飛騨川バス転落事故

1968年に日本の岐阜県加茂郡白川町で発生した土砂災害によるバス事故

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飛騨川バス転落事故(ひだがわバスてんらくじこ)は、1968年(昭和43年)8月18日未明、岐阜県加茂郡白川町河岐の国道41号において発生した土砂災害によるバス転落事故である[2]

飛騨川バス転落事故
「天心白菊の塔」から5号車が発見された飛騨川河岸付近を臨む。
場所 日本の旗 日本岐阜県加茂郡白川町河岐 上麻生ダム下流・南側約330メートルの国道41号・64.3キロメートル付近[1]
国道41号
座標

北緯35度33分37.0秒 東経137度11分2.6秒 / 北緯35.560278度 東経137.184056度 / 35.560278; 137.184056座標: 北緯35度33分37.0秒 東経137度11分2.6秒 / 北緯35.560278度 東経137.184056度 / 35.560278; 137.184056

日付 1968年(昭和43年)8月18日[2]
午前2時11分[2] (JST)
概要 国道41号(64.3キロメートル付近)で土砂災害の影響により走行不能に陥った観光バス2台が山斜面の沢で発生した土石流に押し流されて飛騨川に転落し水没。乗客乗員計107人が濁流に飲み込まれ消息不明となった。死者104人。負傷者3人[2]
原因 集中豪雨によって河岐山・西側斜面の沢(標高380メートルから490メートルの間)で発生した大規模な土石流[3]
死亡者 104人(うち遺体未発見者8人)[4]
負傷者 3人[4]
被害者 フリーペーパーが主催した観光バスツアーの客、添乗員、バス乗務員[2]
損害 岡崎観光自動車所属の観光バス2台[4]
対処 自衛隊、警察、消防などによる飛騨川・木曽川の下流域から伊勢湾までの範囲で48日間に亘る大規模な行方不明者の捜索活動を実施[5]。上流ダムの放流を一時的に堰き止め、飛騨川の水位を下げて捜索活動を敢行[6][7]。事故後に雨量通行規制の導入、道路管理の見直し、パトロールの強化、関連機関との連絡強化、気象通報の徹底などが図られた[8]
賠償
テンプレートを表示

152107104[2][12]

[13][12]

事故に至るまでの経緯

以下、時刻は24時間表記とする。国道41号のキロポスト数値(キロメートル=km)は事故当時のものを基準に記載する。2022年現在の事故現場のキロポスト数値は、事故当時よりも約4 km短くなっているが、起点は名古屋市東区泉1丁目の高岳交差点のままである。概略については後述の#時系列表を参照のこと。

タウン誌の「乗鞍雲上大パーティー 」計画


[1][2][14]710[2]3000[2][12][2][14]

3,000 m12,000[12][14][14]2750[2][12][14]

6225415[15]

8174221302241沿1833041030111418[2]160 km

728 - 29調[16]

当時の気象状況

 
41
 
200 m60.5 km64.5 km41

81750 km/h7[17][17]930[17]1110[2][17]1715[17]19[3]

西400 km7[17]湿湿km[17]20[18][19]2230[18][19]17231824175 mm[20]78 mm[16]149 mm[18][21]

[22]1043,3972357,345 ha[22]3,97917,890[22] - 15[22] - [22]419[22]3,200[22]145[22]

7[2]173[2]41沿[16][23]18303[15]17西150 m西[2][2]18便[15]202230[16]171715202451[24]

[16][25]

車団の出発から予定変更まで


773[26]

615[16]6[4]225[16]1[16]

1411[16] 210222015600 m[16]

22302240[16][16]2258NHK[16]

50 - 51km[16][16][16]231966.7 km[16][16]
 
4172.5 km76.5 km

233376.5 km[16]40[16][16]
 
4174 km78 km

[16]50 mm1.5 km78 km41[16]78 km[5][27]21[16]

2[16][28][25]20[29][25][30]

78 km[31][6][31][32][7][33]

帰路


8180515[27]4[4]10[27]5 km661[27]8992[27]
 
