田辺城 (丹後国)
日本の城
田辺城(たなべじょう)は京都府舞鶴市にある戦国時代から江戸時代にかけての城。別名は舞鶴城(まいづるじょう)。
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![]() 二層櫓 | |
別名 | 舞鶴城 |
城郭構造 | 輪郭式平城 |
天守構造 | 不明 |
築城主 | 細川藤孝 |
築城年 | 天正7年(1579年) |
主な改修者 | |
主な城主 | 細川氏、京極氏、牧野氏 |
廃城年 | 明治7年(1873年) |
遺構 | 石垣、堀、庭園 |
指定文化財 | なし |
再建造物 | 櫓・門・塀、模擬櫓 |
位置 | 北緯35度26分44.81秒 東経135度19分51.51秒 / 北緯35.4457806度 東経135.3309750度 |
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/a/ac/%E8%88%9E%E9%B6%B4%E5%9F%8E%E5%A4%A7%E6%89%8B%E9%96%80.jpg/240px-%E8%88%9E%E9%B6%B4%E5%9F%8E%E5%A4%A7%E6%89%8B%E9%96%80.jpg)
沿革
戦国時代
1578年︵天正6年︶織田信長の命によって守護大名の一色義道を滅ぼし、丹後を制圧した細川藤孝︵幽斎︶がこの地を与えられ、はじめは宮津城を居城としたが、畿内に近く交通の要所であった加佐郡田辺の地に、田辺城を築き、丹後経営の中心とした。隠居後は、子の細川忠興を入城させた。
田辺城攻防戦
詳細は田辺城の戦いを参照
1600年︵慶長5年︶関ヶ原の戦いが勃発すると、当主になっていた細川忠興は石田三成率いる西軍の誘いを退け、徳川家康率いる東軍に加勢した。
隠居していた藤孝は自分の居城である宮津城では西軍の攻勢を防げないと考え、宮津城を焼き払い、田辺城に入城、雲霞のごとく取り囲む西軍を迎え撃った。田辺城はすぐさま、石田三成の家老島左近の親族にあたる小野木重勝や豊臣家の重臣前田玄以の子前田茂勝が率いる西軍・1万5千人もの大軍で包囲されると、50日にも及ぶ長期戦となった。激闘の末、弾薬が尽きた藤孝は自身のもつ﹁古今伝授の書﹂が戦火で忘却されるのを恐れ、それを後陽成天皇に献上した。藤孝の戦死を憂いた後陽成天皇の仲介で西軍は攻撃をするのをやめ、命を助けられた話はあまりにも有名である。田辺城を開城した藤孝は敵将前田茂勝の丹波亀山城に入った。