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蜃気楼

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ユタ州グレートソルト湖の蜃気楼(浮島現象)

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年代 出来事
604年(推古天皇12年) 十七条憲法制定までに蜃気楼の存在を『史記』により知る。

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607 -615年 遣隋使一行(小野妹子など)が、蜃気楼が現れる山東半島の蓬莱を四度ほど訪れる。
630 -665年 遣唐使一行が、山東半島の蓬莱を四度ほど訪れる。759年にも訪れている。
840年 叡山僧円仁が、山東半島の蓬莱を訪れる。また845-847年の間、山東半島の赤山に滞在。
1596年(万暦23年)頃 「『本草綱目1578年万暦6年)李時珍1518年 - 1593年)の輸入」により、長崎に『本草綱目』が中国から入る。「月令」にも触れて「」は、ハマグリではなく蛟竜(竜の一種)に属する蜃が気を吐いて蜃気楼を作るとある。
1607年(慶長12年) 林羅山が、長崎で『本草綱目』を入手し、駿府に滞在していた徳川家康に献上した。本草学の基本書として学識が広がり、長期に亙って和刻本(和刻本は3系統14種類に及ぶ)も数多く出版された。
1627年寛永 4年) 徳川家光が、東叡山寛永寺に、東照宮を建立。銅灯篭の飾りに蜃(みずち)を用いた。
1669年(寛文 9年) 『寛文紀行(寛文東行記)』加賀藩に仕えた澤田宗堅の刊行に、蜃気楼についての漢詩が詠まれている。
1709年宝永 7年) 大和本草貝原益軒の刊行に、『本草綱目』を基にして「蜃」は竜の一種と記述されて一級の知識人層に広まっている。
1711年(宝永 8年) 「『北越軍談1698年元禄11年)槇島昭武の同系統の諸本の校合」を行い大阪高麗橋の野村長兵衛胃が刊行。この写しの上杉史料集(昭和42年3月初版)は、「越中魚津蜃楼付乾闥婆城の事」の項を表し、1564年(永禄7年)に上杉謙信が家臣(本庄繁長柿崎景家)と供に貝の城(蜃気楼)を見たと記し、故老の説を上げて車螯の蜃気楼、山東半島の蜃気楼、海市、乾闥婆城を列挙した。仏教信仰と結合していることを示した。但し、魚津の故老の話であり、そもそも『北越軍談』は上杉家が書いたものではなく、また、『魚津古今記』の記録に挙がっていないことから批判がある。あとの前田綱紀の「喜見城」とは同じ天龍八部衆(帝釈天、龍王龍女と乾闥婆)で語る魚津の信仰の深さを示したが、あとから後の布石として差し込み置かれたとも考えられている。なお、日本に現存する最古の『史記』(南宋版本1195年1201年建安で刊行:国宝)は、妙心寺南化から直江兼続に渡り、その後米沢藩藩校興譲館」で保管されており、もしも上杉家の蜃気楼の記録ならかような記述にはならない。
1712年 百科辞典『和漢三才図会寺島良安の発刊に、竜に属する蜃が蜃気楼を起こすという記述、大型のハマグリである車螯(わたりがい)が蜃気楼を起こすという記述をし、車螯は別名を蜃ともいうが竜の蜃とは別種のものとして区別を示し、二種類の蜃の蜃気楼を収録した。
(1735-1796年 『結蜃楼、二商生』古墨の汪節庵製に、絵図と「海蔵寺竜宮層楼」となどと記録した(墨を媒体として日本に伝わったこと日本蜃気楼協議会が2020年に複製の模造品を公開)。
1781年安永10年) 今昔百鬼拾遺』妖怪画集では、『史記』の「海旁蜃気象楼台、広野気成宮闕然」を引用したが、改めて加えて「蜃とは大蛤なり」と述べ、「蜃気楼」の名で大ハマグリが気を吐いて楼閣を作り出す姿が、妖怪浮世絵に描かれた。この絵図は画題として写しを重ねて広重の浮世絵など江戸後期には風俗商売となり庶民が楽しんだ。なお、竜と蛤と両方を印すものも多く現れた。
蜃気楼(鳥山石燕今昔百鬼拾遺』)
(1754-1829年) 紀行文と絵図として、旅行家、博物学者の菅江真澄(すがえますみ)は、東北地方の蜃気楼を記録した。
1788年天明 8年) 魚津古今記』加賀藩当主である前田綱紀が、魚津で蜃気楼を見て吉兆であると「喜見城」(「きけんじょう」=須弥山の頂上の忉利天にある帝釈天の居城)と名づけたと伝え、立山(りゅうさん)信仰と結合していることを示した。古来、魚津に在した佐伯(大伴)氏に立山信仰の政治的起点がある。魚津は大伴家持「立山賦」、大伴池主「敬和立山賦」に謳われ、古来の剣山刀尾(たちお)天神から佐伯有若の白鷹伝説に伝たわって立山開山縁起に現れるほどで、後世におさめた前田家の立山崇敬と融和している。立山開山は、佐伯氏である西国の空海叡山円珍にも導かれ、伝承の魚津に始まり岩峅寺、芦峅寺から室堂平に至って開かれ、禅定立山登山道に置かれた西国三十三番札所観世音菩薩霊場の石仏たちが登山の安全を護っている。信仰は、日中や森尻などにも拠点が広がって恩恵は中世の立山寺の縁起伝承へも転化した。