4162.6km66.6km

0171610 km66.8 km1866.7 km[27]1[27]2330[27]1[34][23]
 
JR4163 km67 km

269.6 km[35]8[35]0202[27]8[27][27]2[27][36]退[36][36]2[27]2[27]12[27]

0201665.25 km[27]64 cm20 cm[27][27]15[27][37]1[32]

0401 km64.17 km16[8][38]301[36][36]30退[36][23][39]162 km[40]

133退退[40]3退100 m[40]3退調[4][40]1656100 m[40]64.3 km西[40]

退164.45 km2[41][41]退161[41]

13564.3 km600 m64.8 km15064.6 km[40]16[40][42]

[40][40]

[30]2[30][30]64.3 km[40]姿退[43]

事故発生

 
4160.3 km64.3 km
 
41西2
 

164111137 mm41 mm[40]211[9][44][45]64.3 km西440 - 490 m[46]41606 - 695 m[46]100 m10 m[46]3,0007,000[1]10 t5001,0003036 km/h10 m/s[46]1 m[13]15 m[40][13][19]2[40]107[40]4150 m3 - 4 m30 m[13][47]15 m[13][48]740[1][12]2[23]11133[40][13][13][19]

[13]3[13][23]

21541[49][50][49]424[12][13]330[50]5[23]15020013[23]5[49][49]304[51]329540


事故後

救出作業

 
 
900 m
 
 

435[52]1008191030300 m323



[10][]

212280

2280

8:00 - 使

9:50 - 

10:00 - 

400 m301030退

調192615[11]24 t

調

823241

11937121,000

被害と影響


9,14191536,6832629888[53]91612501[54][]

8DNA

2369107104100 %33020414[55]

[12]43419726[55]





250 m41

[]

原因


21

1972[]



調[53][53]

調()   8.17 

天心白菊の塔

 
天心白菊の塔。事故現場付近の国道41号沿いに建立された。

196944818300 m41


 







43818211300 m4121041481718118
44818


1 km



818200233402008818602006

20104120212,000[56]

20225[57][58]741[57]202252124[59]818[60][60]

事故責任と補償

事故の責任を巡り、不可抗力による天災か、または道路設置者及び管理者である国の安全管理の瑕疵か、あるいはツアー主催者および旅行会社・バス会社の判断ミスによる人災であるのかが争点となった。

自賠法適用による補償


調101141015

刑事責任


9261146調簿62調196944325

損害賠償および国家賠償請求訴訟


911196944391404,080102

41

1969441214011952,3122,000[61]19734833014.49,3961,38430013

19734813197449112041退425530123124513211,900

事故後の対策

 
「飛水峡区間」の入口(白川町)に掲げられた雨量規制案内板。

[62] 姿1723417866.737.94164.17

819







1918196941

調5[62][62]沿

41354.7 km - 81.6 km87.7 km - 105.6 km110.5 km - 114.0 km60 mm80 mm19724780 mm120 mm41150 mm[13]

412

1969441091



沿

1969446101970451JARTIC[63][64]

抜本的道路改良へ


1980200820

4141[65]

6.2 km201830[65][66]沿[66]

