の文化勳章受章理由は、光田に対する肯定的評価を代表するものである。
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また、19世紀末から20世紀初頭、市井において、ハンセン病患者に対する激しい忌避と[[差別]]感情が存在し、それに対し当時の[[内務省 (日本)|内務省]]が、本格的な対策を講じなかった状況において、果敢に患者の救済とハンセン病撲滅に献身したことも評価されている。以下の文化勳章受章理由は、光田に対する肯定的評価を代表するものである。
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{{Quotation|厚生技官(国立療養所長島愛生園長)光田健輔 明治9年1月12日生 癩患者の救済に挺身、癩予防法制定の原動力となり、全生病院医長、同病院長として浮浪病者の収容及び療養生活体の形成に苦心を重ね、内務省保健衛生調査医員として癩の根本的予防対策を建言、これによって国立療養所長島愛生園の設立をみるに至ったが、開設と同時に園長となり、その拡張完成に盡した。又、癩に関する社会各層の啓蒙、癩予防協会の設立に盡瘁、癩事業担当者を育成した。学術方面では癩の皮膚反応、病型分類等、幾多の研究成果をあげ、斯学の発達に寄与した。|内閣府}} |
{{Quotation|厚生技官(国立療養所長島愛生園長)光田健輔 明治9年1月12日生 癩患者の救済に挺身、癩予防法制定の原動力となり、全生病院医長、同病院長として浮浪病者の収容及び療養生活体の形成に苦心を重ね、内務省保健衛生調査医員として癩の根本的予防対策を建言、これによって国立療養所長島愛生園の設立をみるに至ったが、開設と同時に園長となり、その拡張完成に盡した。又、癩に関する社会各層の啓蒙、癩予防協会の設立に盡瘁、癩事業担当者を育成した。学術方面では癩の皮膚反応、病型分類等、幾多の研究成果をあげ、斯学の発達に寄与した。|内閣府}} |
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一方、主に[[20世紀]]後半以降、日本におけるハンセン病政策の不当性や、患者・元患者に対する[[人権蹂躙]]が論じられるようになるにつれ、光田に対する批判もなされるようになった。特に患者に対する強制 |
一方、主に[[20世紀]]後半以降、日本におけるハンセン病政策の不当性や、患者・元患者に対する[[人権蹂躙]]が論じられるようになるにつれ、光田に対する批判もなされるようになった。特に患者に対する強制[[不妊手術]]・[[人工妊娠中絶]]手術の実施や、ハンセン病患者の強制隔離政策([[無癩県運動]])の推進に深く関わった点、1940年代以降、特効薬[[プロミン]]等による[[薬物療法]]の確立後も強制隔離政策の継続を強く主張し、[[らい予防法]]([[1953年]])に積極的に関わった点等は、ハンセン病元患者や、[[藤野豊]]などのハンセン病問題を研究する[[歴史学者]]などから、差別や人権侵害を助長したものとして批判されている。[[無癩県運動]]にかかわった組織による反省声明にも、光田の主張を受け入れてしまったことによる謝罪の弁があり<ref>([[無癩県運動]]における真宗大谷派の謝罪声明を参照。)</ref>、[[文化勲章]]を剥奪すべきとする人もある<ref>国本衛「光田健輔と文化勲章」『ハンセン病市民学会ニュース』6号、2008.3.13. </ref>。 |
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このような光田批判に対しては、当時の文脈においては合理的な判断であり、また光田自身には患者を救済しようとする人道的意図があったとして光田を擁護する反論もある。例えば、光田が患者救済と差別助長という矛盾した行動を取った背景について、藤野豊は﹁らいは恐ろしい伝染病であり、らい患者が存在することは文明国の恥である﹂という光田独自の考えがあったからではないかと論じている。
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このような光田批判に対しては、当時の文脈においては合理的な判断であり、また光田自身には患者を救済しようとする人道的意図があったとして光田を擁護する反論もある。例えば、光田が患者救済と差別助長という矛盾した行動を取った背景について、藤野豊は﹁らいは恐ろしい伝染病であり、らい患者が存在することは文明国の恥である﹂という光田独自の考えがあったからではないかと論じている。
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2016年12月21日 (水) 21:14時点における版
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/5/58/Mitsuda_Kensuke.jpg/220px-Mitsuda_Kensuke.jpg)