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赤穂事件の人物一覧

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
赤穂事件 > 赤穂事件の人物一覧


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四十七士[編集]

氏名 事柄(役職、禄高、役割、享年、辞世など)
大石内蔵助良雄
おおいしくらのすけよしお(よしたか)
国家老、1500石(譜代)。討ち入りの指導者。享年45。辞世は「あら楽や思ひは晴るゝ身は捨つる浮世の月にかゝる雲なし」とされる場合が多いが、熊本藩の堀内が預かった真筆は「武士の 矢並つくろふ 小手のうへに あられたはしる 那須のしの原」。
大石主税良金
おおいしちからよしかね
部屋住み。大石良雄の長男。大石内蔵助の嫡男で四十七士では最年少で、内匠頭の刃傷の際は元服前で幼名の松之丞を名乗っていた[9]。討ち入りの際には裏門隊の大将を務めた[9] 。享年16[9]

辞世は「あふ時はかたりつくすとおもへども別れとなればのこる言の葉」。

原惣右衛門元辰
はらそうえもんもととき
足軽頭、300石(新参)。早くから江戸の急進派に同調していた。享年56。辞世は「君がため思もつもる白雪を散らすは今朝の嶺の松風」。
片岡源五右衛門高房
かたおかげんごえもんたかふさ
側用人・児小姓頭、350石(譜代)。浅野長矩の遺体を引き取る。芝居の忠臣蔵では主君切腹の前に最後の対面をした。仇討ちを強硬に主張し独自の行動をとっていた。享年37。
堀部弥兵衛金丸
ほりべやへえかなまる(あきざね)
前江戸留守居、前300石、隠居料20石(譜代)。高田馬場の決闘で名を馳せた安兵衛を強いて求めて養子にした[10]。四十七士最高齢で享年77[10]。辞世は「雪はれて思ひを遂るあしたかな」。
堀部安兵衛武庸
ほりべやすべえたけつね
馬廻、200石。越後国新発田藩出身、旧姓中山。25才の時[11]に甥・叔父の義理を結んだ菅野六郎左衛門の危機に助太刀した高田馬場の決闘で名を馳せ、堀部金丸の婿養子となる。赤穂浅野家の家臣となる。仇討ち急進派の中心人物。享年34[11]。辞世は「梓弓ためしにも引け武士の道は迷はぬ跡と思はば」。
吉田忠左衛門兼亮
よしだちゅうざえもんかねすけ
大石内蔵助に次いで事実上の副頭領[12]。足軽頭・郡奉行、200石役料50石(譜代)。享年64。辞世は「かねてより君と母とにしらせんと人よりいそぐ死出の山道」。寺坂信行の主。
吉田沢右衛門兼貞
よしださわえもんかねさだ
部屋住み。蔵奉行吉田兼亮の長男。享年29。
近松勘六行重
ちかまつかんろくゆきしげ
馬廻、250石(譜代)。討ち入りの際に負傷する。享年34。
間瀬久太夫正明
ませきゅうだゆうまさあき
大目付、200石役料50石(二代)。享年63。
間瀬孫九郎正辰
ませまごくろうまさとき
部屋住み。間瀬正明の長男。享年23。
赤埴源蔵重賢
あかばねげんぞうしげかた
馬廻、200石(譜代)。忠臣蔵では「徳利の別れ」で有名。享年35。
潮田又之丞高教
うしおだまたのじょうたかのり
郡奉行、絵図奉行、200石(譜代)。享年35。吉良義央を討ち取るとその首級を槍先に括りつけ引き揚げた。辞世は「武士の道とばかりを一筋に思ひ立ぬる死出の旅路を」。
富森助右衛門正因
とみのもりすけえもんまさより
馬廻・使番、200石(二代)。享年34。屋内戦に有利な9尺の短槍を使用した。辞世は「先立し人もありけりけふの日をつひの旅路の思ひ出にして」。
不破数右衛門正種
ふわかずえもんまさたね
元馬廻・浜奉行、元100石(譜代)。元禄10年頃[13]浅野内匠頭の勘気を受けて浪人していたが、浅野内匠頭の刃傷後、大石内蔵助に許されて帰参し、討ち入りに参加[13]。吉良邸討ち入りでは裏門を屋外で固める役であったが、じっとしてられず中に侵入し、二人を斬り倒し、吉良左兵衛に斬りかかった。左兵衛は逃げてしまったものの、別の一人と斬りあいをして倒す[14]。斬り合いのしすぎで刀がささらのようになり刃が無くなるほどだったという[14]。感じ入った仙石の指示により同じ刀で介錯されたとも伝わる[15]。享年34[13]
岡野金右衛門包秀
おかのきんえもんかねひで
部屋住み。十文字槍の使い手であり、狭い門から飛び出して逃げくるものを突殺した。忠臣蔵の物語では美男とされ、大工の娘を通じて吉良屋敷の図面を手に入れたとなっており、また父が内蔵助の放蕩を見て頓死するが、いずれも史実ではない。享年24。辞世は「その匂ひ雪のあさぢの野梅かな」。
小野寺十内秀和
おのでらじゅうないひでかず
京都留守居番、150石役料70石(譜代)。享年61。辞世は「今ははや言の葉草もなかりけり何のためとて露結ぶらむ」。
小野寺幸右衛門秀富
おのでらこうえもんひでとみ
部屋住み。小野寺秀和の養子。享年28。辞世は「今朝もはやいふ言の葉もなかりけりなにのためとて露むすぶらん」。
木村岡右衛門貞行
きむらおかえもんさだゆき
馬廻・絵図奉行、150石(譜代)。享年46。辞世は「おもひきや我が武士の道ならで御法のゑんにあふとは」。
奥田孫太夫重盛
おくだまごだゆうしげもり
