本願寺津村別院
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本願寺津村別院 | |
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所在地 | 大阪府大阪市中央区本町4丁目1-3 |
位置 | 北緯34度41分8秒 東経135度29分59秒 / 北緯34.68556度 東経135.49972度座標: 北緯34度41分8秒 東経135度29分59秒 / 北緯34.68556度 東経135.49972度 |
山号 | 龍谷山 |
宗旨 | 浄土真宗 |
宗派 | 浄土真宗本願寺派 |
寺格 | 本願寺別院 |
本尊 | 阿弥陀如来 |
創建年 | 天正20年(1592年) |
別称 | 北御堂 |
文化財 | 木造阿弥陀如来立像(市指定有形文化財) |
公式サイト | 北御堂 (浄土真宗本願寺派 本願寺津村別院) |
法人番号 | 1120005001591 |
本願寺津村別院︵ほんがんじつむらべついん︶は、大阪市中央区本町にある浄土真宗本願寺派の寺院。本山西本願寺の別院。山号は龍谷山。本尊は阿弥陀如来。通称は北御堂︵きたみどう︶と呼ばれる。
住職は浄土真宗本願寺派門主が兼ねるが、別院輪番が置かれて実務を主管している。浄土真宗本願寺派の大阪教区教務所が併設されているが、教務所長は津村別院の副輪番である。
別院名の﹁津村﹂とは戦国時代に見られる摂津国西成郡の郷名で、入り江であった古代の円江︵つぶらえ︶から転じたといわれる。船場が市街化された後も、1872年︵明治5年︶まで当院北に位置する御霊神社にかけての町名・津村南之町︵当院北側の備後町通沿い︶となっていた。また、当院東側の御堂筋は、北御堂と南御堂︵真宗大谷派難波別院︶の門前を通る道であることに由来する。
歴史[編集]
天満にあった天満本願寺が京都の堀川六条に寺基を移した後︵西本願寺︶、大坂の門徒たちにより天正20年︵1592年︶に楼の岸︵ろうのきし、現・中央区天満橋京町の八軒家浜近辺︶に集会所が設けられた。これが津村別院の始まりである。 集会所は慶長2年︵1597年︶に津村とも円江︵つぶらえ︶とも呼ばれていた当地に移転すると、津村御坊に名称を改め慶長10年︵1605年︶に本堂が建立された。 江戸時代になると当院は整備されて本堂、書院、対面所、台所、鐘楼、山門などを備える大きな寺院となっており、明暦元年︵1655年︶には、朝鮮通信使の宿舎として使用され、約800人が宿泊している。なお、当院は合計で9回も朝鮮通信使の宿舎に使用されている。 元禄5年︵1692年︶には建物の改築や境内地の拡張が行われ、元禄7年︵1694年︶に二尊堂︵蓮如堂︶が建立された。が、元禄9年︵1696年︶に二尊堂が焼失する。すぐに二尊堂の再建が行われるが同時に寺地が拡張され、元禄12年︵1699年︶に再興慶讃法要が行われ、享保7年︵1722年︶にようやく二尊堂が完成した。 享保9年︵1724年︶3月21日の享保の大火により堂舎が焼失するが、享保19年︵1734年︶に再び境内地を拡張したうえで再建された。 弘化3年︵1846年︶に二尊堂が再建される。 1868年︵明治元年︶1月に津村御坊に大坂鎮台︵大坂裁判所︶が置かれたほか、3月には明治天皇が行幸され書院が天皇の行在所とされた。また、1872年︵明治5年︶5月、6月も明治天皇の行在所となっている。 1873年︵明治6年︶には大阪府病院が当院に移転し、本堂を除くほとんどの建物が病院に貸与された。 1876年︵明治9年︶に津村御坊から津村別院に名称を改めている。 1878年︵明治11年︶9月2日に、当院で大阪商法会議所の第一回総会が開催され、五代友厚が初代会頭に選出されている。また、翌1879年︵明治12年︶に大阪府病院が中之島に移転して建物が返却された。 1888年︵明治21年︶には境内の南側に第21代宗主の明如︵大谷光尊︶により、相愛女学校︵現・相愛大学本町キャンパス及び相愛中学校・高等学校︶が設立されている。 明治時代と大正時代にも境内地が広げられ、当院は約6,596坪の広さとなっていたが、1927年︵昭和2年︶に御堂筋の拡張工事のために境内地の東側が売却された。 1930年︵昭和5年︶には地下鉄御堂筋線の工事のため、境内の東側が削り取られている。 太平洋戦争中の1945年︵昭和20年︶3月13日・14日の第1回大阪大空襲で全焼している。この時、本堂に200から300発、対面所にも100発の焼夷弾が降り注いだという。 1946年︵昭和21年︶3月には仮本堂の建築に着手して1951年︵昭和26年︶6月に完成したが、1954年︵昭和29年︶6月9日に火事によって焼失した。 1964年︵昭和39年︶4月に鉄筋コンクリート構造で本堂が再建された。 1965年︵昭和40年︶に境内の南東に御堂ビルディング︵御堂ビル︶が建てられると[1]、竹中工務店本社・大阪本店となっている。 1966年︵昭和41年︶に第1回御堂まつりが北御堂と南御堂︵真宗大谷派難波別院︶が中心になって行われる。これが後には御堂筋パレードになる。 1969年︵昭和44年︶には山門の南に大阪第二有楽ビルが建てられている[2]。 2019年︵平成31年︶1月9日に、山門の下1階部分に﹁北御堂ミュージアム﹂が開館した[3]。大坂本願寺以来の大阪と本願寺の関わりと、その周知を意図してのものである。境内[編集]
東を御堂筋、南を本町通、西を渡辺筋、北を備後町通に囲まれた範囲が元来の境内地であるが、現在は 北御堂はその北寄りに位置し、南西に系列の相愛大学本町キャンパス及び相愛中学校・高等学校、南東に大阪第二有楽ビル、御堂ビル︵竹中工務店本社・大阪本店︶が所在している。 ●本堂 - 1964年︵昭和39年︶4月再建。4階建ての鉄筋コンクリート構造で、屋根は宝形造。1階が寺務所など、2階が津村ホールなど、3階が書院などになっており、4階が本堂である。2012年︵平成24年︶から翌年にかけて修理された。 ●親鸞聖人像 ●蓮如上人像 ●山門 ●北御堂ミュージアム - 2019年︵平成31年︶1月9日開館。山門の下にある。 ●相愛大学本町キャンパス - 1888年︵明治21年︶に第21代宗主の明如︵大谷光尊︶により相愛女学校として設立された。 ●相愛中学校・高等学校 - 1947年︵昭和22年︶に相愛中学校が、次いで1948年︵昭和23年︶に相愛高等学校が設立された。文化財[編集]
大阪市指定有形文化財[編集]
●木造阿弥陀如来立像アクセス[編集]
OsakaMetro︵御堂筋線・中央線・四つ橋線︶本町駅A階段2番出口から左側すぐ。脚注[編集]
- ^ 新たな価値創造と生産性向上を目指し、大阪本店「御堂ビル」をリニューアル竹中工務店(2022年2月7日閲覧)
- ^ 大阪第二有楽ビル大成有楽不動産(2022年2月7日閲覧)
- ^ “大阪・北御堂にミュージアム 模型や年表で大阪の歴史伝える”. 船場経済新聞. (2019年1月9日) 2020年9月28日閲覧。