山田わか

日本の女性運動家 (1879-1957)

  187912121 - 19573296
1937127


略歴

編集

18791231618189730190033[1]190336190639

1849-1926稿1934954 1937123[2]

業績

編集

評論家

編集

1906391911441913211稿

母性保護運動・母子福祉活動 

編集

1916年(大正5年)2月に「青鞜」が廃刊となり、それまでの「青鞜」メンバーはある者は母性保護運動に、ある者は婦人参政権運動に、そしてまたある者は社会主義的婦人運動へとおのおのが自身の主張した方向へとその舵を取っていったのである。母性保護論争は1918年(大正7年)、与謝野晶子、平塚らいてう、山田わか、山川菊栄が参加し、約1年に亘り繰り広げられ、論争は四つ巴となって展開して行った。その争点は「女性の育児と就労は両立できるか」にあり、晶子は両立可能とし、母子に対する国の経済的保護は必要ないとした。らいてう、わかは両立は不可能とし国の保護の必要を訴えた。この母性保護論争を発端にわかは1934年(昭和9年)、母性保護連盟の初代委員長になった。この母性保護連盟における活動はわかの社会事業への船出となり、委員長就任の翌年、社団法人「母を護るの会」を立ち上げる。

その後、母子保護法公布(1937年(昭和12年))の2年後の1939年(昭和14年)には困窮母子を支える「幡ヶ谷母子寮」と「幡ヶ谷保育園」を完成させた。1945年(昭和20年)の東京大空襲で施設も自宅も灰になり、街には浮浪児や売春婦があふれ大きな社会問題になっていた。そんな折、連合軍総司令部は「公娼制度廃止」の方針を示した。これを機にわかは、1947年(昭和22年)、婦人保護施設「幡ヶ谷女子学園」の名で施設を再開した。なお、戦時の日本やドイツのナチズムなどを礼賛するなど、重大な問題を残した。1952年(昭和27年)「母を護るの会」の看板が「婦人福祉会」になった後も理事長職にあったが1957年(昭和32年)9月にその生涯を閉じた。享年77歳。

その他の活動

編集

19316519327330[]

193712使1271941163使[]

193510

194217

194722

195732

197449 

著書

編集
  • 1919年『女・人・母』、森江書店
  • 1920年『婦人の解放と性的教育』、東洋出版
  • 1920年『愛と生活と』、三徳社
  • 1920年『恋愛の社会的意義』、東洋出版社
  • 1920年『愛と生活と婦人と社会問題』
  • 1920年『社会に額ずく女』、耕文堂
  • 1922年『家庭の社会的意義』、近代文明社
  • 1927年『昭和婦人読本(処女編)』、文教書院
  • 1927年『昭和婦人読本(家庭編)』、文教書院
  • 1927年『現代婦人の思想とその生活』、文教書院
  • 1932年『新輯女性読本』、文録社
  • 1936年『私の恋愛観』、協和書院
  • 1937年『女性読本』、文録社
  • 1942年『戦火の世界一周記』、主婦の友社
  • 1942年『戦時下独逸国民生活』「旬刊日本講演」
  • 1993年『婦人と新日本』(復刻版)7巻揃、クレス出版
  • 1993年『婦人と新社会』(復刻版)第1〜10号、クレス出版

訳書

編集
  • 1920年『若き愛と智の自覚』 オリブ・シュライネル著、日本社
  • 1920年『八時間労働の理論と実際』 エドナー・ウィバー著、東洋出版社
  • 1928年『女』 マグダレン・マルクス著

関連人物

編集

メディア・ミックス

編集

演劇等

編集
  • 『あめゆきさん』TBS長編大作ドラマ(1979)三田佳子山田五十鈴秋吉久美子
  • 『百年の夢』[わかと嘉吉と信三郎の物語](2019)演劇集団THE素倶楽夢 Akira&YOSHIMIら   

参考文献

編集

 [3]2018

1999

71993
 192093193387160

[4]1980

参照・出典

編集


(一)^ Cameron House. Cameron House. 202272

(二)^ 12426 12-13p684

(三)^  http://www.gendaishokan.co.jp/goods/ISBN978-4-7684-5822-8.htm 

(四)^ https://iss.ndl.go.jp/books/R100000038-I000429851-00 

関連項目

編集

外部リンク

編集