武具奉行・江戸定府、150石(新参)。仇討ち急進派の中心人物。享年57。
奥田貞右衛門行高
おくださだえもんゆきたか
部屋住み。奥田重盛の養子。近松勘六の異母弟。享年26。
早水藤左衛門満尭
はやみとうざえもんみつたか
馬廻、150石(二代)。刃傷事件の第一報を江戸から赤穂へ伝える。享年40。辞世は「地水火風空のうちより出し身のたどりて帰るもとのすみかに」。
矢田五郎右衛門助武
やだごろうえもんすけたけ
馬廻・江戸定府、150石(二代)。享年29。
大石瀬左衛門信清
おおいしせざえもんのぶきよ
馬廻、150石(譜代)。享年27。
礒貝十郎左衛門正久
いそがいじゅうろうざえもんまさひさ
物頭・側用人、150石(新参)。享年25。
間喜兵衛光延
はざまきへえみつのぶ
勝手方吟味役、100石(二代)。享年69。辞世は「草枕むすぶ仮寐の夢さめて常世にかへる春の曙」。
間十次郎光興
はざまじゅうじろうみつおき
部屋住み。間光延の長男。吉良上野介に一番槍をつけ、武林が絶命させたその首級をあげた。享年26。辞世は「終にその待つにぞ露の玉の緒のけふ絶えて行く死出の山道」。
間新六郎光風
はざましんろくろうみつかぜ
間光延の次男。養子に出されたが養父と折り合いが悪く江戸に出て浪人になっていた。願い出て義盟に加えられた。赤穂義士のなかで本当に切腹している[16]。享年24。辞世は「思草茂れる野辺の旅枕仮寝の夢は結ばざりしを」。
中村勘助正辰
なかむらかんすけまさとき
書物役、100石(譜代)。享年46。辞世は「梅が香や日足を伝ふ大書院」。
千馬三郎兵衛光忠
せんば(ちば)さぶろべえみつただ
馬廻、100石(二代)。享年51。
菅谷半之丞政利
すがやはんのじょうまさとし
馬廻・郡代、100石(譜代)。享年44。
村松喜兵衛秀直
むらまつきへえひでなお
扶持奉行・江戸定府、20石5人扶持(二代)。享年62。辞世は「命にもかえぬ一をうしなはば逃げかくれてもこゝを逃れん」。
村松三太夫高直
むらまつさんだゆうたかなお
部屋住み。村松秀直の長男。享年27。辞世は「極楽を断りなしに通らばや弥陀諸共に四十八人」。
倉橋伝助武幸
くらはしでんすけたけゆき
扶持奉行・中小姓、20石5人扶持(二代)。享年34。
岡嶋八十右衛門常樹
おかじまやそえもんつねしげ
札座勘定奉行、20石5人扶持(二代)。原惣右衛門の弟。享年38。
大高源五忠雄
おおたかげんごただお(ただたけ)
金奉行・膳番元方・腰物方、20石5人扶持。小野寺秀富の兄。俳諧をよくして『二ツの竹』の俳諧撰集がある。享年32。辞世は「梅で呑む茶屋もあるべし死出の山」。
矢頭右衛門七教兼
やとう(やこうべ)えもしちのりかね
部屋住み(譜代)。刃傷後、父・矢頭長助とともに盟約に加わったが、大阪に移り住んだ頃から父が病に倒れ、帰らぬ人となったため、右衛門七のみが討ち入りに参加する[17]。討ち入りへの参加は、病に倒れていたころからの父の遺言であったという[18]。大石主税に次ぐ若年で[17]、享年18[17]
勝田新左衛門武尭
かつたしんざえもんたけたか
札座横目、15石3人扶持(譜代)。享年24。
武林唯七隆重
たけばやしただしちたかしげ
馬廻、15両3人扶持(二代)。武林唯七は豊臣秀吉の朝鮮出兵の際捕虜になった中国人の孫で、中国浙江省の武林の出身だったことから姓を武林と名乗った[19]。唯七は上方では最も急進的な同志の一人であった[19]。享年32。辞世は「三十年来一夢中 捨身取義夢尚同 双親臥病故郷在 取義捨恩夢共空」(「」は漢詩文訓読の返り点)。
前原伊助宗房
まえばらいすけむねふさ
金奉行・中小姓、10石3人扶持(二代)。江戸で呉服屋を開き吉良屋敷を探索した。享年40。辞世は「春来んとさしもしらじな年月のふりゆくものは人の白髪」。
貝賀弥左衛門友信
かいがやざえもんとものぶ
中小姓・蔵奉行、10両3人扶持(新参)。吉田兼亮の。享年54。
杉野十平次次房
すぎのじゅうへいじつぎふさ
札座横目、8両3人扶持(二代)。享年28。
神崎与五郎則休
かんざきよごろうのりやす
徒目付、5両3人扶持(新参)。享年38。辞世は「余の星はよそ目づかひや天の川」。
三村次郎左衛門包常
みむらじろうざえもんかねつね
台所奉行・酒奉行、7石2人扶持(二代)。享年37。
横川勘平宗利
よこかわかんべいむねとし
徒目付、5両3人扶持(新参)。12月14日に吉良屋敷で茶会があることを調べる。享年37。辞世は「まてしばし死出の遅速はあらんともまつさきかけて道しるべせむ」。吉良邸の茶会が開かれる日を茶坊主の手紙を盗み読みして「茶会は十四日」と大石に報告し討ち入り日が決まった[20]
茅野和助常成
かやのわすけつねなり
横目付、5両3人扶持(新参)。享年37。辞世は「天の外はあらじな千種たに本さく野辺に枯るると思へは世や命咲野にかかる世や命」。
寺坂吉右衛門信行
てらさかきちえもんのぶゆき
吉田兼亮の足軽、3両2分2人扶持。四十七士では最も身分が低く、他の46人が士分なのに対し、寺坂は士分ではなく足軽である[21]。おそらくもともとは百姓で[22]、吉田忠左衛門の家来になったが、忠左衛門が足軽頭になったことにより忠左衛門の足軽から藩直属の足軽に昇格[22] 。討ち入りには参加したが引き上げの際に姿を消した。それ故に赤穂浪士切腹の後も生き残る。享年83[21]

