川西航空機

第2次世界大戦期の日本の航空機メーカー

西[1]
川西航空機
Kawanishi Aircraft Company
略称 川西
設立 1920年
業種 輸送用機器
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九七式飛行艇

歴史

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日本毛織(ニッケ)の創業者川西清兵衛は、中島飛行機の創業者中島知久平が立ち上げた『飛行機研究所』に出資したが、1919年(大正8年)、金銭トラブルをきっかけに出資を引き上げ、別々の道を歩むことになる。


192092西西西

19283西西西[2]
 
194823 X使 

19305西西19316KF19338

1938年(昭和13年)に海軍管理工場となる。

また戦闘機の分野にも進出し、水上戦闘機強風、陸上戦闘機の紫電を開発。

1942年(昭和17年)、兵庫県武庫郡本庄村(現・神戸市東灘区)に鳴尾製作所の分工場となる甲南製作所(現・新明和工業甲南工場)が完成。また姫路市の国鉄播但線京口駅に近いところにあったニッケの工場が譲渡され、姫路製作所となった。


194318西使6[3]

1944198西西[4][5]44644

工場

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西JRA

4

西

西西
西

鹿鹿

[6]






西

1945年(昭和20年)3月、スパイ対策として軍の命令で社名を「神武秋津社」(じんむあきつしゃ)と変更させられる。さらに敗戦直前になって、全事業が海軍に取り上げられ「第二軍需工廠」となった。

戦後

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GHQ西西

1949年(昭和24年)11月新明和興業株式会社へ社名を変更した。良元村仁川の宝塚製作所跡地は鳴尾競馬場を引き継ぐ形で1949年(昭和24年)に阪神競馬場が建設された。

その後文字を変えて新明和工業となり、旅客機(YS-11)や飛行艇PS-1US-1)など航空機の製造を再開した。現在はUS-2の生産を行っている。

年譜

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  • 1918年(大正7年): 川西清兵衛と中島知久平中島飛行機創業者)が共同出資して、日本飛行機製作所設立。
  • 1919年(大正8年): 11月、川西が中島に日本飛行機株の引き取りを求め、中島が応じる。川西は日本飛行機製作所から手を引く。
  • 1920年(大正9年): 川西機械製作所航空機部として創業。清兵衛の次男の川西龍三が責任者となる。
  • 1928年(昭和3年): 川西航空機株式会社設立。
    • 川西一二型『桜号』を使った世界初の太平洋横断無着陸飛行を目指すが結局中止に終わる。

      19316: 

      19327: 4

      19338: 

      19349: 

      193611: 

      193813: 

      193914: 

      194116
      10 [7]

      12 

      194217
      2 

      5 

      7 

      10 

      194318: 

      194419: 

      194520
      3 

      4 

      73

      8 

      194621: 

      194722: 

      194823: 西

      194924
      11 

開発・生産した航空機

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KX-3 - 



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西

関連項目

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参考文献

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脚注

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  1. ^ Wragg, David W. (1973). A Dictionary of Aviation (first ed.). Osprey. p. 172. ISBN 9780850451634 
  2. ^ 世界注視の標的 横断機を生むところ 川西飛行機製作所のその中で
  3. ^ 戦時下の神戸、飛行機軍需村の記憶
  4. ^ 鶉野飛行場跡(姫路海軍航空隊、川西航空機姫路製作所鶉野工場跡)
  5. ^ 紫電改入門―最強戦闘機徹底研究 (光人社NF文庫)ISBN 978-4769824039
  6. ^ 松下幸之助の生涯 75.軍の要請で松下飛行機(株)を設立 1943年(昭和18年) - パナソニックホームページ。
  7. ^ 鶉野飛行場跡ガイドブック 川西航空機工場 - 加西市教育委員会HP。