残暑のせいか、﹁雪崩現象﹂が、自民党、民主党の両方で起きている。自民党は、安倍晋三官房長官に民主党は、小沢一郎代表に支持が集中、麻生太郎外相、谷垣禎一財務相は、すでに泡沫化しており、出馬しても恥をかくのが関の山。谷垣禎一財務相は、推薦人20人を集められるか否かという惨状にある。惨敗すれば、政治生命すら失いかねない。こうなると、森派が、何人かを貸してやらなければ、﹁田舎芝居﹂にもならない。民主党は、河村たかし衆議院議員が、名乗りを上げてはいるが、これも推薦人5人を集められる程度で、立候補できない。小沢代表以外の候補者がいなければ、無投票当選となる。
こういうことで、総裁選挙、代表選挙という恒例の﹁秋祭﹂は、全然盛り上がらず面白くも何ともない。というよりは、﹁すでに勝負あった﹂のであり、実は、﹁夏祭﹂でしかなかったようである。 本当の﹁秋祭﹂は、10月に行われる衆議院補欠選挙であり、﹁自民VS民主﹂、実は﹁安倍VS小沢﹂の構図で激突する。
それにしても、自民党、民主党ともに、﹁経済に強い政治家﹂が見当たらないのは、寂しい限りである。とくに﹁経済オンチ﹂で有名な安倍官房長官が﹁ポスト小泉﹂というのは、本当は、国民にとっては。不幸の極みである。
﹁経済に強い政治家﹂とは、﹁5つの基礎的条件﹂を揃えられる政治家のことである。
①強力なリーダーシップを発揮できる指導者であること。︵安倍官房長官には、この指導力がない。体力的には﹁腸﹂が弱すぎる︶ ②政財官界の実力者を集めて﹁チーム編成﹂できること。︵安倍官房長官は、﹁東大閥﹂の協力を得られない。日本経団連の御手洗冨士夫会長は、中央大学法学部卒で協力的ではない︶
③国家ビジョンを示すこと。︵﹁美しい国へ﹂には、これから日本が進むべき針路が明確ではない。政治は、美学ではなく、実学であるはずなのに、父・安倍晋太郎元外相が掲げた﹁ニューグロウス﹂︵新成長論︶のような政策論が欠落ししている︶
④新しい国家づくりに必要な資金があること。︵国民個人金融資産1500兆円が、頼りにはなる︶
⑤国民が一致団結すること。︵残念ながら、バラバラである︶
これら5つの基礎的条件を揃えて経済をよくした政治家は、﹁吉田茂﹂﹁池田勇人﹂﹁中曽根康弘﹂の3人のみである。﹁機関車﹂のように力強く国民をリーダした。
この意味では、一流経営者だったとはお世辞にも言えないまでも﹁ポスト小泉﹂には、麻生外相が、一番望ましかった。安倍圧勝の情勢では、手遅れである。しかも、この政治家は、元来﹁マスコミ嫌い﹂だったのが、いまになって弱点になっており、自業自得である。
かくして、日本は、本当に﹁経済に強い政治家﹂が登場するまでは、当分﹁不幸﹂が続くことになる。残念である!
﹁本日の殺人事件﹂というワッペンが新聞紙面やテレビ番組に付けられても不思議ではなくなったような昨今である。ついに﹁母親暗殺事件﹂まで起きてしまった。山口県の高専では、女学生が同級生の男に絞殺されている。秋田県で起きた男児、女児殺人事件は、早くも記憶の彼方へ消えていきそうである。もっと恐ろしいのは、殺人事件の犯人が、時効を確認して名乗りを上げ、平然と暮らしている。
日本列島で繰り広げられる地獄絵図は、おそらく当分続くと多くの人が憂慮しているはずである。
一体、何が原因なのか? 思いつくままに考えてみた。
①昭和50年代からゲーム機で何万回も﹁バーチャル殺人﹂を犯した子どもが増え、その子どもが大人になり、ゲーム・ジュニアが生産され続けている。
②ゲーム機の普及により、﹁現実世界﹂と﹁バーチャル世界﹂との区別が曖昧になってきている人が増えている。
③虚々実々、生死の区別がつきにくくなっており、死んでも︵殺しても︶、リセットできると信じ込んでいる人が多くなっている。 ④教育基本法に﹁倫理規範﹂を教える記述がない。一方、﹁倫理規範﹂を記述した教育勅語を忌避し、その序に、﹁人倫﹂を軽視する結果を招いている。
