松平忠済
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松平 忠済 | |
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時代 | 江戸時代中期 - 後期 |
生誕 | 寛延4年8月24日(1751年10月13日) |
死没 | 文政11年7月26日(1828年9月5日) |
改名 | 幸之助(幼名)、忠済 |
墓所 | 東京都港区虎ノ門の天徳寺 |
官位 | 従五位下・左衛門佐、伊賀守 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川家治、家斉 |
藩 | 信濃上田藩主 |
氏族 | 藤井松平家 |
父母 | 父∶松平忠順、母∶山本氏 |
兄弟 |
忠済、為三郎、忠脩、池田輝名、 岡部重則室、結子 |
妻 |
松平武元娘 木村氏、小林氏、磯氏、吉野氏 |
子 |
忠英、忠和、丹羽氏昭正室、光柏院、 岡部長慎正室、永井尚監正室、 相馬樹胤正室、柳生俊睦正室、松平忠徳正室ら 養子∶忠学 |
松平 忠済︵まつだいら ただまさ︶は、江戸時代中期から後期にかけての大名。信濃国上田藩4代藩主。官位は従五位下・左衛門佐、伊賀守。伊賀守系藤井松平家6代。
長男の忠英は嫡子だったが、家督相続前に21歳で死去した。四男の忠和は5代藩主・忠学の養子となったものの、これも23歳で早世し、伊賀守系藤井松平家の嫡流は絶えた。次女が忠学の正室となり、他家に嫁いだ娘は6人いる。
生涯[編集]
寛延4年︵1751年︶8月24日、3代藩主・松平忠順の長男として上田で誕生した。 天明3年︵1783年︶、父の死去により家督を継ぐ。幕命による普請手伝いや桜田御門番、西の丸大手門番などを歴任したため、藩財政が悪化した。明和6年︵1769年︶に従五位下・左衛門佐に叙位・任官する。武芸を奨励し、武芸稽古所を創設した。 長男の忠英が早世すると、晩年には家督相続をめぐっての争いが起こり、忠済は分家の忠学を養子として迎え、文化9年︵1812年︶5月6日に家督を忠学に譲って隠居した。文政11年︵1828年︶7月26日に江戸で死去した。享年78。系譜[編集]
父母 ●松平忠順︵父︶ ●山本氏 ー 側室︵母︶ 正室 ●松平武元の娘 側室 ●木村氏 ●小林氏 ●磯氏 ●吉野氏 子女 ●松平忠英︵長男︶ ●松平忠和︵次男︶ ●丹羽氏昭正室 ●光柏院 ー 松平忠学正室 ●岡部長慎正室 ●永井尚監正室 ●相馬樹胤正室 ●柳生俊睦正室 ●松平忠徳正室 養子 ●松平忠学 ー 松平忠明の次男長男の忠英は嫡子だったが、家督相続前に21歳で死去した。四男の忠和は5代藩主・忠学の養子となったものの、これも23歳で早世し、伊賀守系藤井松平家の嫡流は絶えた。次女が忠学の正室となり、他家に嫁いだ娘は6人いる。