レクイエム (ヴェルディ)
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Liber scriptus︵書き記されし書物は︶
ニ短調、アレグロ・モルト・ソステヌート
当初この部分は合唱とオーケストラからなるフーガ形式で書かれていたが、1875年のロンドン初演を前にヴェルディがメゾソプラノのソロへと改稿した。
Quid sum miser︵哀れなる我︶
ト短調、8分の6拍子、アダージョ
ソプラノ、メゾソプラノ、テノールの3重唱。
Rex tremendæ︵御稜威の大王︶
ハ短調、アダージョ・マエストーゾ
4重唱と合唱。
Recordare︵思い給え︶
ヘ長調、アダージョ・マエストーゾ
ソプラノとメゾソプラノによる2重唱。
Ingemisco︵我は嘆く︶
テノールによる独唱。
変ホ長調
Confutatis maledictis︵判決を受けた呪われし者︶
バスによる独唱。
Lacrymosa︵涙の日︶
変ロ短調→変ロ長調、4分の4拍子、ラルゴ
4重唱と合唱からなる。﹃ドン・カルロ﹄パリ初演︵1867年︶時に演奏時間の都合でカットされた部分︵ロデリーグの非業の死を受けてのフィリップ王とカルロとの2重唱︶の転用。
Offœrtorium(奉献唱)
Sanctus(聖なるかな)
- ヘ長調、4分の4(2分の2)拍子、アレグロ
- 混声4部、2群による合唱。
Agnus Dei(神の子羊)
- ハ長調、4分の4拍子、アンダンテ
- ソプラノ、メゾソプラノと合唱。
Lux Æterna(絶えざる光を)
- 変ロ長調、
- メゾソプラノによる導入にバスとテノールが唱和する。
Libera Me(我を救い給え)
Libera me︵我を救い給え︶
ハ短調、モデラート
ソプラノ独唱が無伴奏で開始され、合唱が追随する。1869年頃作曲した﹁ロッシーニのためのレクイエム﹂のヴェルディ作曲部分の転用。
Dies iræ︵怒りの日︶
既出部分の再現。
Requiem æternam︵レクイエム︶
既出部分冒頭の再現。
Libera me︵我を救い給え︶
再びソプラノと合唱。
初演と各地での再演
初演はマンゾーニの一周忌に当たる1874年5月22日、ミラノ市のサン・マルコ教会で挙行された。この教会は音響が良いことからヴェルディ自身が選択したと伝えられる。指揮はヴェルディ自身、管弦楽はスカラ座のオーケストラを中心とする100名、合唱は120名という。ソリストはテレーザ・ストルツ︵ソプラノ︶、マリア・ヴァルトマン︵メゾソプラノ︶、ジュゼッペ・カッポーニ︵テノール︶、アルマンド・マイーニ︵バス︶である。うちストルツ、ヴァルトマン、カッポーニは1872年に行われた﹃アイーダ﹄イタリア初演︵スカラ座︶で主役を歌った3人であり、またストルツはこの頃ヴェルディの公然の愛人でもあった。
3日後の第2回目の公演からは会場をスカラ座に移し、ヴェルディが1度、若手ながら名指揮者のフランコ・ファッチオがさらに2度の演奏を行った。
この﹁レクイエム﹂は宗教曲としては異例の素早さで他国でも再演された。アメリカにおける初演は1874年11月17日、ヴェルディの弟子でもあった指揮者エマヌエーレ・ムツィオのタクトの下、ニューヨーク、アカデミー・オヴ・ミュージックで行われた。その他、ヴェルディ自身が指揮したものだけを数えても、パリ、オペラ=コミック座では1874年だけで7回、翌年の1875年には8回の公演︵1875年はヴェルディがレジオンドヌール勲章︵コマンドール︶を受章することを記念したもの︶、ウィーンでは1875年に4回︵ヴェルディはそこでフランツ・ヨーゼフ勲章を受章︶、ロンドンでは3回の公演が1,200名の大合唱を用いてロイヤル・アルバート・ホールで挙行されている。
評価
このレクイエムには常に留保的評価、あるいはさらに進んで批判がつきまとっている。うち典型的なのは﹁あまりにイタリア・オペラ的﹂﹁ドラマ性が強すぎる﹂﹁劇場的であり教会に相応しくない﹂とする評価であろう。