⑤崩壊した家庭が増えている。離婚家庭において﹁家庭内倫理規範﹂が弛緩している。
⑥国家指導層のモラルの低下と﹁ウソつき政治家﹂の増加。
⑦﹁カラスの勝手族﹂の増加。
などなど、これだけではない。まだまだ数え切れないほどであるだろう。
とくに﹁①~③﹂は、﹁任天堂﹂﹁マイクロソフト社﹂﹁ソニー﹂などのメーカーの罪は大きい。﹁殺し﹂ではなく、﹁生かすゲーム・ソフト﹂が求められる。︵ただし、売れないだろうが︶それにしても、恐ろしい世の中になったものである。
果して、﹁明日の殺人事件﹂は? お互い被害者︵死体︶にされないことを願うばかりである。
*参考‥﹁爾臣民、父母ニ孝ニ兄弟ニ友ニ夫婦相和シ、朋友相信シ、恭倹己レヲ持シ、博愛衆ニ及ホシ、学ヲ修メ業ヲ習ヒ以テ智能ヲ啓発シ、徳器ヲ成就シ、進テ公益ヲ廣メ、世務ヲ開キ、常ニ國憲ヲ重シ、國法ニ遵ヒ、一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ以テ天壤無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ﹂﹁教育勅語﹂より
追記‥JOCが﹁オリンピック開催地﹂の候補地として﹁東京﹂を選んだのは、めでたい。これで2007年4月の東京都知事選挙は、石原慎太郎都知事の﹁3選﹂は確実となった。福岡市の山崎広太郎市長は、﹁敗北の責任﹂を今井大容疑者が行った飲酒運転による﹁3人の子ども殺人事件﹂にせいにすることができる。
福岡県警東署は8月27日、はしご酒の後、泥酔状態でドライブ中、福岡市東区の一家5人の乗った車に追突して海に転落させ、子ども3人を死亡させた福岡市役所職員、今林大容疑者を業務上過失致死と道路交通法違反︵ひき逃げ︶で福岡地検に送検しているが、この容疑がおかしい。﹁業務上﹂というのは、何の業務なのか。勤務外であり、酔ったままスナックに行き、さらに飲み、泥酔状態でドライブするのが、業務とはおかしい。これほど犯罪事実が明白であり、﹁未必の故意﹂も認定できるのであるから、﹁殺人容疑﹂で送検すべきであった。警察がこんな甘い判断をし続けている限り、これからも同様の﹁事件﹂は、後を絶たないであろう。断言してもよい。
山崎広太郎市長も弔問に姿を現したけれど、日頃から厳しく﹁飲んだら乗るな﹂と戒めていたにもかかわらず、今林大容疑者がこれを完全に無視したのであり、弔問はよいとしても、市長がわざわさ詫びることではない。これは、職員の間でここ数年、飲酒運転による人身・物損事故が相次いでいるからだろう。これからも、福岡市役所の職員のなかからは、市長の戒めをコケにして飲酒運転する﹁度し難い﹂職員が出てくるに違いない。要するに、福岡市の職員採用試験にも問題がある。﹁質の悪い職員﹂を集めているとしか思えない。はっきり言って、情実採用の臭いを感じる。
さて、山崎市長には、甚だ気の毒ではあるが、﹁オリンピック開催地﹂として名乗りを上げているのを、この際、取り下げるべきである。こんないい加減な職員ばかり抱えていると思える福岡市がオリンピックを開催できるはずはない。開催すれば、必ず事故を起こすに決まっているからである。この勝負は、東京都の勝ちである。
自民党総裁選挙は、﹁安倍晋三官房長官で決まり﹂と観測されているなかで、政局は、﹁安倍晋三政権VS小沢一郎民主党﹂の構図で進行しつつある。次の焦点は、10月の衆議院議員補欠選挙、2007年4月の統一地方選挙、同年7月の参議院議員選挙に移っているので、自民党総裁選挙と民主党代表選挙への国民的関心は、希薄になっている。
そんななか、麻生太郎外務相が、谷垣禎一財務相に続いて立候補表明したものの、﹁気の抜けたビール﹂を飲まされるような気分である。それにしても、21日のTBS番組﹁ニュース23﹂において筑紫哲也キャスターが、麻生外務相に単独インタビューしたまではよかったけれど、﹁安倍政権で外務大臣を務めるのか﹂と失礼極まりない質問をしていた。いかに結果が見えていようとも、﹁決意﹂や﹁政策構想﹂を聞きながら、﹁負け﹂を前提にした質問に、さすがに麻生外相も﹁まだ立候補したばかりだ﹂と苦笑していた。﹁これはまずい﹂と思ったのか、﹁時間がきた﹂のを口実に慌てて逃げてしまった。
