北川冬彦
北川 冬彦 (きたがわ ふゆひこ) | |
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1941年4月頃 | |
誕生 |
田畔 忠彦(たぐろ ただひこ) 1900年6月3日 日本・滋賀県大津 |
死没 |
1990年4月12日(89歳没) 日本・東京都立川市 |
墓地 | 多磨霊園 |
職業 | 詩人、映画評論家 |
言語 | 日本語 |
国籍 | 日本 |
最終学歴 |
第三高等学校(現・京都大学 総合人間学部)文科丙類卒業 東京帝国大学法学部フランス法、文学部仏文科卒業 |
活動期間 | 1924年 - 1980年 |
ジャンル | 詩、翻訳、映画評論、小説 |
主題 | ダダイズム、シュルレアリスム |
文学活動 | 新興芸術派 |
代表作 |
『検温器と花』(1926年) 『戦争』(1929年) 『氾濫』(1948年) |
デビュー作 | 『三半規管喪失』(1925年) |
配偶者 | 仲町貞子(離婚) |
影響を受けたもの
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ウィキポータル 文学 |
北川 冬彦︵きたがわ ふゆひこ、1900年︿明治33年﹀6月3日 - 1990年︿平成2年﹀4月12日[1]︶は、日本の詩人、映画評論家。﹃悪夢﹄(1947年)などの小説作品もある[2]。本名は田畔 忠彦︵たぐろ ただひこ︶[1]。
第1詩集﹃三半規管喪失﹄(1925年)を自費出版、詩誌﹁詩と詩論﹂を創刊し、新散文詩運動を展開した。戦後は新現実主義を提唱し、現代詩の可能性を追究した。作品に詩集﹃戦争﹄(1929年)など。
人物・来歴[編集]
滋賀県大津に生まれながら、父親の仕事関係で満州で育ち[3]、軍国主義の旅順中学で5年間寄宿舎生活を送った[4]。 1919年︵大正8年︶に第三高等学校︵現・京都大学 総合人間学部︶文科丙類︵フランス語必修︶に入学。柔道をしていた北川は、1921年︵大正10年︶秋頃、新京極の﹁江戸カフェ﹂にたむろする同志社大学の猛者を追っ払い、それを見ていて感激した梶井基次郎︵三高理科甲類︶と言葉を交わす[4][5]。 1922年︵大正11年︶に三高を卒業し、東京帝国大学法学部フランス法に入学[6]。詩の創作を始めた北川は、1924年︵大正13年︶11月、安西冬衛らと詩誌﹃亜﹄を創刊。現代詩、特に新散文詩を発表。1925年︵大正14年︶1月に詩集﹃三半規管喪失﹄を出版し、横光利一から激励の手紙を送られ高評価された[3][6]。 1925年︵大正14年︶3月に仏法を修了した後、改めて文学を勉強するため4月から文学部仏文科に再入学[7]。帝大文芸部の﹃朱門﹄の同人となり、池谷信三郎、阿部知二、古澤安二郎、久板栄二郎、舟橋聖一と知り合った[8][9]。 同年、三高で顔見知りだった梶井基次郎らの同人誌﹃青空﹄に掲載された梶井の﹁檸檬﹂に感銘を受ける[6]。共通の友人宅で梶井と再会し、同人参加の誘いを受け、その後1926年︵大正15年︶12月の第22号から同人となった北川は[6][8]、第24号に発表した﹁軍港を内臓してゐる﹂︵初出では﹁内蔵﹂だった︶という一行詩﹁馬﹂を梶井から激賞された[10]。 1928年︵昭和3年︶、春山行夫、西脇順三郎、北園克衛らと詩雑誌﹃詩と詩論﹄創刊に参加し、1929年︵昭和4年︶10月刊行の詩集﹃戦争﹄で脚光を浴びた[1]。梶井基次郎はこの詩集の書評を﹃文學﹄11月号に寄せた[11][12]。 北川は詩を発表しながら、飯島正の誘いもあって映画評論を書き続けた[4]。伊藤大輔が代表する﹁韻文映画﹂に対して、﹁散文映画﹂を提唱し、その旗手として伊丹万作を高く評価した。シナリオ文学の独自性をも標榜した。北川が中心となって﹁シナリオ研究十人会﹂が結成され、機関誌として﹃シナリオ研究﹄が刊行され、萩原朔太郎がそこにシネポエムや﹃文学としてのシナリオ﹄なるエッセイを発表した[13]。 戦後、詩、映画ともに対してネオリアリズムを標榜し、第2次﹃時間﹄を主宰していた[1]。また、戦前からレーゼシナリオに関心を持ち、﹁レーゼシナリオはまた新形式として文學の野を豊かにするだろう﹂と述べている[14]。 晩年は1963年︵昭和38年︶から立川市に住まいを構え、現代詩の改革を続けた[3]。1980年︵昭和55年︶には、詩﹁石﹂が彫られた﹁青少年に贈る碑﹂︵縦80センチ、横180センチの詩碑︶が立川市市民体育館︵泉町786-11︶の前庭に建立された[3]。著作[編集]