時系列表

月日 時刻 動き
1968年
(昭和43年)
8月17日 9:30 岐阜地方気象台岐阜県下に大雨・洪水注意報を発表[17]
11:10 岐阜地方気象台、岐阜県下に大雨・雷・洪水注意報を発表[24]
17:15 岐阜地方気象台、岐阜県下の大雨・雷洪・水注意報を解除[18]
18:30 乗鞍岳バスツアー主催者、気象情報や定期観光バスの運行情報などを参考に判断し、ツアーの実施を決定[15]
20:00 岐阜地方気象台、岐阜県下に雷注意報を発表[18]
21:30 乗鞍岳バスツアー一行、愛知県犬山市成田山名古屋別院大聖寺に集合[16]
22:20 バスツアー一行、犬山市の集合場所を出発[16]
22:30 岐阜地方気象台、岐阜県下に大雨警報・洪水注意報を発表[18]。岐阜県下の美濃・飛騨地方で豪雨被害が出始める。
22:58 NHK名古屋放送局、ラジオで気象情報を放送[18]
23:00 加茂郡白川町(事故現場近く)三川小学校観測地点で時間雨量が100mmを超す。国道41号、各所で寸断される。
23:00 岐阜県警本部、加茂署内に「八・一七豪雨警備対策本部」を設置[67]
23:33 バスツアー一行、休憩地の岐阜県加茂郡白川町坂ノ東「モーテル飛騨」に到着[16]
8月18日 0:05 バスツアー主催者、悪天候による国道41号の道路状況悪化により、ツアー延期ならびに出発地へ引き返すことを決定。各務原市へ向けて出発[27]
0:17 一号車から七号車、国鉄高山本線・白川口駅前を通過[27]。その1分後に飛泉橋を通過[27]
0:20 八号車から十六号車、会社への連絡等で白川口駅前に停車[27]。対向車からの情報により、駅前で待機することを選択[27]
0:20 一号車から七号車、65.25km地点で小規模な土砂崩れに遭遇[27]。運転手ら土砂を取り除き、約15分で運行を再開[27]
0:40 一号車から七号車、64.17km地点で大規模な土砂崩れに遭遇し、運行不能に陥る[38]
1:00 巡回中の白川町消防団、64.17km地点で立ち往生している全車両に対して白川口駅方面への移動を勧告。一号車から七号車、勧告に従い移動を始める。
一号車から七号車、転回不能により後退で移動を開始[40]。他車の接触事故などによって後退不能になり、64.3km地点で五号車を先頭に六、7、3、2、1号車の順に飛騨川寄りの車線に停車する[40]
1:35 上麻生ダム付近の64.6kmおよび64.8km地点で新たな土砂崩れ発生[40]。一号車から七号車の6台、車列の前後を土砂で完全に塞がれ、国道41号上で走行不能となる[40]
2:11 飛騨川バス転落事故発生[40]。5号車・6号車、64.3km地点の沢で発生した土石流の直撃を受けて飛騨川に転落、濁流に飲み込まれて水没し消息不明となる[40]。行方不明者104人[40]。救出者3人[40]
2:15-5:00 上麻生ダムから白川派出所に「国道41号で異常発生」の第一報が入る[68]。警察官と消防団員、現場へ確認に向かうも一時的に断念[68]。運転手ら、上麻生ダム見張所に救援要請。見張所職員と消防団員、上麻生発電所に通報し、残余のバス乗客らを見張所および白川町中学校体育館に避難させる。上麻生発電所より岐阜県警本部に事故発生の通報が入る[68]。岐阜県警本部、機動隊員を事故現場に派遣[68]
5:40 白川派出所警察官、白川口駅の鉄道電話で岐阜県警加茂警察署に事故発生を通報[68]
岐阜県警本部、加茂署内にバス転落事故救難対策本部を設置[69]。岐阜県警機動隊員、消防隊員らが現場へ急行。岐阜県知事陸上自衛隊災害派遣要請を行い、守山駐屯地から自衛隊員が出動。行方不明者の捜索開始。
建設省、現地調査のため調査官を事故現場に派遣。事故原因究明と復旧対策に努める[70]
8月19日 2:00 右時刻までに23遺体を収容。
8:00-10:00 四日市市や鈴鹿市などの伊勢湾沖合、木曽川河口、知多半島に事故被害者の遺体が漂着する。第四管区海上保安本部、巡視船5隻で伊勢湾内を捜索開始。
10:30 五号車、事故現場から約300m下流の河岸中段に沈んでいる状態で発見。新たに12遺体が収容される。
12:00 政府、事務次官会議で事故の対策を協議し「岐阜バス事故対策連絡会議」を設置[71]。午後から局長・課長級で初会議を開催[72]。佐藤首相、内閣審議室と関係省庁間で救急対策会議を開き、自衛隊出動増強や遺族に対する補償措置を早急かつ適切に行うよう指示[73]
15:00-18:50 五号車引き上げのため、上麻生ダムのゲートを開放してダム水位を下げ、その後に19分間ゲートを閉鎖、飛騨川の水位を一時的に下げる措置が取られる。日没で作業中断。19日までに合計41遺体を収容。
8月20日 早朝より名古屋、四日市、鳥羽の各海上保安部が伊勢湾内をヘリコプターと巡視船を使って合同捜索。三重県警、警備艇で伊勢・鳥羽沖を捜索。警察官が海岸線を捜索。
9:00 五号車引き上げ作業再開。前日同様に上麻生ダムの水量を調整し飛騨川の水位を下げて引き上げ作業実施。バス車内から子供の遺体3体を収容。