ところで、自民党総裁選挙は、たとえ負けたとしても、﹁大敗﹂して、政治生命を失う危険はあるが、﹁支持票﹂の出方によっては自民党内での影響力を残すことができ、﹁次の次﹂の布石にもなるので、最後まで勝負を諦めるわけにはいかない。
筑紫哲也キャスターに負けず、劣らず、不遜極まりないのが、テレビ朝日の番組﹁サンデープロジェクト﹂の田原総一朗キャスターである。第二次世界大戦における日本の戦争責任について、﹁日中戦争﹂以後を﹁侵略である﹂と認めるか否か、あるいは、靖国神社の﹁遊就館﹂において示している﹁歴史観﹂について、﹁賛成か反対か﹂を政治家に詰問調に問うているが、これは思想信条に関する﹁踏み絵﹂に等しい。
政治家が国民に思想信条を明らかにする責任があるとはいえ、﹁YES﹂﹁NO﹂、﹁白﹂か﹁黒﹂かを炙り出さそうとするのは、やり過ぎであろう。
第二次世界大戦の戦勝国は、確かに﹁勝てば官軍﹂であるから﹁正義﹂である。﹁負ければ、悪﹂と決めつけられても仕方がない。 だが、未曾有の﹁世界大戦﹂において、戦勝国がすべて正しく、敗戦国である日本がすべて﹁悪﹂と決めつけるのは、いかがなものであろうか。
日本の戦争責任を追及しすぎると、欧米列強の﹁帝国主義﹂﹁植民地主義﹂が正しかったという錯覚に陥ってしまう。
欧米列強がアジアに持ち込んだ﹁帝国主義﹂﹁植民地主義﹂は、正しいとでも言うのであろうか。
﹁あのとき、日本は、アメリカや英国の言うことを素直に聞いていれば、戦争をしないで済み、アジア諸国に迷惑をかけないで済んだのか﹂
欧米列強の﹁帝国主義﹂﹁植民地主義﹂をそのまま認め、日本は中国から軍隊を全面撤退して、﹁石油﹂を使わず、﹁木炭﹂や﹁石炭﹂で文明社会に生きていく術を見つける努力をすればよかったのであろうか。
欧米列強の﹁帝国主義﹂﹁植民地主義﹂の成すがままにして、しかも、アメリカに従属し、太平洋戦争に突入しなかったならば、日本は、平和と繁栄を築くことができたはずだと言うのなら、今日、小泉首相が、﹁対米追従﹂の外交を進めてきたのは、正しいとも言えよう。アメリカに叛旗を翻すとひどい目に遇わされるのは、残念ながら、いまも変わりはない。
朝日新聞などの﹁反米論調﹂を聞いていると、戦前の﹁鬼畜米英﹂という言葉と悪夢を思い出さざるを得ないのである。
ロシア国境警備隊が、日本漁船を銃撃し、乗組員の盛田光宏さん︵35歳︶が死亡、船長ら乗組員が密猟と領海侵犯容疑で訴追されることになった事件で、日本外務省の怠慢とロシアの相変わらずの凶暴ぶりが改めて浮き彫りになった。
安易な日露友好ムードに慣れ、ビザなし渡航まで許してきた日本外務省は、まるで凶暴な熊の前に身をさらす馬鹿な羊に似ている。 第一に、戦後61年も経過しているのに、外務省は、旧ソ連が日ソ不可侵条約を破棄して、中国・旧満州と北方領土︵4島︶に侵攻し、日本人多数を虐殺し、満州では残留孤児を生んだことへの謝罪を求めることを止め、しかも、北方領土が﹁日本の固有の領土﹂であるとの正しい﹁歴史認識﹂からロシアのプーチン大統領らに追及しようとしてもこなかった。
韓国左翼政権が日本に対して、﹁日韓併合条約の無効﹂と﹁日韓基本条約の不平等是正﹂を求め、日本人の﹁歴史認識﹂を韓国人の﹁歴史認識﹂に改めさせようと執拗に抗議しているのと比べれると、まったく手緩い。この際、韓国政権の﹁対日外交戦略﹂と﹁しつこさ﹂を日本外務省も見習うべきである。日本人は、あまりにも、﹁物忘れ﹂が激しい。
