招き猫
商売繁盛の縁起物とされている猫の置物
概要
編集
右手︵前脚︶を挙げている猫は金運を招き、左手︵前脚︶を挙げている猫は人︵客︶を招くとされる。両手を挙げたものもあるが、“欲張りすぎると﹁お手上げ万歳﹂になるのが落ち”と嫌う人が多い。一般には写真のように三毛猫であるが、近年では、地の色が伝統的な白や赤、黒色の他に、ピンクや青、金色のものもあり、色によっても﹁学業向上﹂や﹁交通安全﹂︵青︶、﹁恋愛﹂︵ピンク︶など、意味が異なる。黒い猫は、昔の日本では﹃夜でも目が見える﹄などの理由から、﹁福猫﹂として魔除けや幸運の象徴とされ、黒い招き猫は魔除け厄除けの意味を持つ。また、赤色は疱瘡や麻疹が嫌う色、といわれてきたため、赤い招き猫は病除けの意味を持つ。[要出典]
福の字が逆さまに書かれていることがあるが、これは倒福を参照。
由来
編集招き猫の由来にはいくつかの説がある。
今戸焼丸〆猫(まるしめのねこ)説
編集詳細は「丸〆猫」を参照
今戸焼説
編集
江戸時代の地誌﹃武江年表﹄嘉永5年︵1852年︶の項には浅草花川戸に住んでいた老婆が貧しさゆえに愛猫を手放した。すると夢枕にその猫が現れ、﹁自分の姿を人形にしたら福徳を授かる﹂と言ったので、その猫の姿の人形を今戸焼︵今戸人形︶の焼き物にして浅草神社︵三社様︶鳥居横で売ったところ、たちまち評判になったという。[1]また古い伝世品や遺跡からの出土品から江戸時代の今戸焼製招き猫の存在は確認でき、上記嘉永5年の記述と符合する。記録では浅草寺および浅草神社︵旧・三社権現︶にゆかりのものである。︵上記の今戸焼丸〆猫説参照︶
有坂与太郎﹃郷土玩具大成﹄によれば、今戸は招き猫の唯一の生産地としており、最盛期は文化文政年間︵1804年ー1830年︶になってからであるとし、当時猫と狐は今戸人形を代表する観さえ呈している、という。
これとは別に、平成のはじめ頃より、浅草今戸に鎮座する今戸神社が、平成の招き猫ブームや縁結びパワースポットブームに乗り、自ら﹁招き猫発祥の地﹂として看板を掲げ、多くの招き猫が奉られるようになった。その論拠は、旧今戸八幡が今戸焼の産地である浅草今戸町の産土神であったことによるものであるが、古い文献等には招き猫と今戸神社︵昭和12年︵1937年︶に旧今戸八幡と旧亀岡町白山神社とを合祀︶との結びつきを示す記録は見当たらず、平成の招き猫ブームや新・縁結びパワースポットブームに伴い、マスコミなどに対し発祥の地を名乗るようになった。現在神社本殿に祀られている大型の招き猫は、戦後の常滑産招き猫の形状を参考に造形されたものであり、社務所より授与されている招き猫の形状は、陶器製・磁器製のものどちらも江戸から明治の今戸焼製の伝世品や遺跡からの出土品とは異なるものであり、時代考証的にも伝統性のない、現代の創作品である。
豪徳寺説
編集
東京都世田谷区の豪徳寺が発祥の地とする説がある[2]。
江戸時代に彦根藩第二代藩主井伊直孝︵藩主1602年 - 1659年︶が、鷹狩りの帰りに弘徳院という小寺の前を通りかかった[注釈1]。その時この寺の和尚の飼い猫が門前で手招きするような仕草をしていたため、藩主一行は寺に立ち寄り休憩した。すると雷雨が降りはじめた。雨に降られずに済んだことを喜んだ直孝[3]は、寛永10年︵1633年︶、弘徳庵に多額の寄進をし井伊家の江戸の菩提寺と定め、弘徳庵は大寺院の豪徳寺[注釈2] となった。歴代藩主や正室の半数ほどの墓所が存在し、幕末の藩主で桜田門外の変で暗殺された大老井伊直弼の墓も豪徳寺にある。
和尚はこの猫が死ぬと墓を建てて弔った。後世に境内に招猫堂が建てられ、猫が片手を挙げている姿をかたどった招福猫児︵まねぎねこ︶が作られるようになった。
また、同じ豪徳寺説でも別の話もある。直孝一行が豪徳寺の一本の木の下で雨宿りをしていたところ、一匹の三毛猫が手招きをしていた。直孝がその猫に近づいたところ、先ほど雨宿りをしていた木に雷が落ちた。それを避けられたことを感謝し、直孝は豪徳寺に多くの寄進をした、というものである。
これらの猫をモデルとした著名なキャラクターが、井伊家の居城であった滋賀県彦根市の彦根城の築城400年祭マスコット﹁ひこにゃん﹂[4]である。
招き猫は一般に右手若しくは左手を掲げ小判を掲示しているが、豪徳寺の境内で販売されている招き猫は全部右手︵右前足︶を掲げ、小判を持っていない。これは商家ではなく武家である井伊家の菩提寺であるためであるとされる。豪徳寺は小判を持っていない理由として﹁招き猫は機会を与えてくれるが、結果︵=この場合小判︶までついてくるわけではなく、機会を生かせるかは本人次第﹂という考え方から、としている。ただしもっとも古例である上記の丸〆猫はそもそも小判は持っていない。
自性院説
編集
東京都新宿区の自性院が発祥の地とする説がある。