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1797年寛政 9年) 『喜見城之図』加賀藩当主、前田治脩は、4月に江戸から金沢への参勤交代帰城道中に魚津で蜃気楼を発見し、その絵(『喜見城之図』)を描かせたと伝えられている[8][9][10]
1797年(寛政 9年) 『東海道名所図会』や、そのほか広重の浮世絵などにも、桑名や四日市の蜃気楼が紹介されている。当時、伊勢湾の蜃気楼を桑名のハマグリ説として庶民を楽しませた。
1844年(天保15年) 重修本草綱目啓蒙』小野蘭山 の著作に、『本草綱目』の解説が成され、蜃気楼は海の気で成るとし、当たり前であるが蛟龍や大蛤の蜃が気を吐いて成るものでもないと正した。また、魚津の「喜見城」、桑名の「狐の森」、厳島の「蓬莱島」、津軽の「狐だま」と各地の蜃気楼の固有名を現した。
1846年弘化 3年) 『再航蝦夷日誌』『西蝦夷日誌』に、北海道を探検した幕末松浦武四郎は、小樽の蜃気楼を「高島おばけ」と称して著書し紹介している[11][12]
1926年 (大正15年) 『動物妖怪譚』宮崎高等農林学校(のちの宮崎大学農学部)教授 (又、のちの山口大学教授)の日野巌の著作に、蜃気楼の「蜃」は竜の類と示された。竜が気を吐き、ハマグリは気を吐かないと示された。この事により、現代日本において「蜃気楼は、竜によるかハマグリによるか論争」は、決着の形式を取って「竜の類である」と達見するまた、中国の「海市」、仏書の「乾闥婆城」、伊勢の「ながふ」、四日市の「那胡のわ」、周防の「あまの遊び」、アイヌの「オハインカラ」と各地の蜃気楼の固有名を『重修本草綱目啓蒙』に加えて現した。

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蜃気楼を描いた芸術作品[編集]

脚注[編集]



(一)^ Definition of FATA MORGANA (). www.merriam-webster.com. 2019101

(二)^ . . 2019101

(三)^ abcdef6-6 . . p. 144. 202319

(四)^ 

(五)^ abcdefg. . . 202319

(六)^ 1995 ISBN 4-7942-0635-6 pp.66-67

(七)^   202252723

(八)^ abNo.938:2!  

(九)^ ab  20191115  

(十)^  

(11)^ 

(12)^ 

(13)^ 12A  2018711

(14)^ 12A  A 20187132

(15)^   202032623

(16)^    48%  20214922

関連項目[編集]

外部リンク[編集]