第2に、鳩山一郎首相がソ連に赴き、1956年10月19日、日ソ国交回復に関する共同宣言に調印して、50周年を迎えている今日に至っても、﹁日露平和友好条約﹂の締結は実現していない。形式的には未だに﹁戦争状態﹂が続いている。ロシアの﹁野蛮性﹂は変化しておらず、﹁凶暴な熊﹂であるにもかかわらず、外務省はロシア人に﹁ビザなし渡航﹂を許すなどして、奇妙な日ソ友好ムードに酔ってきた。シベリアやサハリンの石油や天然ガスが欲しいという﹁打算﹂のみで、戦後処理、すなわち﹁北方領土返還﹂という外交のケジメもつけてこなかった。
第3に、日本の政治家は、﹁ロシア利権﹂の争奪に専念し、真の国益である﹁北方領土返還﹂を軽視してきた。﹁森利権﹂﹁安倍利権﹂と呼ばれるものである。鈴木宗男衆議院議員が、営々として築いてきた﹁鈴木利権﹂を奪い取ったとも言われている。せっかく、鈴木衆議院議員が﹁ムネオハウス﹂と呼ばれる施設を国後島につくり、ロシア人とのパイプを築いていながら、外務省は、鈴木衆議院議員を﹁犯罪者﹂に仕立てて、追放したものの、﹁パイプ﹂まで失ってしまっている。これでは、まともに﹁ロシア外交﹂を遂行できるはずはない。
こうした状況下で、今回の不幸な事件が起きてしまった。漁に夢中になり、海流に流され、待ち伏せしていたロシアの国境警備隊の凶弾の犠牲になったというが、何とも痛ましい。日本国民は、ロシア人の凶暴性、野蛮性を決して忘れてはならない。
日露平和友好条約の締結に成功すれば、時の首相は、歴史教科書にその名を刻むことができる。だが、古くは中曽根首相も、今日では小泉首相のその偉業を打ち立てることができなかった。
安倍晋三官房長官は、旧ソ連外交に熱心に取り組み、サハリンの石油・天然ガスの開発を着手した政治家だった父・安倍晋太郎元外相の遺志を継ぎ、日露平和友好条約の締結に意欲を燃やしていると言われているが、その成否は、未知数である。
ロシアが信頼しているのは、鳩山家である。この意味で、ロシアは、日露平和友好条約を締結するならば、鳩山一郎元首相の孫である民主党の鳩山由紀夫幹事長と考えているはずである。北方領土返還を実現し、北の海を平和な海にできるのは、おそらく﹁鳩山由紀夫﹂ただ1人であり、その時期は、﹁鳩山由紀夫首相﹂の誕生まで待たねばならないであろう。自民党ではこの問題は解決できない。鳩山民主党政権によって初めて、道が開かれ、実現できる。こう断言してもよい。
結論だけを先に述べておこう。﹁靖国神社﹂の英霊は、﹁民族を統合する天皇﹂が主宰する祭祀により、未来永劫、慰霊・顕彰され続けらねばならない。理由は、以下の通りでる。
小泉首相の﹁靖国神社参拝﹂問題で、国論が2分しているうえに自民党の加藤紘一元幹事長の実家・事務所が、右翼メンバーのテロで全焼させられる事件が起きるなど、不穏な情勢になっているのでこの際、﹁天皇陛下と国民の関係﹂について、改めて整理しておく必要があろう。
まず、社会科学の学問的立場から、概念を押さえて、そのうえで﹁天皇陛下と国民の関係﹂について、分析する必要がある。それは﹁民族﹂﹁国家﹂﹁体制﹂の3つの概念である。
民族は、国家の母体であり、国家の﹁体制﹂は、言うまでもなく依って立つ政治・経済体制の違いによって、異なっている。
現代日本において、﹁天皇﹂には、2つの意義を持って存在している。1つは、母体としての﹁民族﹂を統べている﹁天皇﹂、もう1つは、国家機関としての﹁天皇﹂である。
この2つの﹁天皇﹂が、混同して語られるところに、﹁靖国神社問題﹂の混迷の源がある。
近代的な意味の国家を形成していなかった幕藩体制が終焉するまでは、天皇は、民族を統べる権威としての存在であった。明治維新によって、成熟した市民社会を基盤とする国民国家を建設を目指した。その発展途上において、天皇は、﹁民族を統合する天皇﹂と﹁立憲君主制﹂の統治者という﹁国家機関の頂点﹂に立つ機能の両方を担わされた。﹁民族を統合する天皇﹂が、京都御所から東京に下向し、さらに﹁国家機関としての天皇﹂にもなったのである。