17:00 五号車引き上げ作業を一時的に断念。六号車の捜索発見が優先される。20日までに合計57遺体を収容。
8月21日 0:00 六号車捜索のため、上流のダムを完全に閉鎖し、飛騨川下流の水流をゼロにする「水位零作戦」了承される。
陸上自衛隊豊川駐屯地海上自衛隊横須賀基地より六号車捜索のための増援部隊が招集される。21日までに合計68遺体を収容。
8月22日 8:00 第一次「水位零作戦」が開始される。上麻生ダム放流・名倉発電所全出力運転開始。
9:50 名倉発電所運転停止・名倉ダム放流開始。
10:10 上麻生ダム放流停止。飛騨川の水量がゼロになり、六号車が転落地点から約400メートル下流の川底から発見。バス車内から1遺体が発見される。
10:30 上麻生ダム満水になり、再び放流開始。
22日までに合計78遺体を収容。身元確認者は70遺体となる。
8月23日 第二次「水位零作戦」が開始される。23日までに合計80遺体を収容。
8月24日 第三次「水位零作戦」が開始。六号車が収容される。
下流にある飛水湖の捜索開始。
24日までに81遺体を収容。身元確認者は78人、行方不明者は23人となる[74]
8月25日 岐阜県、岐阜県警、自衛隊、消防団で組織する「四者捜索活動連絡会議」は、愛知県と三重県の協力を仰ぎ、捜索範囲を木曽川下流70キロメートルの範囲へ拡大することを決定[75]
25日までに合計83遺体を収容。身元確認者は80人、行方不明者は21人となる[76]
8月26日 26日までに合計86遺体を収容[77]。身元確認者は84人、行方不明者は18人となる[78]
8月27日 岐阜県対策本部は、三県合同による木曽川中流域から下流域にかけての大捜索活動を開始[79][80]
8月29日 12:00 岐阜県対策本部は、台風の影響により二日間にわたる三県合同の大捜索を一旦打ち切る[81]。天候回復で木曽川の水位低下が見込まれることから、30日以降も二日間の捜索延長を決定[82]
8月30日 美濃加茂市の木曽川河岸で釣り人が2遺体を発見、また名古屋港で水上警察が1遺体を発見、3遺体が収容される[83]。30日までに合計89遺体を収容。身元確認者は88人、行方不明者は15人となる[84]
9月2日 三県合同による木曽川中流域から下流域にかけての大捜索活動を2日間の予定で再開(2次大捜索)[85][86]。9月4日までに合計91遺体を収容。身元確認者は88人、行方不明者は13人となる。
9月4日 三県合同による木曽川中流域から下流域にかけての大捜索活動を5日間の予定で実施(3次大捜索)[87][88]
9月6日 岐阜県災害対策本部は、海上自衛隊横須賀基地・水中処理隊に対して、各務原市鵜沼と加茂郡坂祝村の境に位置する木曽川・河岸川底の水中捜索を依頼[89][90]。行方不明者発見には至らず[91]
9月11日 被害者遺族、名古屋市内で結成大会を開き「飛騨川バス事故遺族会」を結成[92]
9月16日 加茂郡七宗村の飛騨川河岸で通行人が子供の遺体を発見[93]。9月16日までに合計92遺体を収容。行方不明者は12人となる[94]
10月4日 自衛隊および警察・消防による三県(岐阜、愛知、三重)合同遺体捜索が打ち切られる[95]。第8次捜索・48日間で延べ44,000人を動員。92遺体収容、12遺体未発見[注 14][96]
10月11日 中曽根康弘運輸相、遺族に対し自動車損害賠償保障法による補償を行う方針を閣議で報告。閣議、これを了承する[97]
10月18日 秩父宮勢津子妃殿下、慰霊献花のため事故現場を訪問。
11月15日 名古屋自賠責査定所および元受損害保険会社2社は、遺族会代表から自賠責保険金の一括請求があったことから、閣議決定に基づき遺族へ保険金の支払いを開始した。遺族101人に対し総額2億6,595万円[98][99]
1969年
(昭和44年)
3月9日 第五回遺族会総会開催。主催者側(奥様ジャーナル・岡崎観光自動車名鉄観光サービス)との示談が成立する[100]
8月18日 14:05 飛水峡展望台に慰霊碑「天心白菊の塔」が建立され除幕式、同時に事故現場では「慈母観音像」の開眼供養が執り行われる[101]。同日、上麻生の飛騨川右岸で1遺体が発見される[101]
12月1日 遺族会、国の道路管理の責任を問い国家賠償請求訴訟(飛騨川バス転落事故訴訟)を名古屋地方裁判所に提起。
1973年
(昭和48年)
3月30日 国家賠償請求訴訟の第一審判決が名古屋地方裁判所で下る。「天災と人災の競合」による事故とされ、賠償額が請求額の14.4パーセントに抑えられる。4月9日、原告は判決を不服として名古屋高等裁判所控訴する[102][103]
1974年
(昭和49年)
11月20日 国家賠償請求訴訟の控訴審判決で名古屋高等裁判所は「事故は人災である」と認定し、原告遺族全面勝訴。国は上告せず判決が確定[104]
12月5日 原告へ国家賠償金の支払いが始まる[105]。損害賠償額4億0,255万余円のほかに、事故発生日から起算した利息分・約1億1,900万円を加えた合計5億2,104万余円が原告132人に支払[105]