実は初演時からそうした評価はみられた。たまたま初演日である1874年5月22日にミラノに滞在していたドイツ人指揮者︵であり熱烈なワグネリアン︶ハンス・フォン・ビューローは翌日の新聞にわざわざ声明を出して﹁私、ハンス・フォン・ビューローは昨晩サン・マルコ教会で演じられたスペクタクルに参加していなかった。フォン・ビューローはヴェルディの宗教曲を聴くべく参集した外国人の一員に数えられるべきではない﹂と宣言し、後にはこのレクイエムを﹁聖職者の衣服をまとった、ヴェルディの最新のオペラ﹂︵僧衣を纏ったオペラ︶と皮肉ったという。もっともヨハネス・ブラームスはこうしたフォン・ビューローの評を聞き、更には自らヴェルディの楽譜を検討した結果﹁奴は馬鹿なことを言ったものだ。これは天才の作品だ﹂と言ったとも伝えられる。︵ビューローは後にいくつかの演奏を聞いてから、﹁どんな下手な楽団員の手で演奏されても、涙が出るほど感動させられた﹂と評価を改めている。また、ブラームスの発言は、エドゥアルト・ハンスリックの同様の非難に対して向けられたものだとも言われている。︶
ロンドン初演時も﹁モーツァルトのレクイエム以来の傑作﹂とする新聞評もある一方で、﹁絶叫するばかりのコーラス﹂﹁怒号の連続﹂﹁正常な神経の持主がこの詩句と同時に受け入れることのできるメロディーはどこにも聴かれなかった﹂などと酷評するものもあった。
これらの批評のうちには妥当なものもあるだろう。オペラで培ってきた劇的表現はこのレクイエムにも随所にみられるし、ヴェルディ自身が第2回公演以降は演奏場所をスカラ座に移したことからみても、彼自身このレクイエムを﹁教会の音楽﹂というより﹁劇場、あるいはコンサートで演奏すべきもの﹂と考えていた可能性が高い。もっともヴェルディは
﹁このミサ曲をオペラと同じように歌ってはいけません。オペラでは効果のあるかも知れない音声装飾(coloriti)はここでは私の趣味ではないのです﹂︵1874年4月26日、ジューリオ・リコルディ宛書簡︶
とも述べており、彼がオペラとこのレクイエムを完全には同一視していなかったのもまた事実である。
また演奏場所の点では、今日では﹁モーツァルトのレクイエム﹂、﹁フォーレのレクイエム﹂なども含めてその殆どはコンサート・ピース化しており、ヴェルディのこのレクイエムだけをことさら批判するのは不公平というものだろう。
ヴェルディのもっともよき理解者であった妻ジュゼッピーナは、夫のレクイエムに寄せられた多くの賛否の評論に辟易して次のような書簡を友人に送っている。
﹁人々は宗教的精神がモーツァルトの、ケルビーニの、あるいは他の作曲家のレクイエムに比べて多いの少ないの、などと論じています。私に言わせれば、ヴェルディのような人はヴェルディのように書くべきなのです。つまり、彼がどう詩句を感じ、解釈したのかに従って書くということです。仮に宗教にはその始まり、発展そして変化というものが時代と場所に応じてあるのだ、ということを認めるならば、宗教的精神とその表現方法も、時代と作者の個性に応じて変化しなければならないでしょう。私自身はヴェルディのレクイエムがA氏の、B氏のあるいはC氏の影響を受けなければならないのだとしたら、そんなものは懲り懲りです。﹂
参考文献
- Scott L. Balthazar(Ed.), "The Cambridge Companion to Verdi", Cambridge Univ. Press (ISBN 0-521-63535-7)
- Julian Budden, "The Operas of Verdi (Volume 3)", Cassell, (ISBN 0-3043-1060-3)
- George Martin, "Aspects of Verdi", Robson Books, (ISBN 0-86051-518-4)
- Charles Osbone, "The Complete Operas of Verdi", Indigo, (ISBN 0-575-40118-4)
- Giuseppe Verdi, "Messa da requiem", critical edition by Marco Uvietta, Bärenreiter Verlag, Kassel, 2014