明治天皇が、京都を出るとき、﹁必ず京都に帰る﹂と言い残したという伝説を今日まで京都人の多くが信じていると言われるのも、天皇の2つの意味を示している。おそらく、明治天皇は﹁日本の近代化﹂を見届けた暁には、京都に帰るお気持ちだったのであろう。 しかし、この明治天皇の願望は、ついに果たされず、大正、昭和と三代にわたり、﹁立憲君主制﹂が存続することになった。
昭和20年︵1945︶8月15日の敗戦を契機に、GHQの強権により、﹁立憲君主制﹂は、自由民主主義の下で﹁象徴天皇﹂という﹁国家機関﹂に改められたものの、天皇は、東京から京都に帰るチャンスも与えられず、旧江戸城に留め置かれたままの状態になっている。
しかし、早とちりしてはならないのは、﹁民族を統合する天皇﹂は、単なる﹁日本国の象徴﹂というような軽々しい存在ではない。﹁民族の長﹂とも言うべき実態を持ったれっきとした存在なのである。
靖国神社は、﹁民族を統合する天皇﹂と﹁国家機関としての天皇﹂という2つの意味を持った天皇の下で、英霊を祀る﹁国家機関﹂として存在してきたけれど、戦後は、新憲法の規定する﹁政教分離の原則﹂により、﹁宗教団体﹂の1つとして国家から切り離され、見捨てられる存在に貶められてきた。
しかも、﹁国家機関としての天皇﹂が参拝する﹁追悼施設﹂は、未だに建設されていない。
否、日本国憲法の下では、﹁軍隊﹂の保持が許されていないのであるから、軍人は存在せず、実は、﹁戦死者﹂が発生することはあり得ない。陸海空の自衛官は、憲法上は、﹁軍人﹂ではない。つまり、憲法改正により国軍が再建されない限り、新しい﹁追悼施設﹂を建設する必要性がないとも言える。あえて﹁追悼施設﹂を建設するならば、それは、戦死者ではなく、﹁公務死者﹂の英霊を祀り、顕彰することになる。
この意味では、与野党のなかで﹁靖国神社﹂に代わる﹁無宗教の追悼施設﹂を建設しようとしている動きは、現憲法上からいっても無意味であり、戦死者もいない施設に参拝するのも、間抜けな話である。
だが、しかし、大事なのは、本来﹁民族を統合する天皇﹂が中心になって祭事を行なうべき﹁靖国神社﹂の存在が、日本民族の多くから、放棄され、見捨てられたわけではないということである。うつろいやすい﹁国家機関としての天皇﹂よりも、﹁民族を統合する天皇﹂の意味合いの方が貴重であり、文化的存在としても大事なのである。
﹁国家機関としての天皇﹂のあり方が、国家、体制の変化によって変わっても、﹁日本民族を統合する天皇﹂の存在は、依然として﹁神聖﹂にして﹁不可侵﹂である。これに対して、中国、韓国など外国勢力がいちゃもんをつける理由はない。内政干渉も許してはならない。
昭和15年︵1940︶11月10日、紀元2600年の祝典から、早や66年を経て、この﹁民族を統合する天皇﹂の存在は、日本民族がこの地球上に存在している限り不変であり、﹁靖国神社﹂の英霊は﹁千代に八千代に﹂未来永劫、﹁日本民族を統合する天皇﹂主宰の祭祀によって、祀られ、顕彰され続けられねばならない。 ともあれ、秋篠宮紀子妃殿下が、無事、男子を安産されることが待ち遠しい。
自民党の加藤紘一元幹事長が、﹁テロ﹂のターゲットにされている。終戦記念日︵8月15︶夕、山形県鶴岡市内の加藤氏の実家と事務所が放火されて、全焼した。加藤元幹事長の高齢の母・於信さん︵97歳︶は、運よく外出中であり、事務所員も脱出して遭難を免れたのは、不幸中の幸いだった。
犯人の男︵65歳︶は、東京の右翼であり、割腹自殺を図り、未遂に終わり、重傷を負って病院に収用されている。どこまで本気だったのか、割腹のフリをして、刑務所を出所後の箔をつけようとしただけなのかが、疑われる。
加藤元幹事長は、靖国神社問題で小泉首相の参拝に一貫して反対論を述べ続けてきた。右翼の神経を逆撫でしてば、﹁テロ﹂の対象になることは、十分に予想されることで、心配していたのだが、やはり杞憂に終わらなかった。
テロと言えば、﹁石井紘基衆議院議員﹂︵民主党︶の忌まわしい刺殺事件を想起するが、自由と民主主義社会で﹁テロ﹂により言論を封殺する行為は、絶対に許されない。