●﹃北方﹄︵蒲田書房、1935年︶ ●﹃詩人の行方﹄︵第一芸文社、1936年︶ ●﹃古鏡﹄︵河出書房、1940年︶ - 小説集 ●﹃悪夢―小説﹄︵地平社、1947年︶ ●﹃詩の話﹄︵宝文館、1949-1951年。のち角川文庫︶ ●﹃現代詩鑑賞﹄︵有信堂、1970年︶詩集[編集]
●﹃三半規管喪失﹄︵至上藝術社、1925年︶ ●﹃檢温器と花﹄︵ミスマル社、1926年︶ ●﹃戰爭﹄︵厚生閣書店、1929年︶ ●﹃氷﹄︵蒲田書房、1933年︶ ●﹃いやらしい神﹄︵蒲田書房、1936年︶ ●﹃實驗室﹄︵河出書房、1941年︶ ●﹃蛇﹄︵爐書房、1947年︶ ●﹃氾濫 長編叙事詩﹄︵草原書房、1948年︶ ●﹃夜陰﹄︵天平出版部、1948年︶ ●﹃花電車﹄︵宝文館、1949年︶ ●﹃北川冬彦詩集﹄︵宝文館 1951年︶ ●﹃馬と風景 1947-1952﹄︵時間社、1952年︶ ●﹃カクテル・パーティ 詩と随筆集﹄︵宝文館、1953年︶ ●﹃北川冬彦詩集﹄︵角川文庫、1954年︶ ●﹃現代詩﹄第1-3︵角川新書、1954-1957年︶ ●﹃しんかん 信管, 振撼, 森閑, 心肝﹄︵時間社、1964年︶ ●﹃北京郊外にて﹄︵時事通信社、1973年︶ ●﹃カラー詩と風景﹄︵山と渓谷社、1975年︶ ●﹃大蕩尽の結果﹄︵未来工房、1977年︶ ●﹃北川冬彦全詩集﹄︵鶴岡善久編 沖積舎、1988年︶ ●﹃北川冬彦詩集﹄︵鶴岡善久編 沖積舎、2000年︶映画評論[編集]
●﹃純粹映畫記﹄︵第一藝文社、1936年︶ ●﹃シナリオ文學論﹄︵作品社、1938年︶ ●﹃散文映畫論﹄︵作品社、1940年︶ ●﹃現代映畫論﹄︵三笠書房、1941年︶ ●﹃映画への誘い﹄︵温故堂出版部、1952年︶ ●﹃シナリオの魅力﹄︵社会思想研究会出版部、1953年。現代教養文庫︶作詞[編集]
●鶴岡市民歌︵作曲‥中田喜直、1956年︶ - 鶴岡市の新設合により失効、2017年制定の現市民歌とは同名異曲。共編著[編集]
●﹃培養土 麺麭詩集﹄︵山雅房、1941年︶ ●﹃昆侖詩文集﹄︵昆侖社、1941年︶ ●﹃世界映画の鑑賞﹄岩崎昶共編︵双竜社、1951年︶ ●﹃新しい世代の詩 その作り方と解説・批評﹄桜井勝美共著︵宝文館、1954年︶翻訳[編集]
●﹃骰子筒﹄マックス・ジャコブ︵現代の芸術と批評叢書 厚生閣書店、1929年︶ ●﹃最後の戦闘機﹄ジョセフ・ケツセル 井原彦六共訳︵西東書林、1936年︶ ●﹃神曲 現代訳 地獄篇﹄ダンテ︵創元社、1953年︶ ●﹃﹁パロール﹂抄﹄ジャック・プレヴェール︵有信堂、1960年︶関連項目[編集]
●シネポエム ●阿Q正伝 - 本作をシナリオ化した。 ●萩原朔太郎 ‐ 北川が﹃日本近代文学大系﹄︵1971年、角川書店︶に朔太郎の解説を書いた[15]。朔太郎もエッセイ﹃文学としてのシナリオ﹄で、北川に言及した[16]。脚注[編集]
- ^ a b c d 北川冬彦、デジタル版 日本人名大辞典+Plus
- ^ 南方徴用作家参考資料
- ^ a b c d 北川冬彦、歴史が眠る多磨霊園
- ^ a b c 中谷孝雄・北川冬彦・飯島正・浅野晃「座談会 梶井基次郎――若き日の燃焼」(浪曼 1974年2月号)。別巻 2000, pp. 217–228に所収
- ^ 「第五章 青春の光と影――三高前期」(大谷 2002, pp. 74–104)
- ^ a b c d 「第七章 天に青空、地は泥濘――本郷と目黒にて」(大谷 2002, pp. 137–161)
- ^ 「第二部 第一章 大学生活」(柏倉 2010, pp. 111–122)
- ^ a b 「第八章 冬至の落日――飯倉片町にて」(大谷 2002, pp. 162–195)
- ^ 北川冬彦・鈴木沙那美「北川冬彦氏に聞く」(早稲田文学 1981年11月号)。別巻 2000, pp. 106–110に抜粋所収
- ^ 「第九章 白日の闇――湯ヶ島その一」(大谷 2002, pp. 196–215)
- ^ 「第十二章 小さき町にて――王子町四十四番地」(大谷 2002, pp. 259–282)
- ^ 「第四部 第三章 社会への関心」(柏倉 2010, pp. 377–385)
- ^ ゆまに書房HP 、朔太郎著作一覧「文学論」を検索すると本エッセイが載っている
- ^ 自著「純粋映画記「『野生の叫び』の一場面」の章「端緒」の節」
- ^ 『北川冬彦全詩集』巻末年譜(沖積舎)
- ^ 筑摩書房から刊行された『萩原朔太郎全集 第十一巻』所収(576頁)