死亡者[編集]


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注釈[編集]



(一)^ 01112151214

(二)^ [8] [8]

出典[編集]



(一)^ ab - 

(二)^ (2001) p28p147-151

(三)^ 1888 :   

(四)^ abcdef(2006) p164-171

(五)^ abc(2012b) 3

(六)^ (2012b) 3

(七)^ abcdefg(2006) p108-117

(八)^ abc(2006) p134-135

(九)^ abc(1983) p203-206

(十)^ ab(1983) p290-293

(11)^ ab(1983) p294-301

(12)^ (1983) p318-322

(13)^ abc(1983) p287-288

(14)^ ab(1999) p159

(15)^ (1999) p159

(16)^ 

(17)^ abc(1983) p313-314

(18)^ (2006) p142

(19)^ ab(2012b) 2

(20)^  2007

(21)^ ab(1983) p259-262

(22)^ ab(2012a) 

(23)^ 

(24)^ ab, pp. 385386.

(25)^ abcd, pp. 390391.

(26)^  2012a, §6.3.

(27)^ abc(2015) 3

(28)^ 

(29)^ 

(30)^ 

(31)^ (1994) p85

(32)^  2012a, §2.2.

(33)^  2012a, §2.4.

(34)^ abcde(1999) p72

(35)^ , pp. 360.

(36)^ , pp. 159.

(37)^ , p. 167.

(38)^ abcde 2012b, §2.3.

(39)^ , p. 400.

(40)^  2012a, §3.4.

(41)^ ab(1998) 1

(42)^ ab, p. 418.

(43)^ ab(1999) p134-136

(44)^ abcd(1998) 2

(45)^ ab(1999) p134-136

(46)^ (1999) p105

(47)^ (1998) 2

(48)^ ab(1999) p32

(49)^ abcd  p109

(50)^ ab(1998) 2 

(51)^ , pp. 365.

(52)^ , p. 123.

(53)^ , p. 124.

(54)^ , p. 131.

(55)^ abcd, p. 398.

(56)^ (1983) p398

(57)^ ab 2012a, §5.2.

(58)^ (1931) p263

(59)^ (1994) p140

(60)^ (1994) p140

(61)^  

(62)^ 81p

(63)^ ab(2012a) 

(64)^ (2013) p67

(65)^ ab(2013) p159

(66)^ ab(2013) p193-196

(67)^ abcd(1983) p439

(68)^  2012a, §1.2.

(69)^ abc(1999) p49

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-198964-201426 

19946ISBN 978-4480056146 

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 ()201325ISBN 978-4642064613 

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