だが、右翼にしても、左翼にしても、﹁ナショナリズム﹂という点では、理性や感情では、制御しきれない部分があることを軽視してはならない。それは、﹁神経﹂に触ることになるからである。理性や感情は、自己制御できる。だが、どうも﹁神経﹂は、自己制御が効かないらしい。抜歯や歯痛の苦痛を鎮めるのは、﹁麻酔薬﹂で神経を麻痺させるしかないのと同じように、﹁神経﹂は、麻痺によってしか、沈静化できないのである。
この意味で﹁ナショナリズム﹂とは、人間の思想に関わる﹁神経﹂と言ってもよかろう。逆鱗に触れるという言葉があるように、ちょっと触れただけで、ビビビッと反応するから恐ろしい。
﹁知に働けばカドが立つ、情に竿させば流される、意地を通せば窮屈だ﹂
夏目漱石の﹁草枕﹂の冒頭を思い出すまでもなく、加藤元幹事長は、馬鹿正直なほどの﹁知の政治家﹂である。対して、小泉首相はアホなほど﹁意地っ張り﹂である。
しかし、﹁ナショナリズム﹂という﹁神経﹂は、﹁知﹂の持つ鋭い切っ先が触れただけで﹁逆撫で﹂されたように敏感に反応してしまう。﹁意地っ張り﹂の方は、むしろ、﹁良薬﹂としての効能があり、心地好い。
小泉首相と加藤元幹事長に共通しているのは、﹁情が薄い﹂ということである。
それにしても、これまで加藤元幹事長は、理性的、論理的に見えながら、その実、かなり過激な発言の度に、﹁脅迫﹂を受けていたといい、終戦記念日にも、100件前後の脅迫電話がかかってきているという。
警察当局は、この情報をキャッチしていなかったのであろうか。元防衛庁長官の加藤元幹事長が、自らの身辺の﹁防衛﹂に手抜かりだったのは、不用意であり、自業自得だが、警察当局は、怠慢であり、大失態だったとしか言ようがない。秋田県警に続く山形県警の失態であるが、﹁田舎警察﹂だからと言って大目に見るわけにはいかない。
今回の事件を軽く見てはいけない。これは、日本人の﹁ナショナリズム﹂という﹁神経﹂が過敏になってきている現代の世相を示す一種の﹁シグナル﹂であり、﹁テロ多発の兆し﹂でもあると深刻に受け止めるべきである。
﹁正しい歴史認識﹂を持つ目的で戦前の歴史を学び、反省の日々を送るのもいいけれど、﹁2・26事件﹂や﹁5・15事件﹂のようなテロ事件まで学習して、真似をするような輩が出てくるのだけは、防がねばならない。
いかに言論の自由が保障されているからといって、﹁ナショナリスト﹂の﹁神経﹂に触るような不用意な言論には、要注意である。ましてや、中国、韓国の要人らが凶刃や凶弾の餌食にされることのないよう、治安・警備には万全を期さなくてはならない。中国・北京政府や韓国左翼政権も、日本人の﹁神経﹂には、用心すべきであろう。
昭和30年代の初め、広島県呉市の三峰山の中腹から呉造船を見下ろすあたりに住んでいたころ、一人の浮浪者が朝方、物貰いによく来ていた。母が、炊き立ての御飯を恵んで食べさせていたが、当初は、喜んで感謝していたのが、途中から、御飯の量に文句を言うようになった。しばらくは、文句を受けて少し多めに恵んでいたところ、突然、怒り出すようになった。﹁もっとくれ﹂というのである。心優しい母も、堪忍袋の緒が切れたのか、さすがに、大声で﹁いい加減にしなさい﹂と怒り返していた。それからと言うもの、浮浪者は、姿を見せなくなった。
靖国神社を参拝した小泉首相が、首相官邸で記者団に囲まれて、質問に応えていたが、この姿が、50年前の母の姿と重なって見えた。小泉首相は、中国、韓国に向かって﹁もういい加減にしろ﹂と言っているようであった。いつまでも言いなりになって、優しくしていると、相手は、どこまでも付け上がってくる。
日本は中国に﹁3兆3000億円﹂ものODA︵政府援助︶をしている。韓国に対しても、それ相応の援助をしてきた。