ひとつは、江古田・沼袋原の戦いで、劣勢に立たされ道に迷った太田道灌の前に黒猫が現れて手招きをし、自性院に案内した。これをきっかけに盛り返すことに成功した太田道灌は、この猫の地蔵尊を奉納したことから、猫地蔵を経由して招き猫が成立したというもの。
もうひとつは、江戸時代中期に、豪商が子供を亡くし、その冥福を祈るために顔が猫面の﹁猫地蔵﹂を自性院に奉納したことが起源である、とするもの。
どちらにせよ﹁猫地蔵﹂の発祥話であり、本来は招き猫像に繋がる話ではない。
西方寺説
編集
東京都豊島区の西方寺が発祥の地とする説がある。
かつて当寺が吉原遊廓に近い浅草聖天町に所在していた頃、吉原に薄雲太夫という花魁がいた。彼女は﹁玉﹂と名付けた一匹の猫を可愛がっていたが、ある日、太夫が厠に入ろうとすると、猫が着物の裾を噛んで離さなかった。駆けつけた楼主の治郎衛門が猫の首を切り落とすと、猫の首は厠の下溜めへと飛び、潜んでいた大蛇を噛み殺した。薄雲太夫は自分を守ろうとした猫を死なせてしまったことを後悔し、西方寺に猫塚を祀り、また愛猫を失い失意の太夫に馴染み客が贈った猫の木彫像[注釈3]を大切にし、太夫の死後に西方寺に寄進された。これが縁起物として広まった、とするものある。なお、当寺は江戸時代末期に火災で全焼し同像も焼失したとされる。
伏見稲荷説
編集その他
編集招き猫の現在
編集日本国外の招き猫
編集
中国でも街角にて、手を振る機能を備えた、金色の招き猫を見ることがある。多くは左手に“千両小判”を持っている。台湾では1990年代の日本文化ブーム以来、日本と同じ型の招き猫を店先やレジスターの後ろなどに置いている店が多い。アメリカ合衆国ニューヨークの中国人街では招き猫はポピュラーな存在であり、レストランの入り口などに日本のものとほぼ同じ型の招き猫がよく置かれている。
招き猫はアメリカでも人気があり、お土産用や輸出用としても製作されている。これらは "welcome cat" や "lucky cat" と呼ばれる︵特にドル硬貨を抱えたものを "dollar cat" と呼ぶ︶。ただし、手の方向が日本と逆向きで、手の甲に当たる部分を前に向けている。これは手招きする手のジェスチャーが、日本とアメリカでは逆である︵英語圏では手のひらを相手に向ける日本の招き方だと﹁失せろ﹂になる。日本における﹁しっしっ﹂と動物などを追い払う動作︶という文化の相違に起因する。
招き猫にちなんだもの
編集
和歌山電鐵貴志川線の貴志駅では、招き猫になることを期待され、三毛猫の﹁たま﹂が駅長︵のち、執行役員駅長︶に任命されている。このたま駅長をモデルにして、愛知県瀬戸市の招き猫メーカーが制作した特製の招き猫が貴志駅に贈られており、これは乗降客の増加を願う意味から左手を上げる形となっている。
成瀬善久投手は東京ヤクルトスワローズ時代、その招き猫のような投げ方から、投球フォームに招き猫投法というニックネームをつけられた。
常滑市の公式マスコットキャラクター﹁トコタン﹂は招き猫をモチーフとしている[7]。
上記の豪徳寺近くを通る東急世田谷線は2017年︵平成29年︶9月25日から2018年︵平成30年︶9月末まで、開業110周年記念として﹁幸運の招き猫電車﹂を運行している[8][9]。
脚注
編集注釈
編集出典
編集
(一)^ 遠藤薫 (9 2018). “幕末から維新期における社会変動と大衆の無意識 ―招き猫と化け猫騒動―”. 学習院大学法学会雑誌 54(1): 49.
(二)^ “招き猫の由来”. トクする日本語. 日本放送協会. 2015年1月14日閲覧。
(三)^ “豪徳寺と招福猫児”. 大谿山 豪徳寺. 2023年7月5日時点のオリジナルよりアーカイブ。2024年1月9日閲覧。
(四)^ ﹁︵あのとき・それから︶1993年招き猫愛好団体設立姿も願いも、膨らみ続ける﹂﹃朝日新聞﹄、2017年1月4日、夕刊、4面。
(五)^ 日本経済新聞 1995年9月21日日刊 中部版 p.7
(六)^ 朝日新聞 2002年2月14日朝刊 三重版 p.22
(七)^ 常滑市公式キャラクター﹁トコタン﹂プロフィール|常滑市
(八)^ 玉電開通110周年記念イベントを実施〜招き猫のラッピングや招き猫型吊り手の﹁幸福の招き猫電車﹂を運行〜 (PDF) - 東京急行電鉄プレスリリース︵2017年8月31日︶
(九)^ 玉電開通110周年記念 幸福の招き猫電車の運行を9月末まで延長。 - 東京急行電鉄、2018年3月12日
関連項目
編集外部リンク
編集- 招き猫美術館
- 吉兆招福亭(約千種類の招き猫専門店)
- 招き猫ミュージアム
- JazzBarサムライ(招き猫数多1980〜2000の蒐集)
- 東京の土人形 今戸焼!? 今戸人形? いまどき人形 - ウェイバックマシン(2011年7月3日アーカイブ分)