補足




JR2231300 m[15]1 km2

1CTC[16]

10 - 912[17][106]

41

2018200469201988[107]

類似の事故


1951 - 28

1989 - 30515

1993 - 鹿鹿3

1996 - 2291131181120

脚注

注釈



(一)^ 19632014

(二)^ 

(三)^ 

(四)^ abc

(五)^ 1 m0.2 m10 m

(六)^ 76 km

(七)^ 12 km

(八)^ 83.5 m23.7 m417402 m0.5 m2 m

(九)^ 

(十)^ 

(11)^ 19643915.0 m13.2 m

(12)^ 1975

(13)^ 30199892590

(14)^ 19681044968

(15)^ 

(16)^ CTC1

(17)^ 

出典



(一)^ abc 1973, pp. 38, 47.

(二)^ abcdefghijklmnop 1973, p. 35.

(三)^  1973, pp. 38, 47, 6263.

(四)^ abc 1973, pp. 35, 38.

(五)^  12. 15: pp. 15. (1968105) 

(六)^  5姿 63. 1: pp. 01. (1968820) 

(七)^   6 . 15: pp. 15. (1968822) 

(八)^  1973, pp. 6162.

(九)^  . 1: pp. 01. (19681011) 

(十)^  40. 10: pp. 10. (1969310) 

(11)^    4. 1: pp. 01. (19741120) 

(12)^ abcdefg 2. : pp. 01. (1968818) 

(13)^ abcdefghij 2104. 1: pp. 01. (1968819) 

(14)^ abcde  . 14: pp. 14. (1968819) 

(15)^ abcd 1973, pp. 3536.

(16)^ abcdefghijklmnopqrstuvwxyzaaab 1973, p. 36.

(17)^ abcdefgh 1973, p. 52.

(18)^ abcdefg 1973, p. 53.

(19)^ abcd . 12: pp. 12. (1968819) 

(20)^  1975, pp. 21, 34, 38.

(21)^  1975, p. 34.

(22)^ abcdefgh 1973, p. 39.

(23)^ abcdefg . 13: pp. 13. (1968819) 

(24)^ ab 1973, pp. 5253.

(25)^ abc 1975, p. 41.

(26)^  1973, p. 5.

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オンライン資料

関連項目

外部リンク