それにもかかわらず、﹁もっとくれ﹂と要求し、断わると﹁日本は歴史認識が間違っている﹂と言って、ごね続けてきた。﹁靖国神社﹂﹁歴史認識﹂﹁教科書﹂などと黙っていると、どんどん付け上がって、好き勝手なことを言っている。挙げ句の果てに中国は、﹁ODAを2008年以後も続けろ﹂と強要し、おまけに東シナ海に海底に穴を掘り、日本の経済水域や領海にまで手を入れてガスを吸い上げようとしている。韓国は、100年前の﹁日韓併合条約の無効を認めろ﹂と要求し、40年前の日韓基本条約まで﹁不平等条約だから締結し直せ﹂﹁独島は、韓国のものだ﹂と言いがかりをつけて、韓国内の親日派まで迫害している。
小泉首相は、中国、韓国の底意を百も承知していながら、中国、韓国の﹁浮浪者根性﹂、あえて言えば、﹁乞食根性﹂を一言も批判しよういない。
しかし、どうも、小泉首相は、﹁ODA﹂について、﹁環境問題﹂を新テーマにして、2008年の後も継続して援助することを内々に約束したようである。それは、今回の中国の態度が、何よりの証拠である。小泉首相の靖国神社参拝に対して、昨年までの猛烈な反対と非難の声を上げていないのである。もう話がついたのであろう。
小泉首相は、韓国の左翼政権に対しては、冷淡である。それは、盧武O政権の先を読んでいるからである。盧武鉉政権の支持率が14%前後に低下してきており、次期大統領選挙では、野党が勝利すると予測している。﹁もうまともに付き合う必要がない﹂と突き放しているのだ。
それにしても、中国も韓国も、﹁馬鹿もほどほどにしなさい﹂と改めて言いたい。まあ、小泉首相のように﹁金持ちケンカせず﹂といきましょう。
靖国神社問題は、報道機関が恒例行事のように取り上げ、唯物史観の中国共産党一党独裁・北京政府や韓国左派政権寄りの報道を相も変わらず展開している。終戦記念日が終われば、何事もなかったように一時的忘却状態になるに決まっているので、考えるのも馬鹿馬鹿しいのだが、馬鹿になって考えて見ることにしよう。
歴史の原点に立って、1868年の明治維新から、近代国家を目指して﹁西洋かぶれ﹂して新しい国家づくりを始めたころに立ち帰ったみれば、靖国神社問題は、極めてシンプルかつ明快に解消できる。 まず、第15代将軍・徳川慶喜公﹁大政奉還﹂により、明治大帝による親政がスタートした。つまり、時代が逆行して、1333年の後醍醐天皇の﹁新政﹂、もっと古くは、1192年の鎌倉幕府開幕以前の﹁天皇﹂が直接政治を行う体制に戻ったときから、日本の政治は、大きな矛盾を抱えることになったことを忘れてはならないだろう。﹁脱亜入欧﹂を指向し、欧米流の近代国家を目指したにもかかわらず、時代錯誤から﹁大日本帝国﹂づくりが始められたからである。
これは、﹁国家意識﹂も﹁国民意識﹂も持たなかった日本国民を一つにまとめ、中央集権的な統一国家をつくるうえで、やむを得ないことであった。
近代国家を急いでつくるための﹁便法﹂として、﹁明治天皇﹂が利用され、統一国家の体裁を整えようとした。国民意識を持った国民は、皆無と言ってよく、取敢えず、天皇に仕える﹁臣民﹂をつくった。自由と民主主義を原則とする国家の国民とは似て非なる者がつくられた言ってもよい。
靖国神社は、この体制の下で、明治2年に﹁東京招魂社﹂としてつくられたのであり、﹁神事﹂を司る天皇を頂点に仰ぐ、﹁祭政一致﹂﹁政教一致﹂の政治体制が築かれたのは、いわば当然でもあった。
もともと、薩摩・長州を主力とする﹁官軍﹂の戦死者の霊を祀るところから始まったのが、間違いであった。孝明天皇から錦の御旗を授けられた会津藩や新撰組などが、もともとの﹁官軍﹂であったにも関わらず、宮廷クーデターにより得た新たな錦の御旗を掲げて、﹁官軍﹂を名乗り、会津藩や新撰組などを﹁賊軍﹂として扱ったからである。対外的には、会津藩や新撰組なども日本を夷狄から守るために戦った面があり、﹁賊軍﹂のレッテルを貼って、排除すべきではなかった。靖国神社には、もともと一方に偏った面があったのである。
大東亜戦争に敗戦後、日本国憲法が制定されて、靖国神社が、﹁政治﹂から切り離されたときから、政府は、﹁新しい施設﹂をつくるべきだった。
このとき、大東亜戦争の戦死者は、﹁天皇陛下バンサーイ﹂と叫んで戦死したのであるから、靖国神社に祀られるのは、当然であった。また、厚生省が、旧陸海軍に代わって、戦死者を特定するために協力する必要から、国家機関が一宗教団体のために関与するのはやむを得なかったと言わざるを得ない。
さて、ここからが大事である。靖国神社の祭祀や儀式は、神事を司る最高位にある天皇が、﹁私人﹂として自ら率先して行うべきであった。これは、天皇陛下が神事に関与できるのは、﹁私人﹂としてである。つまり、皇室の奥で行われている﹁秘事﹂としての﹁神事﹂と同様に、天皇陛下の名において戦死させられた軍人、軍属の霊を天皇陛下自らが慰めるのは、いわば義務と言えるのである。
一方、政府は、日本国憲法に適合する﹁メモリアル﹂をつくるべきであった。この場合、憲法の規定上、﹁非宗教の施設﹂とならざるを得ない。フランスが凱旋門に設けている記念碑と同様の施設である。東京駅の丸の内側にある凱旋門あたりが適地であろう。これは﹁宗教﹂ではなく、あくまでも人間の﹁理性﹂に基づく非宗教施設である。﹁無宗教﹂ではない。個々人が﹁信仰心﹂を持って、拝むことまでは拒まない。
日本は、正式な軍隊を持つことを禁止されているのであるから、いまのところ、﹁戦死者﹂が出ることは、あり得ない。自衛官や警察官、消防士など﹁公務遂行中﹂に﹁公務死﹂した人たちの魂を祀り、業績を永遠に湛えるための施設である。
ここにおいて、日本は初めて、近代国家となり、国民は、まともな国民になることができる。靖国神社の呪いから解放されない限り﹁臣民﹂のままである。
従って、新しい施設に、靖国神社で祀られている戦死者が祀られることはない。天皇が靖国神社で私的に主催する﹁例大祭﹂などの祭事に、総理大臣や官房長官らが、﹁私的﹂に参拝するのは、自由である。﹁A級戦犯﹂云々についても、靖国神社の宗教活動の範囲内にあることであるから、﹁合祀﹂しようと﹁分祀﹂しようとだれも干渉はできない。いわんや、中国や韓国など外国には、﹁私的﹂な存在である靖国神社にだれが祀られていようと、いちゃもんをつける権利はない。
こうした﹁立て分け﹂をしっかり行ってこなかったツケが、戦後61年を経て、回ってきている。政府も国民も怠慢だったと言わざるを得ない。
戦後61回目の終戦記念日︵8月15日︶を前に日本人は、﹁平和﹂への誓いを新たにしなくてはならない。
そのためには、まず、これまで61年間も平和を維持してきたことを﹁奇跡﹂と考える必要がある。この奇跡を未来永劫に続けていく努力を積み重ねるべきである。
第1に、国連安全保障理事会の常任理事国になろうと大それた夢にも考えてはならない。国際平和の維持は、常任理事国であるアメリカ、英国、フランス、ロシア、中国に任せるべきである。
たとえば、イスラエルとレバノンの紛争を停止させるための、国連平和維持部隊は、もっぱら、5大国の義務として積極果敢に遂行してもらわなくてはならない。とくに、中国は、常任理事国としての責任が重く、人民解放軍を﹁国際平和維持部隊﹂に積極投入してもらわなくてはならない。
常任理事国入りをアメリカにまで反対された日本が、わざわざしゃしゃり出ていくのは、もっての外である。とくに人口の多い中国は、人民解放軍を世界中に派兵して、世界平和維持のために貢献して欲しい。
第2に、日本は、国際的に政治・外交・軍事面で、活発に動くべきではない。経済大国の道をひたすら走り続けていけばよい。﹁政経分離の原則﹂を守り、あくまでも﹁経済最優先﹂で進めばよい。 第3に、もし米中戦うことになった場合、日本は、日米同盟上、アメリカを助ける義務を負っているが、戦いは、もっぱら米軍と中国軍に任せ、戦禍に巻き込まれることのないよう、極力、後方支援に徹しなくてはならない。
日本政府は、憲法の規定を順守し、国民の生命・身体・財産を守るべく、懸命になるべきである。日本の若者たちに﹁血の貢献﹂を強要してはならない。